「痛っ」 私の手の平と共に、思い切りよく右を向いて、野口は小さく声を上げる。 グーにしなかっただけありがたいと思ってほしい。 痩せ細って弱っている相手だったので、一応理性を効かせたのだ。 「あんた、ほんっと、馬鹿だろ!馬鹿!大馬鹿!」 睨みつけて怒鳴ると、しかし野口は不満そうに頬を抑える。 拗ねた子供のように、唇を尖らせた。 「………殴らないって、言ったのに」 「殴らないでいられるか!」 「嘘つき」 「あんたの方が嘘つきじゃん!」 「俺は嘘はついてないよ」 いっつもそうだ、こいつはこういう言い方ばかりする。 嘘をついてないからいいってもんじゃない。 「あんなの、嘘と一緒だろ!」 私が勘違いするって分かって言ってるんだから、そんなの嘘と一緒だ。 どうして私が嫌いになったような言い方をしたんだ。 どれだけ私が、傷ついたのか、こいつは分かっているのか。 頂点からどん底まで叩き落とされて私の気持ちが、分かるのか。 「………っ」 感極まって、ボロボロと涙が出てきてしまう。 悔しい。 泣きたくなんて、ないのに。 泣いてすがるようなことは、したくないのに。 野口が私の顔を見て、酸素が足りないように唇を震わせて息を吸う。 頬を抑えていた手で、顔を覆う。 そして吐き捨てるようにして言う。 「………もう、いいんだよ」 「何が、いいんだよっ!勝手に、一人で、完結すんな!」 「………もう、嫌なんだよ」 「何が!」 詰め寄って、顔を覆う手を無理矢理引きはがす。 されるがままに、野口は手をだらりと垂らした。 「あんたを、傷つけたりしたくない」 眼鏡のない顔は、いつもよりどこか幼く見える。 けれどいつもと同じように、感情の見えない目が、じっと私を見ている。 最近ずっと逸らされていた目が、私を見ている。 「あんたと離れてる時間に、耐えられない。もっともっと縛りつけたくなる。ずっとベッドの上で二人でいたい。一分一秒だって離れたくない。あんたが家に帰るのすら、許せなくなりそう。あんたが俺のいないところで呼吸しているのが、たまらなく寂しい。本当に手と足を切り落として、ずっと傍に置いておきたいとすら思う」 ディープ過ぎる言葉の意味とは裏腹な、冷たい目と淡々とした口調。 そして目と同じように冷たい手が、私の喉をそっと掴む。 ひやりとした感触に、体が少し震えた。 「………の、ぐち」 頸動脈を確かめるように撫でてから、ぐっと力を込められる。 わずかな圧迫は、苦しくはないが、本能的な恐怖に身を引きたくなる。 野口は、じっと私を、見ている。 「このまま、この手に力を込めたら、楽になれるかな。あんたが最後に見ているのは俺なんだ。網膜に焼きつけられるのは、俺。そして他の誰も見なくなるなら、どんだけ幸せなんだろう。あんたの最後の一呼吸まで、全部全部、俺のものだ」 淡々と、どこか遠い目で、とんでもないことを言っている野口。 私は、何も言えない。 何を言ったらいいか、分からない。 ただ、身を引かないようにして、濡れたままの目で野口を見返すだけだ。 このまま、この手に力を込められた、どうすればいい。 私はどうしたい。 「………ドンビキだろ?」 けれど考えに答えが出る前に、野口は小さく笑って、その手を引いた。 喉の圧力が消えて、私は大きく息を吐きだす。 二度、三度、深呼吸をしてから、返す。 「………ドンビキだよ」 本当にドンビキだ。 予想以上に変態すぎて、本当にドンビキだ。 どうして同い年で、普通の高校生やってて、こういう思考回路になっちゃうんだろう。 野口は私の答えに、自嘲するように苦く笑う。 「だから、今のうちに、離れたい。苦しい。怖い。俺だって、もう刃傷沙汰は嫌だ。自傷でとどまればいいけど、あんたを傷つけたりなんて、したくない」 私を傷つけて、縛り付けたいと言う野口。 けれど傷つけたりしたくないという野口。 「ね、だからお願いだから、放っておいて。頼むよ」 うっすらと笑う顔は、けれどやっぱり苦しそう。 眼鏡がないせいか、子供のように頼りなく感じる。 「きっと、諦められるから。大丈夫だから。あんたに、迷惑は、かけないから」 弱々しく哀しそうな野口に、胸が締め付けられる。 なんか、まるで私がいじめているようだ。 もう分かったよって、言いたくなる。 だからもう、そんな苦しまないでって言いたくなる。 けれど、そんなの、認められるはずがない。 「勝手すぎるっ!」 「………うん」 「なら、最初から、私を好きだなんて、言うなよ!付き合ってとか、言うな!」 散々好きだのなんだの言って、振り回して、こっちが靡いてヤったらポイって最低すぎる。 どんな理由だろうと、許せない。 人のことをなんだと思ってんだ。 こいつが私のことを好きだなんて言わなければ、私はこんなに弱くならなかったのに。 こんなに、苦しい思いしなくて済んだのに。 「ごめん」 「謝るぐらいなら最初からすんな!」 それなら、最初から、私になんて構わないでくれたらよかった。 そうしたら、こんなにみっともなくなんて、ならなかった。 「………だって知らなかったんだ」 「何が!」 「好きって気持ちが、育つものだなんて」 野口がそっと、目を伏せる。 ぽつりぽつりと、言葉を続ける。 「今までの恋は、いつだって一目惚れに近くて、最初から大きかったんだ。あんたには、そこまで大きくなかったのに、いつのまにか、溢れかえるほどに、なってた」 唇を歪ませて、子供が描いた失敗した絵のような、笑顔を作る。 胸が押さえるようにシャツを握りしめる。 「気が付いたら、俺の中が、あんたでいっぱいになってた」 最初から、好きだなんて、言われなかったら、苦しい思いなんてしなかった。 付き合ってだなんて言われなかったら、こんなみっともないことしなかった。 「………本当に、ごめん。だから、お願いだから、傷つける前に、俺のことなんて忘れて」 こんな胸を締め付ける熱い感情は知らなかった。 弱々しく笑う目の前の男を、抱きしめたくなる衝動なんて知らなかった。 「遅い!」 でも、もう知ってしまった。 もう忘れることなんてできない。 そんなものは、もう無理なんだ。 「もう、傷つけられてるよ!」 「………ごめん」 「苦しくって、辛いよ!」 「でも、これ以上、傷つくことは、ないよ」 「たった今!今現在!これ以上ないほど、傷ついている!」 野口が、ふっと困ったように笑って、私の頬に触れるか触れないかの位置で手を添える。 産毛を撫でるような感触に、ゾクゾクと寒気が走って、体が熱くなる。 「大丈夫、あんたならまた好きになってくれる奴、すぐできるよ。こんな変態より、もっといい奴」 「………っ」 「あんたのいいところ、ちゃんと認めて、肯定して、優しくしてくれる、いい奴」 確かにあんたは私のいい所なんて教えてくれなかった。 優しくなんてなかった。 いつだってひどかった。 いっつもけなしてばかりだった。 悪口なんだかなんなんだか分からない言葉で、嬲られるばかりだった。 「色々ひどいこと言って、ごめん。あんたかわいいよ。少し卑屈で卑怯で天の邪鬼でも、かわいい。大丈夫、すぐにあんたのこと大事にしてくれる奴、見つかる」 だからお前はけなしてんだか褒めてんだかどっちなんだ。 そして、もう我慢できない。 「アホか!!」 私は思い切り、もう一度馬鹿なことばっかり繰り返す男の頬を貼り倒すと、パシッといい音がした。 野口の頬がより一層赤くなる。 もういっそ、グーにしてやればよかった。 「痛い」 「私の方が、痛い!すっごい痛い!」 野口が頬を抑えてぼそりと不満を漏らす。 けれど、こいつの言葉の方が暴力だ。 私と叩きのめして立ち直れなくしようとする、暴力だ。 「他の奴なんて、いらない!いい奴なんていらない!」 「………」 「あんた以外、いらないんだよ!」 もう手遅れなのだ。 これ以上傷つかない、なんてことない。 これ以上傷つくことなんて、あり得ない。 だって。 「………あんたに捨てられること以上に、痛いことなんて、ない」 こいつのどんな変態な発言を聞いても、馬鹿だと思いながらも胸が痛くなる。 こいつがまだ私のことを好きだと思うと、飛び上がりたくなるほど、嬉しい。 本当に私は、どこまでも馬鹿だ。 ちょっと前までの私だったら、殴り倒してこいつのことなんて捨ててやったのに。 「………なんで?」 無理矢理絞り出した言葉に、野口が頬を抑えたままきょとんとした顔で首を傾げる。 それにまた頭に血が上った。 もう一度殴りそうになるのをぐっと抑える。 「喧嘩売ってんの!?」 「いや、今は売ってないけど」 今はってどういう意味だよ。 いつもは売ってたのかよ。 まあ、売られてたけどさ。 「あんたのこと好きだって言ってくれる奴いなくなるのは、一時辛いかもしれないけど、多分すぐにいい奴、出てくるって」 「だからお前はどこまで頭沸いてるんだよ!」 そんなに他のいい奴とやらに私を押し付けたいのか。 わざと言ってるのだろうか。 私は、好きだって言ってくれる人が欲しいんじゃない。 止まっていた涙が、また溢れてくる。 「他の誰か、なんていらない!好きな奴と、一緒にいたい!私は、一番好きな奴が、いい!」 私は、野口が、欲しいのだ。 好きだって気持ちが育つだなんて知らなかった、なんて私も一緒だ。 どうしてこんな馬鹿を、こんなになるまで、好きになってしまったんだ。 「………一番好きな奴って、俺?」 耐えきれずにもう一回殴った。 左頬が赤くてちょっと可哀そうだったので、胸に拳を叩きつけた。 野口は小さく咳き込むが、それでも不思議そうに瞬きをする。 「この状況で他に誰がいるんだよ!」 「三田は、俺が好きなの?」 「今更何言ってんだ!死ね!馬鹿!」 やっぱりからかわれているのだろうか。 好きだなんて言われてたのは、冗談だったんだろうか。 今までの言葉も全部、嘘だったのだろうか。 そんなことすら思ってしまう。 苦しい、もどかしい、なんで、伝わらない。 「………だって、好きだなんて、言ってもらったこと、ない」 野口は至近距離で私を見下ろしたまま、ぼそりと言った。 一瞬、何を言われたのか分からなくて、涙がぴたりと止まってしまう。 「え」 「あんた、俺のこと好きだなんて、言ったことない」 「え、あれ?」 「………」 冷たい感情を映さない目が、じっと私を見ている。 私は鼻をすすりながら、ちょっとだけ目を逸らす。 「………言ってなかった?」 「ない」 「………」 「………」 あれ、言ってなかったっけ。 本当に言ってなかったっけ。 いや、でも、今はそういう問題じゃない。 「わ、分かるだろ!そんなもん!付き合うって言って、キスして、えっちして!そんなもん、好きに決まってるだろ!」 私は好きでもない男にそんなことさせるほど、割り切れる女じゃない。 気持ち悪いぐらいに夢見る乙女だ。 好きな人と、キスしてえっちして、いちゃいちゃしたいって思う、乙女だ。 野口が、ゆるゆると首を振る。 「………分かる、けど。多分、そうなんだろうなって、分かってたけど、でも、流されてるだけかも、とか。あんた押しに弱いから」 「確かに、弱い、けど、でも、それだけで処女捨てられるか、馬鹿野郎!」 「だって」 まだ何かを言い募ろうとする野口の言葉を遮るように、私は胸に置いたままだった手で野口のシャツを握りしめた。 「好きだよ!あんたが好きなんだよ!あんたみたいな自分勝手で最低な変態が、好きなんだよ!馬鹿!」 自分でも趣味が悪いと思う。 絶対こいつじゃない方が幸せになれると思う。 それでも、こいつがいいって思っちゃうから、仕方ないじゃないか。 どんなに苦しくても、こんな風に追いすがるぐらい、好きになっちゃったんだから。 「………」 「だから、別れたくない!あんたと一緒にいたいんだよ、この変態!」 「………俺が、好き?」 「好きだってば!」 まるで喧嘩を売っているかのような告白に、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきてしまう。 何を言っているんだ、私は。 夢見ていた告白シーンは、誰もいない放課後の教室なんかで、好き、とか言っちゃったりするような感じだったのに。 藤原君の時はそうだったっけ。 なんで、こんなことになってるんだろ。 野口となんか、もう何もかも済ませているのに。 言葉だけ、告げていなかったなんて。 気付いても、なかった。 こんなに、好きなのに。 「………三田、ずるい」 「何が!」 ぼそりとつぶやく小さな声に、喧嘩腰で怒鳴りつけてしまう。 そんなもん、言って欲しかったらさっさと言え。 どうでもいいことはものすごい饒舌なくせに、肝心なところで言葉が足りない。 「………ずるいよ」 もう一度繰り返す野口に言い返そうとして、息をのむ。 野口がそっと目を伏せると、白い頬に一筋、涙が伝う。 「………嬉しい」 目を閉じたまま、野口は噛みしめるようにそう言った。 |