目を伏せたまま、野口がはらはらと、涙を流す。
男の人が泣くところなんて、初めて見た。

「な、何泣いてるんだよ」

驚いて、思わずみっともなく声が震えて跳ね上がる。
野口が目を開けると、また一粒、大きな水の玉が零れ落ちる。
感情を映さない黒い目が涙で濡れて、キラキラと光っている。

「………だって、嬉しい」
「………っ」

私よりも震えた声で言って、野口が目を細めて笑う。
するとまた、涙がぽろりと零れる。
鼻の頭が赤くなって、頬は涙で濡れて、唇は震えている。
なんてみっともない、顔。
泣き顔なんて、誰だって、美香ぐらい美少女だったら違うかもしれないけど、でも、だいたいはブサイクになる。
野口だって、すっごいみっともない顔。
それなのに、私の心臓は大きく跳ね上がって、喉が乾く。

「俺、一番好きって、言ってもらったの、初めて」

野口が、たどたどしく言って、泣きながら、笑う。
そして一回ひっくと、しゃくりあげる。
鼻を啜りあげて、唾を飲み込む。

「………嬉しい」
「………」

私の一番、なんて、嬉しいのか。
そんなもので、いいのか。
私の言葉で、こんなにも、喜んでくれるのか。
泣くほど、嬉しいのか。

それが、私には、なによりも嬉しい。
もっともっと、早く言っておけばよかった。
いつも野口が言っていた通り、私は受け取るだけで、与えようとしてなかった。
本当にずるい、女だ。

「………好きって言われなかったのが嫌で、別れようって言った?」
「いや、それは違うけど」

違うのかよ。
いや、でも、言わなかったのは、私が悪い。
そこは、反省しないと。
野口はもう一度鼻を啜って、軽く涙を拭う。

「さっきも言った通り、愛が深まりすぎて、あんたを傷つけるのが、怖い」
「そんなの、やってみないと、分からないじゃん!」

確かに、手足切り落とされて監禁、なんて嫌だけど。
絶対ごめんだけど、でも、本当にそんなことするかどうかなんてわからない。
今までだって、うまくやってた。
こいつは確かに変態だけど、なんとかうまくやってたんだから、それでいいじゃないか。
野口はけれど真面目な顔で首を横に振る。

「いや、絶対、変なことやらかす」
「なんだよ、その断言」
「暴走する自信がある」
「そんな変な自信持つな!」
「だから辛い思いはさせたくないし、したくない」

どうでもいいところだけ、融通が効かない男だな。
いつもはあんなにふざけてるのに、変なところで気を使うな。
もっと別なところで気を使え。
どうしてこいつはこんなに意味不明な思考回路しているんだ。
本当に意味が分からない。
堂々巡りに、もういいよ、って投げ出したくなる。

「………」

でも、そんなこと、出来ない。
そんなこいつが、好きなんだから仕方ない。
一緒にいたいって、思っちゃったんだから、仕方ない。
それなら、なんとかして、繋ぎとめるしか、ない。

「じゃ、じゃあ」
「ん?」

何を言ったら野口の頑なになった心を解けるのかを必死で考える。
でも、うまい考えなんか浮かばない。
どうしたらいいのか、なんて、分からない。
もう、いい、出たとこ勝負だ。
考えるのがだんだん面倒になってきた。

「じゃあ、私が止める!」
「え?」

野口が呆けた顔で、首を傾げる。

「あ、あんた、言ったじゃん!あんたが馬鹿なことしたら、私が殴って止めてくれると思うって!」

そうだ、前にあのおっさんに会った時に言ったんだ。
こいつが、確かに言った。
馬鹿なことをしそうになったら、私が止めてくれると思った、って。

「だから、止める!あんたのこと、止める!変なことしたら、止める!」
「………」

野口はぽかんと口を開けて、私を見ている。
何か言われる前に、畳みかけるように先を続ける。

「だから」

もう、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、こいつはうるさいんだよ。
変態は変態らしく、いつも通り変態でいればいいんだ。
難しいことなんて、考えなくて、いいんだ。

「だから、黙って、あんたはいつも通り、私にしつこくついてくればいいんだよ!」

睨みつけて、怒鳴るようにして言葉を叩きつける。
野口は相変わらず、驚いたような顔をしていた。

「………」
「………」

リビングの中に、沈黙が落ちる。
外はもうすっかり夜になっているのだろう。
薄暗くて、ようやくお互いの顔が見えるぐらい。
沈黙の後、口を開いたのは、野口だった。

「………やだ、男前」

人がシリアスしてるのに、余りにもふざけた答え。
頭に一気に血が上る。

「馬鹿にしてんのかよ!?」
「いや、今、本当に、ものすごい、男前だった」

野口が右手で顔を覆って、一歩後ろに下がる。
そして壁によっかかって、ふっと息をついた。

「三田、すごい、かっこいい。ああ、もう本当にかっこいい。ごめん、あんたを俺と一緒とか言っちゃって。あんたかっこいい。全然、俺と違う。すっごい、綺麗。キラキラしてる。どうしよう、苦しい。心臓が、痛い」

顔を覆っていた手を外して、その手で胸のあたりのシャツをぐしゃりと掴む。
辛そうに、顔を歪めて、それでも笑う。

「すごい、ドキドキする。どうしよう、ねえ、三田、どうしたらいい」
「あんたは、どうしたいのよ」

縋るように聞いてくる男に、逆に聞き返す。
そんなの、私の答えなんて決まってる。
問題は、野口の方だ。

「本当は、どうしたいの?」
「………」

詰めていた息を、はっと吐き出す音が、室内に響く。
そして絞り出すような、か細い声で、言った。
ようやく、言った。

「三田が、好きだよ。一緒にいたい。でも、怖い。怖いよ。でも、一緒にいたい」

眼鏡のない、いつもと違って幼く見える顔。
また、細い目からは、涙が溢れてくる。

「三田、好き。好き、好きだよ。三田、好き、好き」

それしか言えないと言うように、ただただ好きと繰り返す。
ああ、私も胸が痛い。
苦しい。
息が、出来ない。
当たり前のように与えられていたその言葉が、貴重な宝石みたいにキラキラして、輝いている。
嬉しさに、胸がいっぱいになっていく。

「じゃあ、一緒にいればいいだろ!つべこべ言うな!黙ってついてこい!」

一歩、野口にまた近づく。
少しだけ震えたが、野口は逃げようとはしなかった。

「あんたが変なことしようとしたら、殴ってでも止める!不安になったら、何度だって好きって言ってやる!だから………」

最後の言葉は、喉が引きつれて吐きだすことが出来なかった。
呼吸がうまく、出来ない。
胸が熱い、目が熱い、体が熱い。
涙が、溢れて行く。

「だから、傍にいてよ………っ」

みっともなくひくっって、しゃくりあげた。
立っていられなくなりそうで、拳を強く握り締めた。
それでも、涙がは次から次へと溢れて来て、声がひっくり返った。

「あんたと、一緒に、いたいよ。………いたいよぉ」

だって、好きなのだ。
どうしようもなく、この馬鹿な変態が、好きなのだ。
だから、一緒にいたいのだ。

「う、ああ、ひっぐ」

もう、涙が止められない。
声を上げて泣いてしまう。
いなくなってしまうなんて、寂しい。
傍にいてくれなくちゃいやだ。
野口が不安なら、なんだってするから、だから傍にいて。
藤原君のようには、諦められない。
情けなく泣いて喚いて縋っても、それでも一緒にいたい。

「…………」

野口が、黙って私を見ている。
呆れられただろうか。
今度こそ本当に嫌になっただろうか。
涙で滲む視界の向こうで、けれど野口は私と同じくらいか細く震える声で言った。

「………触っても、いい?」

恐る恐る手を伸ばす野口に、私から勢いよく抱きついた。
細い体は受け止めきれずに、壁にぶつかる。
けれど、しっかりと私の背中を抱きしめてくれた。

「………痛い」
「うるさい」

不満を漏らす声は、少し笑っていた。
私も笑って、返す。
野口の香水の匂いが、する。
骨ばった体の堅い感触が、懐かしい。
どれくらい、触れてなかったんだろう。

「三田、三田、ごめん。ごめんね、俺が弱くて、ごめん。不安にさせて、ごめん。傷つけてごめん」

野口が私の肩に顔を埋めて、呪文のように謝る。
その頭を撫でて、私も背中に回した手に力を込めた。
肩が、濡れて行く感触がする。
野口が、ずっと鼻をすする音が、耳元でする。

「好き、好き、好き、三田、好き。大好き。ごめんね、三田、好きになって、ごめん。でも、一緒にいたい。一緒にいて。俺を捨てないで。一緒にいて。お願い。好き。好きだよ、三田」

たどたどしく、しゃくりあげながら、鼻を啜りながら繰り返す野口。
私も同じぐらいたどたどしく、しゃくりあげて、鼻を啜る。

「だから、私も好きだって、言ってるじゃん!どうして、ごちゃごちゃ、言うの?一緒に、いれば、いいじゃん」
「うん、そうだ、よね。頑張る。俺、あんたを、傷つけないように、頑張る。優しく、する。大事にする。だから、だからっ」

ぎゅっと、一際強く、抱きしめられる。
その強さが、たまらなく嬉しくて、涙がぼろぼろと溢れていく。
嬉しくても、涙って、こんなに出るんだ。

「俺を、好きでいて?一緒に、いて………っ」

いつもの飄々としていて余裕たっぷりのこいつも、好きだった。
でも、このどうしようもなく情けなくて弱い男を抱きしめたくて仕方ない。
まるで縋るようにしがみつく男が愛しくて愛しくて、くらくらしてくる。

「仕方ないから、一緒にいてやる!だから、もう、絶対に、離れるとか、言うな!」
「うん」

好きなら、傍にいればいいんだ。
一緒にいたいなら、いればいいんだ。
そんなの難しく考える必要なんて、ない。
簡単なことだ。

「三田、好き」
「………」

体を離して、野口が私の顔を至近距離で見下ろしてくる。
涙でぐちゃぐちゃになった顔は、赤くてブサイクだった。
多分私も同じぐらい、ブサイクだろう。
そっと白くて細い指が、私の頬を拭う。
感情を見せない目が、不安に揺れている気がして、私は無理矢理頬の筋肉を動かして笑った。

「私も、好き」

野口は柔らかく笑って、そっと顔を近づけてきた。
私も、目を瞑ってそれを受け入れる。

涙で濡れた唇は、しょっぱくて、熱くて、優しかった。





BACK   TOP   NEXT