ゆらゆらゆらゆら、振子が揺れる。 いったりきたり振子が揺れる。 ゆらゆら揺れた振り子の先は、一体どこを指すのだろう。 ガシャン!! お兄ちゃんが部屋に入ってきた瞬間に、私は手近にあった目覚まし時計を投げつけた。 急に襲いかかってきたものに驚き、背の高い人は眼を丸くする。 「由乃、危ないだろう」 「うるさい、うるさいうるさい!!」 ベッドの上で怒鳴りつけると、困ったように笑って静かに近寄ってくる。 お兄ちゃんにとって、こんなのは慣れっこだ。 私のヒステリーに付き合うのなんて。 でも今日はいつもの癇癪とは違う。 私は本気で怒っている。 「今日はどうして、ご機嫌斜めなんだ」 「知らない!お兄ちゃんなんて大嫌い!」 「由乃、どうしたんだ?ん?」 ベッドまでやってくると、その高い背を屈めて私の頬を大きな手で包む。 その大きくて温かい手に包まれると、私は何も言えなくなってしまう。 こんな風に笑って覗きこまれると、ヒステリーを続けられない。 悔しくて、唇をかむ。 するとお兄ちゃんの硬い指が、私の唇をなぞって開かせる。 「ほら、唇を噛まない。痕になるぞ。どうしたんだ、由乃?」 優しく諭すように聞かれると居心地が悪い。 だって、悪いのは自分だから。 だから、早くこの手から逃れたくて単刀直入にそのことを告げた。 「………結婚するって、聞いた」 ぴくりと、頬に触れた手が反応する。 その反応で、このことが全くのウソではないことを知る。 「誰がそんなことを」 「西口のおばさん。お兄ちゃんが綺麗な女の人を連れてきたって言った」 あの人か、と大きくため息をつくお兄ちゃん。 おばさんは両親を亡くした私たちの家にやってきてはことあるごとに干渉していく。 子供のいないおばさんは、私を養女に欲しいらしい。 だから、何かにつけては私をこの家から引き離そうとする。 お兄ちゃんから、引き離そうとする。 「俺が由乃を置いて結婚するはずないだろ」 「嘘だ!お兄ちゃん、私のこと本当に捨てたいんでしょ、放っておきたいんでしょ!おばさんの元へ送りたいんでしょ!」 お兄ちゃんは、高校生の私よりも8つも年上。 もう、社会人だ。 結婚話が出てもおかしくはない。 大学生の頃から、ずっと私の面倒を見てきたのだ。 幸せになっても、いい頃だ。 私という重荷をずっと、抱えてきたのだ。 そのことが原因で、彼女と別れたこともある。 こんなお荷物の役立たず、さっさとおばさんのところに送り込んでしまいたいはずだ。 でも、そんなのは許せない。 1人で行ってしまうなんて、許せない。 「そんな訳ないだろう」 お兄ちゃんはこつんと額と額を合わせて子供に言い含めるように優しく話す。 どうして、本心とは別のことを言うのだろう。 本当の事を、言ってよ。 「二人きりの兄妹だ。お前が一番大事だよ。捨てたりなんかできない」 「うそつき!私のことなんて死ねって思ってるでしょ!いなくなっちゃえと思ってるでしょ!」 「由乃!」 そこで、めったに怒らないお兄ちゃんが、私を叱りつける。 お兄ちゃんの強い感情に慣れてない私は、それだけで身が竦んで体が固まってしまった。 自分から噛みついたくせに、一度吠えられると逃げ出してしまう。 「………っ」 「冗談でも、死ぬなんて口にするな」 どこまでも、優しい優しいお兄ちゃん。 でもね、お兄ちゃんの優しさが、もう辛い。 だから私はますます醜く、我儘になる。 そしてあなたを苦しめる。 「お兄ちゃんの馬鹿!大嫌い!!」 そして、いつものお決まりの言葉を口にする。 大嫌いだ。 お兄ちゃんなんて大嫌い。 私の性格をどんどん悪くする、お兄ちゃんが大嫌い。 それなのに、お兄ちゃんはにっこりと笑って頭を撫でる。 「俺は由乃が大好きだよ。かわいいかわいい妹だ」 「嘘つき!」 そんなの嘘だ。 2人きりの家族だから、義務で面倒をみているだけなのに。 こんな我儘な妹なんて、さっさと見捨ててしまえばいいのに。 お兄ちゃんは、嘘ばっかりだ。 「なんで嘘だなんて思うんだ」 「………でも、そうよね。お兄ちゃんはずっと私の面倒見なきゃいけないんだ。私が彼氏も作れないような体にしたの、お兄ちゃんなんだから!」 「…………」 だから、私は束縛する。 お兄ちゃんを絶対逃がさない。 私には、お兄ちゃんしかいないんだから、絶対絶対離さない。 「お兄ちゃんだけ幸せになるなんて許さない!お兄ちゃんはずっと私だけを見て生きてくんだから!」 これは呪いの言葉。 お兄ちゃんを逃げられなくする、呪縛の言葉。 お兄ちゃんが私をキズモノにした。 そうすると、お兄ちゃんは私に何も言えなくなってしまう。 本当のことを言えと言いながら、言えなくしているのは私。 お兄ちゃんを、束縛して離さないのは、私。 私が物心ついたときには、8つ上の兄はすでに大人のように見えた。 スポーツができて、頭もよくて友達も多くて、お兄ちゃんは私のヒーローだった。 お兄ちゃんはいつだってキラキラしていて、眩しいものだった。 大好きで大好きで大好きで。 私は、いっつも後をくっついて回った。 ガキの私を連れまわるのはウザかったろうに、お兄ちゃんは私の面倒をよく見た。 両親も、自分達以上に兄になつく私を、兄に任せきりになっていた。 その日も、私はお兄ちゃんと2人でいた。 両親がお出かけして、2人でお留守番をしていた。 お母さんが作ってくれたご飯を温め直しての夕食。 お兄ちゃんが手際よく、夕食の準備を進める。 私はその横でお手伝いと称した、邪魔をしていた。 2人で色々できるのが、とても嬉しくて楽しかった。 お味噌汁を温めていると、チャイムがなった。 宅配便が来たらしく、お兄ちゃんは玄関先に消える。 その間にもお味噌汁は沸騰して、こぼれ始める。 私は火の止め方が分からなかった。 でも、このままじゃ吹きこぼれるから、どうにかしようと思った。 ちゃんとお手伝いできるところを見せようとした。 そうしたら、お兄ちゃんが褒めてくれるんじゃないだろうか。 えらいな、由乃って。 だからとりあえず火から外そうと、小学校低学年が持つには大きな鍋を一生懸命持ち上げる。 それでも、重い汁物が入った鍋は重くて、私の体は小さく、バランスを崩す。 「あ、ぶない!」 お兄ちゃんの焦った声が聞こえた時にはすでに遅かった。 私は沸騰したお味噌汁を、腹から足にかけて被っていた。 それから先は、うっすらとしか覚えていない。 救急車を呼び、必死に私に冷水をかけるお兄ちゃん。 泣き叫ぶ私を、泣き笑いのような表情で宥める。 何度も何度もごめんな、と言いながら頭を撫でる。 幸い、早い措置がよかったのか後遺症を伴うような深刻な火傷にはならなかった。 しかし、私の腹から足にかけては醜い火傷跡が残ってしまった。 私の負った火傷はお兄ちゃんのせいになった。 お兄ちゃんは、お父さんとお母さんにとても怒られた。 私はお兄ちゃんのせいじゃないと必死に言ったけれど2人とも聞いてくれずに、お兄ちゃんをただ責めた。 『ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね』 『由乃は悪くないよ、ごめんね由乃』 私の不注意で、お兄ちゃんは頬が腫れあがるほど叩かれた。 私はその頬を掌で覆い、必死で謝る。 お兄ちゃんは痛みで顔をしかめながらも、謝ってくれた。 謝ることはないのに。 私が、悪いのに。 ずっと、この火傷は私にとっても、お兄ちゃんにとっても、枷だった。 火傷を気にするお兄ちゃん。 水泳や体育の授業に参加できない。 肌を見せる服を着ることができない。 そんな私を見て、辛そうな顔をするお兄ちゃん。 私はそんなお兄ちゃんを見ているのが、ずっと苦しかった。 でもね。 でもね、今はそれでよかったと思ってるの。 だって火傷がある限り、お兄ちゃんはずっと私の傍にいてくれるでしょう。 お兄ちゃんは、私のものだもの。 お嫁にもいけないキズモノの体よ。 ずっと、傍にいてくれるでしょう? ずっとずっと離さない。 お兄ちゃんは私のもの。 |