「ただいま」 「おかえりなさい」 「おかえりなさい」 休日の夕方。 お兄ちゃんしかいないはず家の中で、お兄ちゃんの声と共に、見知らぬ声が響いた。 女の声。 西口のおばさんの大きく太い声では、ない。 高く澄んだ、落ち着いた女性の声。 私は恐る恐る、リビングに近づく。 すると、そこにはソファに座って談笑する1組の男女の姿。 それは、見とれてしまうぐらいなお似合いな、1対のお人形のような2人。 高い背と清潔感のある落ち着いた大人の男と、髪が長くて薄化粧を施す落ち着いた大人の女性。 まるで映画に出てくるかのような、完璧な1対。 「………誰?」 「こんにちは、お兄ちゃんのお友達で岩崎っていいます。岩崎玲子。よろしくね」 「………どうも」 岩崎と名乗る女性は洗練された仕草で立ち上がると、私みたいなガキにも丁寧に頭を下げた。 私は感情そのままに憮然とした表情を作って頭を軽く下げた。 「由乃、外に食べに行こうかって言ってるんだけど、一緒に行こう」 「………私、お腹一杯だからいらない」 お兄ちゃんがそう誘うが、そんなのごめんだ。 この2人の仲の良さを見せつけられてのご飯なんて、喉が通るはずがない。 それに、もしそこで例の話をされたら私は暴れない自信はない。 少しばかりの羞恥心は私にだってある。 暴れるなら、家の中にしておきたい。 私は無愛想にそう言い残して、自室へと早足で逃げ込んだ。 音楽をがんがんにかけて、下の話なんて聞こえないようにする。 どうせ、私の悪口を言っているんだ。 さっさとご飯を食べにいっちゃえ。 みんな嫌い。 あの女は嫌い。 お兄ちゃんも嫌い。 嫌い嫌い嫌い。 枕に顔を埋め込んで、目を瞑る。 そうすると、周りの景色は遮断される。 明るく軽いテンポの曲しか聞こえない。 何も見えない。 だから、私は何も怖くない。 どれくらいそうしていただろう。 眠っているともいないとも言えない、ぼんやりとした時間。 唐突に、音楽が消えた。 驚いて顔をあげると、ドアをあけたお兄ちゃんが壁にもたれて立っていた。 ドアの上の時計を見ると、まだ早い。 ご飯を、食べにいかなかったのだろうか。 「由乃、ご飯は?」 「………食べにいかなかったの?」 「お前をおいていけないだろう」 それは、私と一緒じゃなきゃできない話でもする気なのか。 唯一の家族の私を同席させたたいのか。 「………結婚の話でも、するつもりだったの」 先日の話を蒸し返して、私はベッドの上でお兄ちゃんを睨みつける。 お兄ちゃんは相変わらず困ったように苦笑して、肩をすくめる。 「結婚するつもりはないよ。彼女は友達だ」 「嘘つき嘘つき嘘つき!!そんな嘘に騙されるほど子供じゃない!」 「由乃」 どうしてそんな嘘ばっかりつくの。 どうして、本当のことを言ってくれないの。 そんなだから、私はいつまでもお兄ちゃんに我儘を言うしかないんだ。 嘘つきなお兄ちゃんなんて、大嫌いだ。 「いらないならいらないって言えばいい!私が鬱陶しいならそう言えばいい!」 「由乃、そんなはずはないだろう」 「でも、離してなんてあげない!お兄ちゃんはずっと私の面倒を見るの!だって私をキズモノにしたのは、お兄ちゃんだもの!」 そう言いきると、私はベッドから飛び降りてお兄ちゃんの横をすり抜ける。 お兄ちゃんが声をかけるのも無視して、階段を駆け降りる。 そしてそのまま、バスルームに飛び込んだ。 「う、ううううう、う」 ここなら、どんなに声をあげて泣いても聞かれない。 シャワーを全開にして、私は声をあげて泣く。 「ひぃっく、うう、あ、あああ」 かっこよくて、頭が良くて、スポーツができて、なんでもできる自慢のお兄ちゃん。 大好きな大好きなお兄ちゃん。 ずっと一緒にいて欲しいの。 私を置いていかないで。 突然、お父さんとお母さんがいなくなってしまったあの日。 日常の崩壊に、私は呆然としていた。 昨日まで一緒にご飯を食べて、お話して、笑っていた人たち。 もうすぐ授業参観で、お母さんは新しい服を買うって言っていた。 お父さんもたまには参加したいと言って、仕事を休むと言っていた。 私は恥ずかしいから2人ともやめてって言った。 それでも2人にかっこいい姿を見せようと、こっそり苦手な数学の予習をしていた。 冬休みは、旅行に行こうって言っていた。 家を出たお兄ちゃんも誘って、久しぶりに皆で旅行へ行こうって。 私は海外がいいって言うと、お母さんも海外がいいって言った。 お父さんは苦い顔をしていた。 そんなお父さんを見て、私たちは笑った。 でもね、本当は近場の温泉でもなんでもよかったの。 お父さんとお母さんとお兄ちゃんと、一緒にお泊りできれば、よかったの。 一人娘の私に甘甘で、いつもお母さんに怒られていた優しいお父さん。 少し怒りっぽくて怖いけど、でも御飯がおいしくて悩みも相談できるお母さん。 ちょっと鬱陶しくて、文句を言ったりもしたけど、でも二人とも大好きだったの。 だった。 そんな当たり前のことを、過去形に、しなくちゃいけなくなった、あの日。 2人とも、ほんの少し前まで一緒にいたのに。 どうしてどうしてどうして。 理解できない。 分からない。 誰か、助けて。 事実が理解できなくて、人形のようにただ座っていた。 誰かが助けにきてくれて、こんな悪夢から救い出してれるのを、待っていた。 助けて助けて助けて、ねえ、誰か助けて。 私を人間に戻してくれたのは、お兄ちゃん。 バタンて音がして、1人きりだった家の玄関が開く音がした。 私はもしかしてお父さんとお母さんが帰ってきたんじゃないかと思って、ふらふらと玄関に向かった。 暗い部屋の中、玄関からの光が明るくて。 本当に、その時のお兄ちゃんはきらきら光って見えた。 大学生になって一人暮らしをしていたお兄ちゃんは久しぶりだった。 長い腕が、ぼうっと突っ立っていた私を、強く抱きしめる。 「大丈夫、大丈夫だからな由乃。よく、頑張ったな。俺がいるから。大丈夫だ」 ようやく私のもとへ帰ってきてくれたお兄ちゃんの温かい胸に顔をうずめる。 それは昔からよく知った、お兄ちゃんの匂いがした。 大きな胸と力強い腕と懐かしい匂いに包まれて、私はようやく泣くことができた。 一人暮らしをすると言われた時も、泣きわめいて止めた、大好きな大好きなお兄ちゃん。 暗い家に一人ぼっちで。 お父さんの大きな笑い声も、お母さんのどなり声も聞こえない家。 暗くて寒い家で、その体だけが温かかった。 やっと戻ってきてくれた。 私の、お兄ちゃん。 私のたった1人の家族。 私はその時、本当に嬉しくて心強くかった。 お父さんもお母さんもいなくなってしまったけれど、私にはまだお兄ちゃんがいるんだって。 そう、思えたから、私は頑張れた。 大好きな頼もしい私のヒーローが、いてくれたから。 でも。 気付いてしまったのは、お兄ちゃんが実家に戻ってきてくれてしばらくしてから。 お兄ちゃんはモテる。 それはそうだ、お兄ちゃんは、私の自慢のお兄ちゃん。 かっこよくて、頭がよくて、運動もできて、友達に褒められるたびに得意になった。 だから、彼女がいるのは当然のことだ。 そもそも、お兄ちゃんが家にいる頃から彼女はいた。 たまに連れて帰ってきて、一緒にご飯を食べたりした。 私はちょっとヤキモチをやいて無愛想にしたりもした。 でも、中にはいい人もいて、私と一緒に遊んでくれる綺麗な人もいた。 それに、私が傍にいる時は、お兄ちゃんは私を最優先にかまってくれた。 だから、そこまでなんとも思ってなかった。 でも、今はたった1人の家族。 お兄ちゃんがいなくなったら、私はどうしたらいいの。 この暗い家で1人きり。 誰もいない家に、笑い声のない家に、1人きり。 そんなのは、怖い。 そんなのはいやだ。 おばさんの家にいけばいいの? 他人の家にいかなきゃいけないの? それはいや。 私の家はここ。 お兄ちゃんは、私のお兄ちゃん。 お兄ちゃんが結婚したりしたら、お兄ちゃんは私の家族じゃなくなっちゃうの? お兄ちゃんが、人のものになってしまうの? そんな恐怖が、その時からずっと、私を支配している。 もう、1人にはなりたくない。 泣き疲れて、顔をあげる。 バスルームには大きな鏡がある。 お風呂は、怖い。 私の体を、みなきゃいけないから。 お風呂場の大きな鏡は、私のすべてを映し出す。 私は濡れてしまった服を脱ぎ捨てる。 お腹のあたりと二の腕に肉が過剰についている、醜い体。 外で運動しないせいで、青白い肌。 そして、昔の傷跡。 お兄ちゃんが私のものではなくなってしまう可能性を知った時、私はこの傷を思い出した。 これを利用したら、お兄ちゃんはずっと私の傍にいてくれるんじゃないだろうか。 事実、今お兄ちゃんは傍にいてくれる。 だから、この傷は誰にも見せない。 誰にも見せられない。 見せられるはずがない。 この傷があるのだから、お兄ちゃんはずっと私の傍にいてくれなきゃいけない。 お兄ちゃんは、私のものだ。 |