三沢の口から再び出てきた言葉に、冬子は大きく反応した。 ここしばらく、三沢と同じく、いやそれ以上ずっと気になっていた人の名前。 「カズって…、春日君?」 「そ、春日一清のこと。館乃蔵さん怒らせちゃったみたいだしさ、どうしよー、って悩んでたら、素直に謝れば許してくれるって言ってくれてさ」 「春日君がそんなことを……?」 このところの自分の態度から、もうすでに愛想をつかされたと思っていた。 その男の意外な言葉に、冬子の声が上擦る。 「館乃蔵さんは確かに意地っ張りで高慢ちきで世間知らずだけど……」 「………春日君がそんなことを?」 先ほどとは打って変わって声が低くなる冬子。 唇を強く強く噛む。 分かってはいたが、春日に言われたとなると、なぜか余計に腹が立つ。 しかし三沢はにっと片頬を挙げるようにして笑った。 「実は結構素直だし、筋は通そうとするし、時間が立てば自分が悪いところには気づくって。ただちょっと人付き合いが下手なだけだって。慣れると割りとかわいいし、面白いって」 続けられた言葉に今度は赤面する。 ちょっと引っかかるところはあるものの、それは温かい言葉だった。 「そ、そんな、そんな風に言ってもらえる人間じゃないわ」 「話してみると、結構いいよね。ちょっと天然入ってるし」 小さな声で否定する冬子にかまわず、コーヒーを啜りながらそんなことを言う三沢。 ………天然? 天然:@人為の加わらない自然のままの状態。 A造物主。造化。 B本性。天性。生まれつき。(広辞苑) どういう意味かしら…。 天然……自然のままの状態が、……入ってる? 入る……、本性が入る…造物主が入る。 言葉の通りからして、造物主かしら。私は…神がかってることかしら…。 また出てきたよく分からない単語に頭を悩ませる。 しばらく首をかしげていたが、今度は三沢の口から次に出てきた言葉に頭が真っ白になった。 「でね、謝るならどこかでなんか食わせれば一発だって」 「は?」 「学食がお気に入りだって聞いてたけど、本当なんだね。こんな下々の食べるようなものは口に合わないわ!って感じなのに」 「そ、それも春日君がいったの……?」 「うん。館乃蔵さんとしゃべるようになった理由とか全部」 なんでもないことのように言う三沢に、冬子は再度頬が赤らんできた。 あの恥知らず恥知らず恥知らず無神経無神経無神経。 春日に謝ろうと思った決意もどこへやら。 怒りで目の前が赤くなる。 目の前に春日がいたら平手の一発は食らわせただろう。 「なんか、嬉しいな。全然違う世界の人だと思ってたから」 しかし三沢の言葉は意外だった。 言葉通り、本当に嬉しそうに目を細めている。 思わず、怒りが霧散してしまった。 「え?でも、そんな私、意地汚い……」 「そんなところがいいんだって。やっぱり同じ人間なんだな、って思えるし」 「それは、同じ人間でしょう?」 不思議そうに首を傾げる。 しかし三沢は笑ったまま。 「うんそうだね。あ、そうだ!カズも許してやってよ。マジへこんでたよ」 そうして唐突に話を切り替える。 その切り替えの早さについていけなくなりそうになりながら、それでも内容の人物はは冬子も気になっていたものだった。 だが、言葉の意味は分からない。 「まじ…?へこむ……?」 眉を寄せる冬子に気づき、三沢が慌てて説明する。 「あ、えーと、落ち込んでたよってこと」 「それを『まじへこむ』って言うの?」 「そう、へこむが落ち込むっていう意味で、マジが本気でって意味」 「へーそうなの。ありがとう。『まじ』が副詞で『へこむ』が形容詞ね」 本気で感心したように頷いて、口の中で何回か今習ったばかりの言葉を繰り返す。 「うんうん、本当にへこんでた」 「落ち込んでた……?春日君が?」 「そ。見てられなかったよー。館乃蔵さんに冷たくされたーって」 「そんな風には見えなかったけど…」 確かに何度も春日を無視したが、落ち込んだ様子は見られなかった。 大きくため息はついてたが、いつも通り多くの仲間に囲まれて笑っていた。 その様子に、冬子が見当違いの怒りを覚えていたのも新しい記憶だ。 「ああいう奴だからね。そうそう落ち込んでる姿は見せないけどさ、あれはマジで落ちてる。幼馴染の私が言うから間違いない」 そこで初めて二人が幼馴染だということを冬子は知った。 この二人の似通った雰囲気はそこからくるものだろうか。 「だからさ、カズも許してやってくんない?確かに馬鹿で下品で頭悪いけどさ」 「そ、そんなことはないと思うわ!」 ほとんど自分で言った言葉のくせに、なぜか大きな声で反論する冬子。 そんな冬子を三沢は目を大きくして見返す。 「あ、いえ、この件に関しては、私が悪いのだし、その、春日君は悪くないわけで……」 目を泳がせつつ、小さな声で説明する冬子。 三沢は意地が悪そうな笑みを浮かべているが、しかし何も言わなかった。 「そっか。じゃ、カズにはもう怒ってないんだ」 「ええ……怒っていないというか、謝りたいの」 「そっか……。じゃあ、話しかけてやってよ、あの馬鹿と」 「でも……なかなか難しくて……」 小さくため息をつく。 思わず弱音を吐いてしまった。 「なんで?」 「彼の周りには沢山人がいるから。恥ずかしい話だけれど、話しかけられなくて」 「あー、なるほどね」 得心がいったように何度も頷く三沢。 「じゃあ、私が呼んできてあげるよ。人気のないところに」 「え?」 「それなら話せるでしょ?」 「え、それは……多分……。でも、これは私の問題だし……」 「いーよいーよ、私が悪かったところもあるんだしさ。いつまでも解決しないとこっちがウザイしさ」 「で、でも………」 「徐々に慣れていけばいいよ。なんだったらそのお礼に今度なんかおごって」 そのいいように、先日の春日を思い出す。 本当に、幼馴染らしいこの二人は似ている。 思わず冬子は噴出した。 「じゃあ……情けないけれど、お願いしてもいいかしら…?」 「おっけー。じゃ、明日ね」 「明日……」 不安げに眉をひそめる冬子。 三沢はそんな不安を吹き飛ばすように、強い口調で繰り返す。 「明日。善は急げ。やれるでしょ?」 そう言われたら、冬子には引き返せない。 唇を噛んで、制服の胸のところを強く握る。 そうしてしっかりと三沢と目を合わせた。 「…ええ」 それは小さいけれど、はっきりとした言葉だった。 目の前の少女は、満足気に頷いた。 「よし、じゃあドーナツ食べようか。飲み物冷えちゃうし」 「ええ」 ドーナツに手を伸ばそうとする直前で、冬子はふと手を止める。 「あの、三沢さん」 「んー?」 こちらはすでにドーナツにかぶりついている。 「ありがとう。私は勇気がなくて、貴方に謝ることが出来なかったわ。話しかけることすら出来なかった。話しかけてくれて、ありがとう。機会をくれて、ありがとう」 ちょっと照れくさそうに、うつむき加減で、しかし目はそらさず想いを伝えた。 冬子は自分が甘やかされていると知った。 何一つ、自分からは行動していていない。 それを許してくれる、目の前の少女に、そして今一番冬子の胸の中を占めている男に、感謝を伝えたかった。 優しい人なのだ。春日も、三沢も。 それに気づくことが出来なかった自分が、一番醜く、軽薄で、無神経だ。 二人はこんなにも、大らかに自分を受け止めている。 自分が甘やかされ、優しい人に囲まれていると知った時、恥ずかしくて、嬉しくて、心が温かくなった。 言われた方は突然の言葉に驚き、ドーナツを喉に詰まらせる。 慌てて、すでに冷えたコーヒーを口に運ぶ。 「だ、大丈夫、三沢さん?」 テーブルの脇においてある紙ナプキンを三沢に渡す冬子。 コーヒーでなんとかドーナツを流し込み、口元を渡されたナプキンで拭う。 よ三沢はようやく息をついた。 「あー、びっくりした。なんかそんな真剣なお礼とかってあんま聞かないしさ」 「へ、変だったかしら……?」 「いいのいいの、嬉しいよ。こっちこそありがとう」 「……ありがとう。本当に、いい人ね、三沢さん」 「あ、三沢さん、じゃなくてゆっこでいいよ。友達にはそう呼ばれているし」 「え、で、でも………」 三沢の申し出に、あだ名で人を呼んだことのない冬子は戸惑う。 そしてまた、友達、という単語にも動悸が激しくなった。 「あ、イヤだった?名前で呼ぶのは失礼とか?」 「あ、いえ、そうじゃないの。えっとただでも……と、友達って」 「そうそう、せっかく友達になれたんだしさ」 「え、も、もう友達だったの!?」 意外な言葉に、声が裏返る冬子。 「え、友達じゃなかったの?」 その冬子に、こちらも意外そうな声を上げる三沢。 思わず二人でしばらく見つめあう。 「えーと、もしかして私と友達とかってイヤ…?」 「そうじゃないの!そうじゃないのよ!ただ、その、わ、私が友達でいいの……?」 ちょっと頬を膨らませて問う三沢に、こちらは情けなさそうに眉を下げて返す冬子。 「へ?だって、ほら、こうやって一緒にお話とかしてるし、友達じゃ、ないの?」 「と、友達って……こんな簡単になるものなの……?」 お互い噛みあわない価値観に、悩み続ける二人。 ドーナツ屋に入り、ドーナツに手をつけないまま、すでに一時間は経過している。 無駄なループに終止符を打ったのは三沢だった。 大きく息をつくと、少し目を伏せてから顔を上げた。 「えーと、そうだな。じゃあ、お友達になろうよ、これから。だからその証にゆっこってよんで」 「わ、私でいいの……?」 「館乃蔵さん『が』いいの。ね、だめ?」 なおも卑屈なことを口にする冬子に、おねだりするように小首を傾げて問うてくる。 そこまでされて、ようやく冬子も意を決したように唇を噛む。 「じゃ、じゃあ、あの、お、お、お友達になってください……。ふ、ふつつかものですが、末長く、そのよろしくお願いします……」 これまで見たこともないぐらい赤面しながら、頭を深々と下げる。 つられて三沢も深々と頭を下げた。 そうして頭を上げると、冬子はまだ頭を下げている。 「ちょ、館乃蔵さん?」 「な、なんでもないわ……」 ようやくあげた顔は更に紅く染まっていて、今にも倒れてしまいそうなほどだ。 「だ、大丈夫?」 「大丈夫よ、よ、よろしくね、三沢さん」 しかしそうやってぎこちなく四角張った顔で言うので、三沢は笑ってしまった。 「三沢さん、じゃなくて、ゆっこ」 「ゆ、ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ」 「どこまで続くんだって!」 「っこ……」 「しりとりロックンロールかって……」 「……しばらく時間を頂戴…。慣れてみせるから」 「そこまであだ名言うのって大変なの………?」 胸の辺りを強く強く握りしめながら、苦しそうに肩で息を繰り返していている。 三沢は困ったように苦笑して、軽くため息をついた。 「じゃあ、ま、慣れて頂戴」 「え、ええ……ごめんなさい」 「いいよ。さ、ドーナツ食べよ」 「ええ」 「カズと仲直りできたら、今度は三人でマック行こうね」 「マックってさっき言ってた?」 「そうそう、作法教えてあげるね、まず入ったら『スマイル下さい』ってね……」 すっかり日の暮れて薄暗くなった店内の中、出来立て友人同士は和やかに笑い声を上げた。 明るく、楽しげな笑い声だった。 |