「かーんぱい!」
「かんぱーい」
「えっと、その、乾杯」

小さな部屋に響き渡るような、明るい声があがる。
そして、その声に押されるように、恐る恐ると控えめな声が続いた。
元気がよすぎるほどの声を上げたのは春日と三沢。
その後に小さく続くのは冬子だった。

防音の効いた小さな部屋。
それでも微かに隣の部屋からの声や、音楽が漏れ聞こえる。
冬子が想像していたよりも整った部屋、安いカップに入った飲み物。
少々騒がしすぎる気もする。
それでも初めて足を踏み入れたその場所に、冬子は少なからず興奮していた。

「ここが、噂のからおけ、なのね……」
「噂ってなんの噂だよ!」

しみじみと感動したようにつぶやく冬子に、春日が即座につっこみを入れた。
そんな声も入らないように、少女はキョロキョロと辺りを見回す。
自転車乗れた記念パーティーということで、春日と三沢に連れてこられたのがカラオケだった。
勿論冬子は入ったことなどない。
少しだけ興味を持っていたその場所に、不安と好奇心を顔いっぱいに浮かべている。

「騒げるし、場も持つし、食べ物も飲み物もあるし、ちょうどいいしねー」
「あー、やっぱり飲み物うまいわー、うた○ろの飲み物ってコーラですらマズイじゃん」
「タッチー仕様だからうた○ろはやっぱね。狭いし、まずいし」
「あんま冬子にはお薦めできないよな」

2人の会話の意味が分からず、冬子の両側に座る息の合った幼馴染を交互に見る。
たまに寂しさを感じるくらい、2人はとてもお互いを分かり合っている。

「じゃ、とりあえず歌いましょうか」
「そだねー、あ、新譜入ってるわ」
「お、俺これ歌おうかな」
「うわ、いるいる、張り切ってこーゆーの歌っちゃう男。きも」
「きもい言うな」

テーブルに置かれたとても分厚い本を、ペラペラとめくり始める2人。
冬子には何がなんだか分からない。
部屋の隅に置かれたテレビの意味も、その下に設置されているビデオのような機材も、天井につけられたやたらキラキラとした照明も、その何もかもが未知のものだった。
いまだ落ち着かずに、借りてきた猫のようにそわそわとする冬子に、春日が声をかける。

「冬子は?」
「と、冬子って呼ばないで頂戴。な、何かしら?」
「冬子は何歌うー?」

何度抗議しても、名前で呼ぶことを春日はやめてくれない。
冬子はそのことに頬を赤らめて、唇をとがらす。

「だからやめて頂戴、って言ってるのに……、歌うって…」

困惑したように辺りを見回す。
そう、カラオケとは歌を歌うところ。
それくらいは冬子も知識がある。
それくらいは、確かにある。
あるが。

「うた、うたって……?」
「言葉に旋律やリズムをつけて、声に出すもの。また、その言葉(大辞林)」

ウーロン茶を啜りながら、さらりと答えたのは三沢。

「いえ、それは分かっているわ、分かっているけど……」
『どしたの?』

顔を上げて同時に首を傾げる気の合った幼馴染。
2人揃って見つめられて、冬子は一瞬体を引きかける。

「わ、私が歌うの……?」

それは、冬子が予想していなかったことだった。



***




「わ、私、今流行している歌とか、全然分からないわよ!」
「別に今の曲じゃなくてもいいよー。私も懐メロとか好きだし」
「な、懐メロ?」
「まあ、昔の曲だな」
「む、昔の曲も分からないわ」
「とりあえず見てご覧って、なんでもいいんだよー、本当に」

冬子は差し出される分厚い本を拒否することもできずに受け取ってしまう。
それは、冬子の心を反映してか、見た目よりも重く感じる。
冬子は家でテレビをみることも、ラジオを聴くことも少ない。
高価なオーディオセットが備わったオーディオルームはあるが、そこでは祖母と聞くレコードが主だ。
たまに祖母が口ずさむ、若い頃に流行ったという懐かしいメロディを心地よく聞くこともあったが、曲名が分からない。
また分かったとしても歌うことはできない。
オペラなども聴くから、それは分かるかもしれないが、カラオケに入っているか分からない。
また、入っていたとしても、歌える自信がない。
そもそも、歌うという行為をあまりしてこなかった。
音楽は嫌いではない。
ピアノやバイオリンを嗜んでもいる。
しかし歌は、冬子にとって遠い存在だった。

「で、でも……」
「ほらほら、冬子、これも世間を知る第一歩」
「そうそう楽しい学生生活の基本基本、頑張れタッチー」

いつも冬子に優しい2人だが、冬子が困っている様子を楽しむ悪い癖がある。
他愛のない嘘や意地悪をして、からかう時は少なくない。
今も、冬子が本気で困惑していることを分かっているくせに、悪気なく更に追い詰める。
こういう時の2人が許してくれないのを悟り、冬子はため息をついてその分厚い本に目を落とす。
眉は垂れ下がり、まるで悪戯を叱られた子供のような表情。
その表情も、身内以外では三沢と春日、2人だけに許すものだったけれど。

「や、やっぱり知らない曲ばっかりだわ」

その分厚い本は、冬子には暗号にすら見えた。
訳のわからない記号や、人名が細かく連なっている。
すでに言葉が意味のあるものとして頭に入ってこない。
冬子の混乱は頂点を極めていた。

「ほら、これが歌の名前、でこれが歌手。こっちの数字はとりあえず気にしなくていいから」
「え、ええ」

すぐ隣に座って、春日が指差して説明をする。
近すぎる距離に、冬子は落ち着かなくなり、少しだけ離れる。
大体にして、春日は人に近づきすぎて、心臓に悪い。

「こっちが歌手で検索できるの、でこれがジャンルで……」

春日は丁寧に説明してくれるが、冬子にはやはり見慣れた曲はない。
ぱらぱらとめくるページに、冬子はますますいたたまれない気持ちになってくる。
自分なんて気にしないでいいから、2人で歌って、楽しんで欲しかった。
そのことを告げようと口を開こうとした時、ある曲名が冬子の目に入った。

「あっ」
「お、知ってる曲あった?」
「え、どれどれ?」
「私、これ知ってるわ!」

冬子が頬を赤く染めてその曲を指差す。
2人がその指に視線を移す。
そこにあったのは。


『おべんとうのうた』


「…………」
「…………」
「……これ、幼稚舎の頃に歌ったことが……て……」

勢い込んで2人を振り返る冬子。
そこでようやく三沢と春日が黙り込んでいることに気付いた。
机に突っ伏すようにして、ぴくぴくと小刻みに震えている。

「………笑ってくれて、構わないわ」
「ぶ、ぶはぶははは!ごめ、ごめ、館乃蔵!!」
「う、くくくく!ごめん、ごめんねタッチー!」

許可を得た笑い上戸達は、防音の効いた部屋から漏れだしそうなほどの大声で笑いだす。
冬子は頬を染め、唇を噛んで、その屈辱に耐えた。

「どうせ、私は、世間知らずよ」
「ちが、違う!違うの!」
「そう、違う冬子!ごめん、悪かった、ぶ、ぶは」

拗ねたように唇を突き出す冬子に、必死で言い訳をしようとする幼馴染達。
けれど、その語尾はまだ笑いを含み、言葉に説得力はない。

「いいわよ、笑って。だから、歌なんて知らないっていったのに」

いよいよ本格的に気分を損ねそうになった冬子に、先に立ち直った三沢が身を乗り出す。

「だから違うの!あまりにもなんつーか外さないからさ!タッチーもう、ほんとツボ!」
「ツボ……?」
「かわいいってこと。大好きタッチー」

そう言って、唐突に冬子に抱きつく三沢。
そのふんわりとした温かい腕と、軽い化粧の匂いに心が温かくなる。
三沢の過剰なスキンシップは、苦手だけれど嫌いではない。

「……て、て、ご、ごまかされないわよ!」

「えー、ごまかしてないごまかしてない。ねーカズ?」
「そうそう、冬子マジかわいいー!マジ萌え!」
「も、萌え?」

そう言って今度は反対側から、春日も抱きついてくる。
三沢のどこかほっとする抱擁とは違い、春日の腕に冬子の動悸が激しくなる。
顔に一気に血が上り、冬子はたまらず叫んだ。

「わ、分かった、分かったわ!分かったから二人とも離れて!」
「えー、ホントに分かった?」
「俺達冬子が大好きだから」
「分かったわ、本当に分かったから!」

すでにその声は泣き声交じりだ。
それを聞いて、しぶしぶ体を放す2人。
温かな体温が離れ、冬子は漸く息をつく。
速くなった呼吸を、必死でなだめる。

「ふ、2人とも、もう少し、その、抱きついたりするの、やめてちょうだい」
「えー、スキンシップだよ、スキンシップー」
「そうそう、愛情表現」
「いや、お前のはただのセクハラだから」

相変わらず、そういうところは冬子の意見を聞いてくれない。
そのことに抗議したい気持ちはあったが、また抱きつかれても困るので冬子は口をつぐんだ。
しばらくして、春日との口論を打ち切った三沢が、テーブルの上にあったリモコンを手に取る。

「よし、じゃあ今日は童謡しばりね!」
「うっし、きた。みんなの歌系だな」
「え、え?」

2人が手早くリモコンを操作し、再度本をめくり始める。
冬子が状況についていけないうちに、意味のない映像が流れ続けていたテレビに曲名が映る。


『おべんとうのうた』


「え、えええ?」

流れ始める、懐かしい聞きなれたメロディ。
差し出されるマイク。

「はい、じゃあタッチー、トップバッターいってみよー!」

その眩しいほどの笑顔に、冬子は自分が逃げられないことを知った。



***




その後、1時間程歌って、冬子は普段歌いなれないもあり消耗しきっていた。
2人が選ぶ童謡は知っている曲ばかりだったが、人前で歌うのは恥ずかしいし、声は震えるし、音を外すし、ただの童謡をタンバリンやマラカスを使って極限まで盛り上がって歌う両隣についていけないし、とにかく疲れていた。

けれど、一応三沢と春日はペースをあわせてくれているし、声を思い切り出すことは、思いの他、気持ちがよかった。

「でもタッチーうまいうまい」
「おお、初めてにしては上出来上出来」

そう褒めてくれる2人の言葉はお世辞だとわかるけれど、それでも3人で一緒に歌うのは楽しいことだった。

「でも、もう疲れたわ…。このくらいで勘弁してもらえるかしら…。」

アイスティーを啜りってソファに倒れこむ冬子の消耗ぶりに、さすがにいつも悪ふざけばかりしている2人も苦笑する。

「そだね、ごめん、調子のったかな」
「初めてだもんな、この辺にしておくか」
「ええ、お願い…。後は、2人で歌って?…でも、楽しかったわ……」

そういって、疲れきってはいるものの微笑む冬子。
その笑顔に、春日と三沢も嬉しそうに笑った。
そして、三沢が大きく音をたてて手を打つ。

「よし、じゃあそろそろ…」
「あ、そうだな」

そう言って、春日が鞄を漁りだす。
冬子はソファに倒れこみながら、その様子を見守る。

「……どうしたの…?」
「はい!」

春日が冬子に何やらかわいくリボンのかけられた包み紙を差し出す。
何がなんだか分からず、思わず受け取る。

「これ…?」
「自転車乗れるようになったねおめでとう記念プレゼント!」
「大したものじゃないんだけどね」
「え、え……?」

冬子は目の前の友人達と、手の中の包み紙にかわるがわる目をやる。
大切な2人は、にこにこと邪気のない笑顔を浮かべていた。

「そんな、私、何もしてない……」
「タッチーよく頑張ったじゃん、その記念」
「そうそう、コーチから生徒への卒業記念」
「でも……私……」

2人に迷惑をかけた。
世話になった。
温かいものを、沢山もらった。
初めての、友人ができた。

自分が何かを返さなければいけない記憶は腐るほどあるものの、こんなものをもらえることをした覚えはない。

「私、もらう資格、ないわ……」
「え、プレゼント、いやだった?」
「うわ、やっぱ俺のセンスじゃだめか!?」
「い、いえ、そうじゃない!そうじゃないの!」

冬子は目頭が熱くなる。
唇をかんで、こらえる。
気を抜くと、胸の熱いものがそのまま零れ落ちそうだった。

「わ、私、これをもらって、いいのかしら」
「もっちろん、むしろもらってもらわないと困るんだけど」

にっこりと笑って、再度人差し指でつつき、プレゼントを押し付ける少年。
その無邪気な子供のような笑顔に、ますます胸が熱くなる。
再度きつく噛んで、冬子は震える唇を押さえつけた。

「あ、ありがとう…」
『どういたしまして!』

促す声に押されて、リボンを解く。
小さな包み紙を開くと、そこには綺麗なガラス細工のシンプルなキーホルダーがあった。

「綺麗……」
「本当はチャリがプレゼントとか出来たらよかったんだけどね、金なくてごめんー」
「チャリの鍵とかにつけてよ」
「え、ええ。すごく、すごく嬉しいわ」
「実はね、俺達とおっそろーい」

そう言って笑いながらポケットからジャラジャラとキーを取り出す春日。
三沢もバッグからケータイを取り出す。
そこには冬子の手のなかにあるものと、同じデザインのキーホルダーが付いていた。

春日はブルー。
三沢はオレンジ。
そして冬子はホワイト。

色違いで、けれど同じデザイン。

「なんかだっさいけど、おそろいー」
「まあちょい、青春て感じで酸っぱいんけど、いいよね、お友達の証ってことで」

ちょっと照れくさそうに頭をかく春日と、目を逸らして居心地悪そうに笑う三沢。

冬子は、今まで色んなプレゼントをもらったことがある。
高価なもの。
希少なもの。
とても手の込んだもの。

けれど、この高価でも希少でもない、ありふれたキーホルダーが何より、一番嬉しかった。
唇をきつくきつく噛んでも、溢れてくるものが、こらえられそうになかった。



***




泣き出しそうになる冬子と、照れくさい雰囲気をごまかすように、春日と三沢は曲を入れ始め、次々と歌う。
三沢は明るく激しいテンポの曲調を好み、時にはふりをいれて気持ちよさそうに歌う。
それは聴いているだけで、元気になるような曲ばかりだった。
春日は幅広いジャンルをこなすが、冬子にはバラード調の洋楽が耳に残った。
いつもはふざけている春日が真剣に歌う姿は、なんだか印象的だった。

三沢にはキモイとからかわれていたが。

しばらく歌って、春日の携帯から音楽が鳴り響いた。
ごめん、と断って、春日が部屋の外に姿を消す。

冬子は、その後ろ姿を、少しだけ寂しい気分で見守る。

「春日君は……女性に好かれるのね」
「あー、あいつ死ぬほど馬鹿だけど、マメだし女には優しいしね」
「いつも、誰かが傍にいるし…」
「まあ、ノリいいから、一緒にいて楽しいことは楽しいしね」

そこで少しだけ沈黙が落ちる。
三沢が3杯目のウーロン茶を一口含むと、ちょっと考えてから冬子に向き直る。

「あの、さ」
「何かしら?」
「タッチーって、もしかして、カズのこと、好き?」

どこか言いにくそうに、三沢らしくなくごもごもと小さく問う。
それは小さくくぐもっていて、最初冬子には何を言っているか分からなかった。

「え……?」
「カズのこと、好きだったり、する?」

先ほどよりは、しっかりとした声。
今度は、ちゃんと冬子に届いた。
けれど、言葉の意味は、うまく取れない。

「私が、春日君を…?」
「うん、いや、まあ、馬鹿だけど、あいつ、確かにいい奴ではあるし…」

それは思ってもみなかった言葉。
耳に入る言葉が、うまく頭に伝わらない。

私が、春日君を、好き。

それは冬子にとって、本当に、思いもしない、言葉だった。





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