「私は………」 その後になんと続けようとしたのか、自分でも分からないまま冬子は言葉を紡ぐ。 しかしその瞬間、冬子の後ろに位置する扉が大きな音をたてて開いた。 入ってきたのは、冬子にとってすでに聞きなれたどこか軽い調子の明るい声。 「おっまたせー」 「きゃあ!」 突然のことに、冬子は思わず飛び上がり甲高い声をあげる。 その声に、入ってきた春日も目を扉の隣で丸くして固まる。 「な、何?」 「な、なななな、なんでもないわ!」 「何、どうしたの、冬子?」 「ととととと、冬子って呼ばないでちょうだい!」 明らかになんでもなくない冬子の様子に、春日は怪訝そうに首を傾げる。 きっちりと名前を呼ばれたことには訂正を入れながら、冬子は顔を真っ赤にして手を振って意味のない行動を繰り返す。 後ろを振り向くことができない。 話すときは、いつも真っ直ぐに相手の目を見て話す冬子の、らしからぬ態度。 春日は心配そうに眉を顰めて、後ろからおもむろに冬子の顔を覗き込む。 「なんでもない、って、なんか顔が赤いぜ?」 「いひゃあ!」 その息がかかるぐらいの近すぎる距離に、冬子は動揺し奇妙な声を上げた。 慌てすぎて、思わず椅子から転げ落ちそうになる。 「え、わ、館乃蔵!?」 「きゃ!」 咄嗟にその体を支える春日。 自然と、背中から抱き寄せられるような体勢で更に密着する2人。 「館乃蔵?」 「………………」 心配そうに腕の中の少女を、上から覗き込むようにして見つめる春日。 冬子はすでに何も言えず、顔をこれ以上ないほどに赤らめて硬直していた。 視線の先には、ピアスを沢山つけ、派手な金茶の髪をした少年。 1月前からは考えられないほど、距離が近くなったクラスメイト。 少しだけ軽薄で、悪ふざけが過ぎて、でも優しくて温かい。 笑うと無邪気な子供のようにあどけなくなるその顔が、今は真剣な色を見せている。 かすかに鼻をくすぐる、香水の香り。 肩を支える手は大きく、力強い。 それは今までにないほど、春日を男性として意識させた。 冬子が得た、大切な友人。 そう、大切な友人だ。 「館乃蔵ー?おーい冬子さーん?」 「きゃ、きゃあああ!!!」 反応のない冬子に、春日は顔を近づけて名を何度も呼ぶ。 その声に、ようやく我に返った冬子は手足をバタバタさせて、肩を掴む大きな手から逃れようとする。 対する春日は、冬子の突然の行動に慌て、その華奢な体を取り落とさないように更に力を強める。 その力はますます冬子を追い詰めた。 「あ、か、春日くん、は、放して!」 「わ、ちょ、何!?あぶねーって、何だよ!」 「は、放して、放して頂戴!」 その2人のどこか滑稽な攻防を止めたのは、やはり三沢だった。 冬子の過剰な反応に自分が失敗したことに気付き、どうしたものかとしばらく静観していたが、さすがに春日も冬子も気の毒になってきた。 春日の腕の中から冬子の体を受け取ると、落ち着けるようにぽんぽんと背中を叩いた。 「ほら、タッチー大丈夫大丈夫」 「ゆ、ゆっこ……」 過剰なスキンシップが苦手な冬子だったが、今は三沢の胸にすがるように抱きつく。 すでに涙目で、肩で息をしている。 一方、取り残された春日は、三沢に頼っている冬子を見て、つまらなそうに口を尖らせ鼻を鳴らした。 「つーか何よ、人を痴漢みたいに」 不機嫌そうなその声に、冬子は今度は別の意味で慌てる。 自分の態度が、お世辞にも礼儀正しいと言えるものではないことにようやく気付いた。 春日が気分を害するのも、無理はない。 急いで後ろの春日に向きなおすと、頭を下げる。 「ご、ごめんなさい!そうじゃなくて」 「みたいじゃなくて、立派な痴漢じゃねーか」 「人聞きわりいな!」 冬子が謝ると同時に、三沢の軽いつっこみも入る。 更に不機嫌そうに、目を細める春日に冬子はますます萎縮する。 三沢の腕の中で必死に謝ろうと、言葉を探す。 「ご、ごめんなさい、春日君。ちょ、ちょっと慌ててしまって」 「何をそんなに慌ててんだよ」 「いえ、その、あ、えっと、わ、私が……」 「冬子が?」 先ほどの三沢との会話を正直に話すわけにはいかない。 あの言葉は、冬子の中でも未整理で未消化のままだったから。 必死に言葉を探す冬子。 しかし思考能力は稼動率を越え、うまい言葉が出てこない。 「私が、か、か、かす、」 「かす?」 春日を好きかどうか、なんて言えない。 恐慌状態の冬子には、三沢にすがることすら思いつかない。 辛抱強く待っている春日のまっすぐな視線に、更に追い詰められる。 崖っぷちに追いやられた冬子は、頭にようやく浮かんだ言葉を大きな声を口にした。 「か、かす、粕漬けをつけるなら、何がいいかしら!」 『……………』 スイッチの入ったままだった机の上のマイクに声が拾われたのか、冬子の発言が微かにスピーカーから響く。 その反響が静まるとともに、沈黙が部屋を支配した。 冬子は一拍置いてから、自分の言ってしまったことの意味が分かり、強く唇を噛む。 なんとか誤魔化そうと必死に考えるが、ややあって、春日と三沢から目を逸らした。 もう誤魔化すことすらできなかった。 「………館乃蔵?」 「…………」 さっきまで不機嫌そうだった春日の、どこか心配そうな声。 その本当に気遣うような視線が、冬子には体を刺すように感じられ、痛かった。 いっそ笑って欲しかった。 どうしようもない沈黙を打ち破ったのは、インターフォンのベルの音。 退室を告げる店員のやる気のない声だった。 その後延長をすることもなく、3人は気まずい雰囲気のままカラオケを後にした。 いつものように春日が自転車の後ろに冬子を乗せようとすると、少女はそれを頑なに固辞し三沢の荷台に収まった。 春日は不審に思いながらも、これ以上追い詰めるのは少し気の毒になって何も言わないでおいた。 そして冬子と分かれる交差点。 覇気なく別れを告げ、もうすっかり暗くなった道を冬子はよろよろと熱に浮かされたように歩く。 その後姿を幼馴染達は心配そうに見守っていた。 すっかりその背中が小さくなった頃、春日が横を見ないまま低い声で問う。 「おい、ゆっこ」 「……はい」 ピクリと体を震わせる三沢。 返事をすると、ようやく春日が三沢に向き合う。 その目は冷たく、いつもにやけている顔が真剣だ。 「お前、あいつに何吹き込みやがった」 「いやー、あそこまで過剰反応されるとは」 「純粋培養のお嬢様は、何でも考え込んじまうんだよ!」 「………うーんとね」 「…………」 視線をを彷徨わせる三沢。 しかし春日は冷たい目のまま、言い訳を許さない。 「……………マジごめん」 三沢は、素直に謝り頭をさげた。 次の日、冬子は熱を出して学校を休んだ。 |