恋は幼い頃から本やお芝居の中にあって、それを疑似体験をしては胸を躍らせたものだった。 架空の世界で繰り広げられる恋は時に眩しく、時に切なくて、少女の幼い好奇心と羨望をくすぐった。 それは淡い期待と憧れ。 いつかは自分も胸が高鳴るような恋をするのだろうかと、冬子は漠然と思っていた。 ただ、それは降り始めの雪のように儚いもので、触れれば消えてしまうような想像だった。 だから、急に突きつけられた現実に、冬子の思考回路は停止した。 自分が春日が好き。 それは考えもしなかったことだった。 確かに春日は好きだ。 大切な大切な、やっとできた友人だ。 明るく温かく力強くて、少しだけ悪ふざけのすぎる大事な友人。 かけがえの無い人。 けれど、春日を男性として見たことなんてなかった。 そのはずだ。 そのはずだった。 「冬子、大丈夫かしら?」 「あ、お、お祖母さま、す、すいません」 「いいのよ、寝てなさい。病人が何をしようとしてるの」 寝込んで学校を休んだ午後、忙しい祖母が冬子の部屋に顔を見せた。 尊敬する祖母にみっともない格好をみせまいと慌ててベッドから降りようとする。 それを柔らかに静止して、美鈴は枕元の椅子に腰掛けた。 年齢を重ね皺が目立つ、しかし白く美しい手を冬子の額に置く。 「熱を出すなんて久しぶりね。貴方、体は丈夫だったから」 「…はい、自己管理が出来てなくて情けないです」 「たまにはこうやって健康のよさを思い出すのも悪くないわ」 美鈴は額に置いた手をずらし、ベッドヘッドに背を預けてしょぼくれる冬子の頭を撫でる。 気持ちよさそうに目を瞑る冬子を見て、悪戯ぽく笑った。 「でも、風邪じゃないんですって?ふふ、知恵熱かしらね。あなた近頃色々考えてるようだし」 「ち、知恵熱って!私そんな歳じゃありません!」 「何言ってるの、体は大きくなったくせに、てんで子供なんだから」 くすくすと笑いながら、いつまでも若々しい祖母は孫の額を突く。 高校生にもなるのに、すぐにムキになる冬子を美鈴はこうして猫をじゃれつかせるようにからかう。 「それで、熱を出すほど何を考えているのかしら私のかわいい孫は」 「だ、だから私は知恵熱なんかじゃありません!」 頬を膨らませてまるで子供のように抗議する冬子。 いつだって尊敬する祖母の前では小さな子供になってしまう。 美鈴は冬子の顔を覗き込みながら、楽しそうに声をあげて笑う。 「笑わないでください、お祖母さま!」 「ふふっ、ごめんなさい。病人を刺激しちゃいけないわね」 「もう!」 それでもしばらく笑っていて、本格的に拗ねそうになった冬子にごめんなさいと謝って見せた。 冬子は頬を膨らませてはいたが、大好きな祖母にいつまでも怒っていることは難しい。 結局許してしまって、それから他愛のない会話に花が咲く。 その合間に、冬子はふと祖母の顔を見上げる。 にこにこと穏やかに笑う祖母はいつものように頼りになって安心した。 そんな美鈴に、冬子はいつもなんでも話し、相談し、答えを仰いでいた。 美鈴はすべてを教えはしないし、時には厳しく突き放すけれど、それでも道を示してくれる。 だから冬子は、今思い悩んでいることを口にしてしまおうかどうしようか、迷った。 聡明な祖母だったら、熱を出すほどの冬子の悩みに答えを出してくれそうだったから。 でも、それを口にするのはさすがに祖母であっても気恥ずかしくて躊躇われる。 「冬子?」 逡巡して黙り込んでしまった冬子に、美鈴が首を傾げる。 その気遣わしげな様子に、散々迷って、しかし冬子は心を決めた。 でも、やっぱり恥ずかしいから遠まわしに聞こうと考える。 「あ、あのお祖母さま」 「なあに、ごめんなさい、また具合が悪くなった?」 「あ、いえ、そうじゃないんです、そうじゃなくて、えっと、その」 冬子を気遣って席を立ってしまいそうな祖母を慌てて引き止める。 突発的出来事に弱い冬子にはなかなかうまい言葉が出てこない。 「えと、その、あの、うーんと、そうじゃなくて」 「冬子?どうしたの、大丈夫?」 「お、お祖母さまがお祖父さまを好きになった時って、どんな気持ちでした?」 自分の中の感情に、まだ名前は付けられない。 春日といると、ほっとする。 嬉しくて、ほわほわと温かくなる。 でも過剰なスキンシップにはちょっと困る。 温かい大好きな人。 ただ、それは友情とはどう違うのだろう。 友情すら初心者マークの冬子には、それを考えるのは数学の難問を解くよりも難しかった。 唐突に問われた美鈴は一瞬目を丸くする。 黙り込んでしまった祖母に、冬子は慌てて再度問いかける。 「あ、あの、お祖母さま?」 「冬子、あなた」 真顔になったと思った瞬間、冬子はいい匂いのする細い腕に抱きこまれていた。 祖母の気に入っている香水の匂いがかすかに香る。 何が起こったのか、即座に理解することができない。 「好きな人が出来たのね!貴方ももう恋をするお年頃なのねえ!」 「え、いや、ちが、違います。私じゃなくて、お祖母さまの!」 混乱したままジタバタと暴れ、美鈴の腕から逃れようとする。 そんな冬子に気付くこともなく、美鈴は更にはずむように言葉を続ける。 「まあまあまあまあ、いつまでも幼いと思ってたけど、もう立派な高校生ねえ!それでどなた?いつも貴方を迎えにきてたという男の子かしら?手ぐらいつないだの?キスは?あらあらあらあらいいわねえ、私だって若い頃はね」 「お、お祖母さま…、お祖母さま!」 声を張り上げて、祖母を制止する。 それでようやく、美鈴は止まってくれた。 不思議そうに首を傾げて孫を覗き込む。 「どうしたの?」 「ち、違うんです。その、春日君と私は何も無くて」 「春日君ていうのね、冬子の初恋の人は」 「ち、ちが!違います!そうじゃなくて!」 「なあに?」 このままではまた祖母のペースに巻き込まれてしまいそうで、冬子は必死に頭をフル回転させる。 自分が一体何を問いたかったのか、すでに分からなくなっている。 祖母の話を聞いて、遠まわしに自分の感情を探ろうとしていたのに、なぜこんなことになっているのだろうか。 それでももう、誤魔化すことは不可能のなので正直に悩みを相談することにした。 「わ、私これが恋なのか、どうか分からなくて」 「え?」 「確かに、その……春日君は好きだけれど、小説みたいにドキドキして春日君のことしか考えられないとか、四六時中一緒にいてほしいとか、他の女の子といるとその女の子を傷つけたくなるとかそんなことはないし…」 「貴方一体どんな本を読んでるの……」 「でも、確かに他の女の子と一緒にいる彼を見るのは寂しいし、一緒にいると、楽しいんです…」 たどたどしく、自分の今の気持ちを説明してから、冬子は泣きそうな顔で、傍らの祖母を見上げる。 それは悪戯を叱られた子供のように情けなかった。 「お祖母さま、これは、恋なんでしょうか」 それは本当に頼りない声で、今にも消え入りそうだった。 まっすぐに問われて、美鈴は肩をすくめる。 困ったように笑って、軽くため息をついた。 「もう、せっかく冬子ともそういうことが話せるようになったのかと思ったら…」 「……お祖母さま?」 「まだまだネンネね」 もう一度ため息をつくと、再度額を人差し指でついた。 まだ少し熱を持つ体は、その軽い力にかすかに傾いだ。 「それは冬子、私に聞いてもしょうがないでしょう」 少しだけそれは呆れを含んでいて、冬子は赤らんだ頬に更に血を上らせた。 それは確かに祖母の言うとおりで、言い訳をするように焦って言葉を重ねる。 「で、でも、分からなくて、お祖母さまだったら、経験もあるから…」 「そりゃあ私だって恋の一つや二つや三つや十ぐらいしたわよ」 「そんなに!」 すがりつくような孫に、それでも美鈴はゆるゆると首をふる。 優しく軽く汗ばんだ触り心地のいい髪を撫でながら、言い聞かせるようにゆっくりと話す。 「けれどね、それが恋かどうかは貴方が判断することよ」 「……でも」 「でもとかだってとか言わないの。ほらそんな泣きそうな顔しない」 相変わらず情けなく眉をさげ、唇を噛む孫に美鈴は再度苦笑する。 それは呆れているけど、でも優しい。 「それで熱を出していたのねえ、全くもう」 「……はい」 「焦らなくてもいいわ、冬子。ゆっくりその気持ちに向き合いなさい。それも大切なことよ」 覗き込む目は優しいから、冬子は静かにその言葉に耳を傾ける。 ゆっくりと穏やかに話す祖母の声は、いつだって冬子の胸に真っ直ぐに落ちてくる。 意地っ張りで天邪鬼な冬子を、素直にさせてしまう。 「焦らなくてもいいのよ。分からないなら分からないでいいの。間違っても、失敗してもいいのよ。ゆっくりとその感情を見つめて、そして自分がどうしたいのかを考えなさい。自分がどうしたいのか、何をしたいのかを考えたら、きっと答えは見えるわ。感情のままに、行動して御覧なさい」 「……はい」 まだ少し納得いかなそうだけれど、素直に頷く冬子。 それを見た、美鈴は破顔した。 パジャマ姿の孫をその腕に抱きこんでしまう。 「いい子ね。大丈夫、貴方は私の孫だもの。それにこんなにかわいいんだもの。どんな男だってイチコロよ」 「お、お祖母さま!」 「うふふ、冬子、答えが分かったら私にも教えて頂戴ね。私達、きっともっと仲良くなれるわ」 祖母の言うことは、冬子には難しくてまだまだ分からなかった。 それでも、「焦らなくていい」という言葉が胸のもやもやを吹き飛ばしてくれたような気がした。 どうせ自分は世間知らずなのだから、ゆっくり勉強していけばいいのだ。 そう、思うことにした。 そんな前向きな考えは、もしかしたら春日と三沢に教えられたものかもしれないと、冬子は少し笑った。 |