学校で話す人間がいないこと、特に1人で食事を取るということがこんなにも味気ないことだったと、改めて思い知った。 入学式からこっち、冬子はほとんど一人だった。 だから、寂しさなど感じることもなかった。 感じないようにしていた。 もともと、友達を作りにくい性格をしていたせいもあるし、今の学校とは別の意味で付き合いにくい人間ばかりだったせいか、高校に入るまでもそれほど友人はいなかった。とあることのせいで、少なかった友人もなくしてしまった。 一人でいることは、慣れていた。 何も、感じないはずだった。 けれど一度誰かと一緒にいることを知った後には、一人でいることの寂しさを思い知った。 冬子の無駄に高いプライドは、それを認めようとはしなかったが。 朝、一人でバスで登校する。 一時間早く起きるのは辛かった。 けれどもまた車で送迎してもらうのは、自分でもよくないことだと分かるので仕方がない。 なにより違うのは、朝、楽しげに冬子の知らないテレビの話や、店の話をする明るい声がないこと。 昼、一人で昼食をとる。 お弁当を持参する事を再開し、教室で黙って食べる。 せっかく慣れた学食を、利用することはない。 見知らぬメニューに感心する冬子に薀蓄をたれる、金茶の髪の持ち主は目の前にいない。 放課後、一人で下校し今までどおりに習い事などをこなす。 自転車の練習も中止し、大人に囲まれた生活に戻る。 一度やりとげると決めたことを投げ出すのは性分にあわず、自然と習い事も気がそぞろとなった。 軽薄な男といたのはたった一週間のこと。 それなのに、冬子の生活はこれほどまでに変わっていた。 がらり。 少し立て付けの悪いスライド式のドアは音をたてて開く。 教室内の目が一斉にこちらを向き、冬子を認めると興味をなくしてまた元に戻る。 冬子もそれらに意を解さず、早足で自分の席に着く。 いつもの風景。 なんとかして朝の挨拶をしようとしたのも、もう過去のこと。 少し前の、正確に言えば春日と親しくなる前の冬子に戻ってしまった。 春日を思い切り叩いてから一週間。 一方的に怒鳴りつけた男とは、一言も口を聞いていない。 次の日、何度か話しかけてきたが、冬子が徹底的に無視したのだった。 ついには困ったように大きなため息をついて、話しかけなくなってしまった。 他のクラスメイトが「やっぱりふられたかー」などと囃し立ててていたのも原因かもしれない。 それにへらへらと笑っていた春日にも、腹がたった。 時が経つについて、そんな態度をとってしまった後ろめたさが強くなってきてしまったが。 でも、自分は悪くない。 と思う。 自分をからかって下世話な噂の対象で見ようとしたり、人の努力を笑ったのは三沢の方だ。 それに怒ったからと言って叩くことはない。 と、思う。 あんな怖い顔をして、あんなに低い声で。 唇を血が出そうになるほど噛み締める。 怖かった。 春日に怒られたことが、とてもとても怖かった。 あのいつもちゃらちゃらした男に恐怖を感じたのがまた腹立たしくて、余計に意地を張りたくなる。 それでも、春日と、それに三沢に対しての罪悪感は大きくなるばかり。 自分の感情の動きも分からなくて、冬子はただ胸の苦しさを抱え続けた。 「冬子、近頃浮かない顔をしているわね、どうしたの?」 優しい、聞くほうの警戒心を解くようなおっとりとしたトーンの落ち着いた声。 冬子の誰よりも好きな人の声だ。 「おばあさま…」 華奢なつくりのティーテーブルの向かいに座っているのは冬子の祖母の美鈴。 夕食後、忙しい祖母が時間を割いてのお茶。 冬子のなにより好きな時間。 最高級の大島を隙なく身に着け、穏やかに微笑んでいる。 優しく厳しく誇り高く優雅な、冬子の理想の女性。 「一体どうしたの、つい最近まではとても楽しそうにしていたのに」 その言葉に冬子は目を見張った。 自分がそんなにいつもと違う態度をとっていたとは知らなかった。 しかも楽しそうとは…。 「お弁当を断って学校で食べるといったり、牛丼を作ってくれと言って輪島さんを困らせたり、自転車の練習をしたり、車での送迎をやめて男の子と登校したり」 いたずらっぽく笑って指折り数える祖母に、冬子は更に目を大きくした。 「…男の子……って、おばあさまご存知だったんですか…?」 「貴方が一人で登校するのが心配らしくて、春人(はるひと)が風間に見張らせていたわ」 「お兄様が……」 春人とは冬子の兄、風間は冬子の家の使用人だ。 兄の思わぬ行動に、冬子は動揺してティーカップの音をたてる。 美鈴は声をたてて楽しそうに笑う。 「貴方が色々してることが気に入らないらしくて、難しい顔をしていたわ。一緒に登校している男の子に何か言いにいきそうな勢いだから止めておいたけど」 それは家族全員に春日と登校しているということがばれているということで。 冬子は羞恥で顔に血がのぼっていく。 「あの子は彼氏?」 いつまでも若々しい祖母は、冬子以上に開明的で現代的なところがある。 なぜだか楽しそうに目を輝かせながら、身を乗り出してきた。 「か、彼氏って……そんなんじゃありません!!」 顔を真っ赤にしたまま、大きく首を振る。 「あら、そうなの」 残念そうに肩をすくめる美鈴。 そんな祖母の様子に、冬子は頬を膨らませた。 「からかわないで下さい。おばあさま」 「だって近頃の貴方、本当に楽しそうだったんだもの。てっきりそうだと思うじゃない」 鈴を転がすようにころころと笑う。 そんな姿も優雅で、冬子は状況も忘れて見惚れた。 「それに色々とチャレンジしているようで、私嬉しかったのよ。せっかく私の母校へ行ったって言うのに、いつまでも友達も見せてくれないし、楽しそうな様子はないし」 ふー、と深くため息をつく美鈴。 冬子は言い返すことが出来ずにわずかにうつむく。 「そ、それは……」 「まあ、貴方は不器用だし意地っ張りだしね、しょうがないけど。でも近頃は生き生きとしてたのに…。自転車の練習もしてないみたいだし、その男の子と喧嘩でもしたの?」 「喧嘩というか……」 「どうせ、貴方が意地を張って一方的に怒ってるだけでしょう」 小さい頃から知られているだけに、美鈴の言葉には容赦がない。 しかし冬子はその言葉が心外で顔を上げる。 「わ、私は悪くありません!」 「私は悪くない、なんて言葉が出てくる時点で貴方が悪いのよ。喧嘩なんてものはどちらか一方だけが悪いことなんてほとんどないんだから、多かれ少なかれ。自分の悪いところを認められないような子供なのかしら、もう高校生にもなる私の孫は」 唇を強く噛む。 祖母はまっすぐに孫を見つめている。 逃げることは、許されない。 「でも……」 「でもとか、だってなんて言葉は聞きたくないわ。冬子、貴方は館乃蔵の娘でしょう」 おっとりとした優しい声色。けれど逆らうことを許されない絶対的な声。 目をそらせないまま、冬子はびくりと一度体を震わせた。 そんな孫娘の様子に、美鈴は小さく息をつく。 「まったく貴方は人付き合いが下手なんだから。末っ子だからって甘やかしすぎたかしらね。まあ上二人みたいにツンケンされるよりいいんだけど」 そうして顔を和らげる。 困ったような、優しげな苦笑。 「冬子、喧嘩っていうのはね、友達じゃないと出来ないのよ。一方的な誹謗中傷や、いじめとは違うの。貴方も今までそういうのは受けてきたでしょう。そんな時、貴方は今のように落ち込んだりしなかったわ。確かに傷ついたり、悔しがったりはしていたけど、真っ直ぐ前を向いて、闘ってきたわ。それは完全に貴方が悪くない、という確信があったから。貴方は傷つかなかったわ。じゃあ、どうして?」 「え……」 冬子は呆けたような頼りない声を漏らす。 「貴方はどうして落ち込んでいるのかしら」 どうして落ち込んでいるのか。 どうして、私の胸はこんなにも重苦しいのか。 どうして、春日の顔を見るたび泣きたくなるのか。 「その男の子のことが嫌い?」 「あまり……好きなタイプの人ではありません」 優しげな声に戻った美鈴に、冬子は小さく答えを返す。 「でも、一緒に過ごすのは楽しかったのでしょう?」 「………はい」 大好きな祖母に問われ、冬子は頷いた。 確かに、楽しかった。 色々新しいことを知って、軽口を叩いて、笑いあうのは。 新鮮で楽しい一時。 それを失って感じたのは、例えようのない喪失感。 「向こうも悪かったのかもしれないわね。でも貴方も悪かったところがあるのではなくて」 うつむいて、唇を噛む。 それから、ずっと胸を渦巻いていた罪悪感の正体を探る。 本当はずっと分かっていたのかもしれない。 春日の言っていたことは正しい、と。 「……私は、言いすぎたかもしれません。私は言葉の扱いが、不得手です」 小さな声、けれどしっかりとした口調だった。 まだ、うつむいたままだったが。 美鈴は満足気に笑うと、ティーカップを口元に運んだ。 すでに冷えているそれに、ちょっと眉をしかめる。 「そう、じゃあ貴方がやることは分かるわね」 「……はい」 今度はまっすぐに前を向いて、祖母を目を合わせた。 まだ不安げに目を揺らしている。 けれど、目はそらさなかった。 「いい子ね。それでこそ私の孫よ」 「…はい」 尊敬する祖母に褒められ、冬子はようやく笑った。 美鈴はお手伝いを呼び、お茶のお代わりを頼む。 そうして大きくため息をついた。 「全く、本当に手のかかること」 と、決意をした翌日。 冬子は春日に話しかけることは出来なかった。 何度も声をかけようと努力した。 けれどいつも沢山の男女に囲まれる春日に、近づくのは至難の技だった。 結局何をすることもなく、一日は終了した。 放課後、すっかりと日の暮れた道をいつもの冬子らしくないしょぼくれた足取りで歩く。 自分のふがいなさに心底落ち込んでいた。 これでは尊敬する祖母のようになれるわけがない。 悔しさに目頭が熱くなり、それをこらえようと唇を強く強く噛む。 いつの間にか、顔は完全にうつむいていた。 バス停も通り過ぎ、とぼとぼと歩き続ける。 いつもは徒歩では通らない商店街脇の道に近づいた時、信号が赤に変わった。 冬子はそれに気づき、足を止め、顔を上げる。 そして驚きで目を見張った。 横断歩道の真ん中で、沢山の荷物を抱え、立ち往生している老婦人がいた。 荷物が転げ落ちてしまい、困っているようだ。 周りにまばらにいる人は、誰も老婦人を助けようとしない。 クラクションを鳴らされ、老婦人は泣きそうなほど困っている。 冬子は咄嗟に行動に移せず、おろおろと周りを見渡す。 その時、誰かが冬子の横をすり抜けて老婦人に近づいた。 零れ落ちたりんごを広い、老婦人の荷物を抱えようとしている。 しかし、焦っているためか、またりんごが落ちてしまう。 そこまで来て、ようやく冬子は体を動かすことが出来た。 素早く駆けつけ、老婦人の荷物を半分抱える。 「危ないわ、早く行きましょう」 そうして最初の救出者と一緒に、急いでその場を離れた。 「あーぶなかったー!!!」 大きな声で大きく肩を撫で下ろしたのは、最初の救出者、三沢だった。 冬子も肩で息をしている。 すでに道路は車がエンジン音を響かせ行き来している。 老婦人は大げさなまでに頭を下げて恐縮していた。 冬子が口を開く前に、三沢がぱたぱたと手を振る。 「いーのいーの、無事でよかったね。ていうかこの荷物超重いし。家まで持ってたげるよ」 にこにこと子供のように笑い、手に持った荷物をそのまま歩き出す。 「あ、でも……」 老婦人が困ったようにおろおろとしていても気にすることはない。 「館乃蔵さんも、それでいーよね?」 口を出せずに、状況を見守っていた冬子は、黙ってこくこくと頷いた。 それから老婦人の家まで三人で荷物を運んだ。 老婦人はまた恐縮してお礼をすると何度も言うのを三沢が笑って辞退し、二人は老婦人の家を後にした。婦人はいつまでも見守り、三沢はそれに手を振っていた。 「いやー、助かっちゃった。あの荷物、私一人じゃ持てなかったし。ありがと、館乃蔵さん」 二人で並んで歩きながら、三沢はあどけなく笑って冬子に軽く頭を下げる。 こんな風に、さきほども三人で一緒に歩きながらも三沢は色々と話していた。 この前のいきさつを思い出し、冬子は少々いづらい気分になる。 「いえ、あなたにお礼を言われるようなことではないし…」 それに、三沢がいなかったら冬子は老婦人を助けることが出来なかったかもしれない。 「でも館乃蔵さんって結構人がいいねー。もっとタカビーな人かと思ってた。結局最後まで付き合ってくれちゃうし」 「人がいいのは、あなただと思うわ」 タカビーという言葉の意味を図りかね、眉をひそめるが冬子はそう返した。 困ってる人を助けるのは、当然のことだと思う。 けれども冬子はとっさの勇気が出なく、行動に移すことが出来ない。 素早く動けた三沢を、少しの悔しさと共に、尊敬の念を抱いた。 「えー、私ってば人がいい?うわ、褒められちゃった。うれしー!!」 きゃーきゃー騒ぎながら、大げさに驚く。 その無邪気な仕草に、冬子は頬を緩めた。 そして、自分がしなければいけないことを思い出す。 息を大きく吸って、はく。 胸に手をあてて、三沢に目を合わせた。 「あ、あの……」 「あ、そーだ、この前はごめんね、館乃蔵さん」 躊躇いがちに口を開いた冬子にかぶさるように、三沢が頭を大きく下げた。 綺麗にピンでまとめられた髪が崩れそうなほど勢いよく。 「え?」 「私本当にシツレーなこと言っちゃったみたいでさ。カズにも怒られちゃったよ。ごめんね。人が頑張ってるの笑っちゃうようなことしちゃった」 顔をあげ、眉をさげて困ったように手を合わせる。 冬子は先手をとられて、思わず言葉を失った。 「あ、いえ……そんなことは…」 「あ、許してくれるの?館乃蔵さん、本当にいい人じゃーん!」 ぶんぶんと手を握られて振り回される。 いちいち大げさで行動の大きい三沢に振り回される。 次々と出てくる言葉に、冬子は付いていくことが出来ない。 「あ、あの、それで……」 「それじゃさ、お詫びのしるしってことでさ、お茶でもおごらせてよ。館乃蔵さん今暇?」 「え、ええ…時間はあるけど……」 「じゃ、お茶してこー。この近くだと…マックがあるかな、あ、後ミスド!館乃蔵さんマックとミスドどっちがいー?」 冬子が言葉を差し込むことの許さぬまま、話はどんどん先に進む。 「ま、まっく?」 「あ、マックがいい?今安くてお得だもんねー!」 「あい、いえそうじゃなくて」 「あれ、じゃあミスド?」 新たな単語の襲来に、冬子は思考を停止させた。 ま、マック…?MAC? MAC:米国、Apple社のパソコン。 (米略式)おい、君<名前の分からない男子への呼びかけ>(ジーニアス英和) ミスド…Missed? Missed:miss(動)<他>の過去形 〜しそこなう。乗りそこなう。〜がいないのを寂しく思う。(ジーニアス英和) ど、どういうことなのかしら、マックはお姉さまがお持ちだったパソコンが確かそんなような名前だったような…。それとも人の名前?それを…寂しく思う…? マックがいないことを寂しく思う…? しかしどうやらマックはお得らしい。 ということはやはりパソコンだろうか。 パソコンを……損なう。壊す? な、何かのスラングかしら? 「館乃蔵さん?」 「あ、えと……」 黙り込んでしまった冬子を、不思議そうに首を傾げて覗き込んでくる三沢。 どうしたらいいのやら、目線をさまよわせる。 「あ、やっぱり忙しかったりした?」 「い、いえ!そうじゃないの!」 「じゃ、どうしたの?」 辛抱強く待っている三沢に、冬子は観念した。 目をそらしたまま、小さな声でつぶやく。 「……『まっく』と『みすど』って……何かしら?」 一瞬置いた後、三沢は住宅街に響き渡る声で笑い出した。 冬子はやはり春日の友人だと、心から思い知った。 |