「はーい」 場にそぐわない、明るい声が、聞こえた。 驚いて顔を上げようとしたその瞬間、目の前が、白く焼けた。 真っ白で、圧倒的な光が、辺りを埋め尽くす。 眩しくて、咄嗟にぎゅっと目をつぶる。 「迎えにきたよ、兄さん」 耳に心地よい、聞きなれた声が響く。 瞼の裏の白い光が徐々にひいていく。 また目に優しい暗闇に戻るのを感じて、恐る恐る目を開く。 壁に張り付いて座り込んだ俺の目の先。 廊下をゆっくりと歩いてくるその姿は、よく見知ったものだった。 「し、てん………」 声がすんなりと出る。 慌てて手で喉を探る。 口が、解放されている。 いや、手も動く。 顔も動く。 俺を縛り付けていたものは、綺麗になくなっている。 まだ腹の中のものは暴れまわっているが、辺りの黒いものは一掃されていた。 重苦しいゼリーのような空気も、ねっとりとした嫌な悪意も、何もない。 未だ力の供給がないせいで飢えがひどいが、呼吸は楽になっている。 そういえば、四天の顔もはっきりと見える。 1メートル先も見えないくらいの暗闇が、ない。 窓から差し込む月明かりに照らされて、彫像のようなシルエットが浮かび上がる。 「四天……」 「ずいぶんボロボロだね。大丈夫?」 にこにこと笑いながら、四天は瓦礫の中を、まるで最高級ホテルの赤絨毯のように優雅に近づいてくる。 中3にしては高い背とバランスのいい体は、まるでこの場の主役のように周りを圧倒する。 先ほどの岡野を思い出して、偽物かと一瞬警戒する。 けれどそれはすぐに打ち消す。 夜をまとってなお場を圧倒する、その空気。 こんなの、あいつらがまねできるわけない。 「お前、なんで、ここに………」 「母さんに頼まれてさ、兄さんがなんかやらかしてるようだから捕獲してって」 「なっ………」 疲れ果てているのに、頭に血がのぼる。 偽物のはずがない。 このムカつく言い方、天以外にいるはずがない。 天は馬鹿にしたように肩をすくめて、溜息をつく。 「弱いんだから無茶しないでよ、兄さん。俺の手間がかかる」 「た、すけてくれ、なんて、言ってない」 「ひどいなあ、デートだったのに、放ってきたんだよ?」 ああ、ムカつく。 こいつの小馬鹿にしたような態度は、何より俺の癇に障る。 助けてもらったのは、確かだ。 だが、正直礼を言いたくない。 こいつにだけは、言いたくない。 こいつにだけは、助けられたくなかった。 こいつにだけは、情けない姿を見せたくなかった。 ちくしょう。 また、こいつに助けられた。 助けなんて、呼んじまった。 自分が、情けない。 結局、こいつにすがるしかないだけの、自分が。 くそ。 「立てる?後始末して帰るよ」 「あ、くっ」 兄を兄とも思ってない態度で、偉そうに天が顎をしゃくる。 痺れる手足をなんとかふんばって、立ちあがろうとして。 失敗した。 不様に顔から、廊下に突っ込む。 転がっている瓦礫の欠片や砂で、顔がざり、っとすりむける。 もう色々なところが痛くて、それくらい些細なことに感じたが。 それよりも、天の前で不様な姿を見せた方が、痛い。 「ああ」 天は思い出したというように頷いて、近づいてくる。 そして、腕を掴まれ乱暴に体を起こさせられる。 「っつぅ」 「もう、カラッカラだね。だからさっさと供給しておけって言ったのに」 「………」 それは、言われるまでもないことだった。 何度も、後悔した。 意地を貼らずに供給を、頼めばよかったと。 「カラッポだからガードが緩んで、こんなことになるんだよ。この家に、呼ばれたんでしょ。兄さんは格好の餌だから」 「…………」 ああ、そうか。 そういうことか。 佐藤たちを使って、誘いこまれたのか。 餌として、目をつけられていて、弱って鼻が効かなくなったところを狙われたのか。 そうか、だから、こんなところに来てしまったのか。 いつもだったら、こんなの付き合わない。 見て見ぬふりをする。 本当に、とんだ馬鹿だ。 自分の体質を、散々天からも家族からも、教えられていたのに。 「んじゃ、とりあえず動けるくらい供給するね」 「う………」 嫌だ。 こいつから、力をもらうのは、嫌だ。 でも、俺は結局こいつにもらうしかないのだ。 こいつに寄生するしか、生きる術はない。 悔しい。 嫌いだ。 自分の体質も貧弱さも。 嫌みの塊のようなこいつの性格も。 そして圧倒的なその強さも。 天が腕をつかんで引っ張ったままの体制で顔を近づけてくる。 嫌だ。 でも、これでこの苦しさから解放されると思うと、体が勝手に力が抜ける。 渇きが治まる。 早く。 苦しい。 「あ」 だが、寸前で天の動きが止まった。 マジマジと、俺の顔を見る。 「な、んだ」 「お腹の中いっぱいに、邪気がたまってるね」 「え………」 「ちょうどよかった、それ使おう」 そして天は何を言っているか分からなくてただ見上げる俺に、にっこりと綺麗な顔で微笑んだ。 急に止められておあずけをくらった犬のようにすがる。 「な、に………」 「ちょっと待ってね」 天が体を離して、辺りをくるりと見まわす。 腕を放され、俺はまたそこに崩れ落ちる。 力をようやくもらえると思っていた俺は、思わず天を追いかけてしまいそうになる。 苦しい、苦しい、早く。 くそ、まるでおこぼれをもらうためにしっぽを振る犬だ。 でも、苦しい。 腹の中では、黒いものがいまだにじわじわと俺の中を溶かしている。 力が足りなくて、今にも乾き死にそうなほど、苦しい。 「………て、ん」 「ちょっと待ってってば」 自分でもムカついてくるような、まるでいじましい弱々しい声に、天はうざったそうに切り捨てた。 そしてピィっと軽く口笛を吹く。 「白峰」 愛しそうに名前を呼ぶ。 それは、天の使鬼の名前だ。 すると、俺が向かおうとしていた奥の部屋から、白い獣がゆっくりと現れる。 白と言うよりも銀色といったほうがいいような、光輝く毛並みをした狐。 ふさふさとした尾は4本ある。 見ているだけで圧倒されるような、飼い主によく似た力溢れる鬼。 俺が使おうとしたら、1分持たずに干からびるだろう。 白峰は俺のことをちらりと横目で見ると、馬鹿にしたように顎をつんとあげた。 くそ、本当に飼い主にそっくりな畜生だ。 「………あ」 そこで、気づいた。 白峰の背に乗っている、二つの人影。 その華奢な体からは想像できないほど、軽々と運ばれているそれは。 「さ、とう…っ」 体を起こそうとして、それもかなわない。 ただ、首をのばしてその顔を見ようとする。 少し乱れているが、あのお団子は、確かに佐藤だ。 ということは、隣にいるのは、平田か。 「よしよし、えらいぞ、白峰」 天が白峰の頭を優しく撫でると、白峰は気持ち良さそうに目を細めた。 そして身を伏せて二つの体をそこにそっと下ろす。 よく見ると、その体はかすかに上下している。 生きてる。 心からの安堵で、また涙が出そうになる。 よかった。 助かって、よかった。 それだけで、いい。 四天はちらりと値踏みするように二人に視線を送る。 それから首をかしげた。 「さて、兄さん、男と女どっちが好き?」 「え………?」 「こっちのかわいいお団子のお姉さんと、頭悪そうなお兄さん、どっちが好き?」 そんなの、選択肢にもなっていない。 ここで平田を選ぶ奴をいたら見てみたい。 質問の意図が分からないが、俺は情けなく寝っ転がったまま佐藤に視線を送った。 「だよね。まあ、女の方が向いているけど、んじゃ男の方にしよう」 すると、天はにっこりと笑った。 そして、平田の頭を掴んで乱暴にひっぱりあげる。 「な、に………?」 「兄さんの中の邪気もらうよ」 そう言って、片手で平田の頭をつかんだまま、四天は俺の背を押さえる。 何回かさすられ、何かをする気かと問う前にいきなり力を叩きこまれた。 「ぐ、か、はっ」 暴力的な勢いでぶつけられた力に、俺は吐き気とともにえづく。 それでも力は何度も何度も叩きつけられる。 苦しい苦しい苦しい。 痛い痛い痛い。 黒いものが、勢いを増して腹の中で暴れまわる。 「あ、つぅ、く、い、った」 「ちょっと痛いよ。ごめんね」 本当に悪いとは全く思っていない様子で、天は更に力を叩きこむ。 ボロボロと涙が出てくる。 鼻水が出てくる。 涎を何回も吐きだして、胃から胃液がこみあげてくる。 腹が焼ける。 そのままその熱さと痛みが上に上がってくる。 喉が焼ける。 口が。 そして、黒いものがどろりと口から飛び出てきた。 「うげ、ぐ、うぇ」 「ん、よしよし」 腹の中が空っぽになるまで、天は力を送り込み続けた。 俺は嘔吐するように何度も何度もえづきながら、それを吐き出し続ける。 吐きだしきった時には、胃を溶かされるような痛みは治まったが、疲れでもう指一本も動かせない状態だった。 「さすが兄さん、すごい飲み込んでたんだね。これだけ飲み込んだら普通の人だったら3分持たずに狂うよ」 四天の感心したような声が聞こえる。 でもすでに、体も、そして力も限界だった。 何も反応できない。 「じゃ、これ、このお兄さんに移して、依り代になってもらうね」 まるで、明日の朝食を告げるように、天は朗らかに俺に告げた。 |