「三薙?」 感じた違和感を言葉に出来ず黙りこんでいると、雫さんがもう一度名前を呼ぶ。 俺はやっぱりもやもやとしたものを形に出来ず、黙って頭を振った。 「どうしたの?」 「なんでも、ない」 なんだろう、このしっくりいかない感じ。 今、目の前にあるものに、何かが納得いかない。 でも、それがなんだか、分からない。 「じゃあ、玄関いこ」 「う、ん」 雫さんが俺の背を押して促す。 俺はもう一度頭を振って、頷いた。 考えていても仕方ない。 今度こそ、天が来るまで待とう。 そう思い続けているのに、結局四部屋も見てしまった。 何もなかったからよかったけれど、何かあったら天に怒られていたところだろう。 まあ多分、今までの行動で、十分怒られるだけの材料はそろっているけど。 俺って本当に学習しない。 キ、イ。 そんなことを考えていると、どこかで軋んだ音がした。 お互いの呼吸と足音しか響いてなかったところの当然の音に、俺と雫さんは息を飲む。 音の方を目を向けると、階段の向こうの扉が不自然に開いていた。 さっきまで、開いてなんかいなかったはずた。 「………奥の、部屋?」 「みたい、だな」 雫さんが、眉を顰めて唇をきゅっと噛む。 それから俺に視線を向けた。 「どうする?」 「………どうもしないほうがいいと思う」 「賛成」 気にはなるけれど、行かない方がいいだろう。 阿部や岡野がいる可能性は低い気がする。 「じゃあ、玄関行こう」 「うん」 お互いの同意の上、俺たちは左を向き玄関に向かおうとする。 そして、その時、今度はまた別の音がする。 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。 俺たちが向かおうとする、左側から。 「え」 「嘘、なんで」 再度、俺たちは息を飲む。 それは、先ほど前のものとは違う、けれど確かに足音だった。 どこか軽い、裸足のような足音。 玄関の方から、音が響いている。 ざわりと、全身が総毛立つ。 なんだろう、先ほどの足音よりももっとずっと、嫌な感じがする。 気持ち悪くて、胃がむかむかとする。 「ど、どうする!?」 「罠ぽくない!?あっちに追いやろうとしてるっぽくない!?」 「じゃあ、玄関に行く!?」 「ど、どうしよう!」 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた。 「廻れ右!」 「賛成!」 雫さんの提案に、一も二もなく頷いて、元いた部屋に戻ろうとする。 部屋の中に入ってきたらと思うが、この足音の主と対面するのをとりあえず避けたい。 後で何があろうと、とりあえずここから逃げたい。 バタン! しかし目の前で、部屋の扉は閉まった。 叫び声をあげそうになるのを必死でこらえる。 「………っ」 雫さんも顔が真っ青になっている。 駄目だ、ここで立ち竦んでいたら、駄目だ。 「………雫さん、立ち向かう、罠に飛び込む、どっち!」 「………罠に飛び込む!」 「賛成!」 深く考えての行動ではなかった。 足音がする左にはいけない。 右には二階への階段と、奥の扉が開いた部屋のみ。 だったら行ける場所は、一つだけだ。 ただ、後ろから襲いくる何かに耐えきれなかった。 生理的な嫌悪感と恐怖感から、足が突き動かされる。 俺たちは瓦礫やゴミが落ちた廊下を、必死で走り去る。 廊下を駆け抜け階段を通り過ぎ、奥の部屋に飛び込む。 バタン! そして中に入ると同時にドアを閉めた。 足音は聞こえなくなって安堵するが、すぐに鼻をつく生臭さに、吐き気を覚えた。 鉄臭さと生臭さの混じり合った、嫌な匂い。 この匂いは、知っている。 「臭!何、この匂い」 「………」 雫さんが眉を潜めて鼻と口元を抑える。 荒くなった息をなんとか宥めて、ようやく部屋の中を見渡す。 そこは今までの部屋よりもずっと暗かった。 窓が小さいからだ。 ピチャ、ン。 水音がして、体がビクリと震える。 薄汚れてはいるものの元は白かったと分かるタイル張りの部屋。 そして部屋の奥はクリーム色のカーテンで仕切られている。 「バスルーム?」 「だな」 この匂い。 この音。 水が止まっているはずの家。 雫さんが嫌そうな声で言う。 「………開きたくないなあ」 「このままにしておく?」 「それも、気になってヤだよね」 「………うん」 カーテンの奥には何かいるのではにないかと思って、落ち着かない。 でも、部屋から出る気にはなれない。 なぜか部屋の外にいるかもしれないアレよりも、この部屋の方がいいと思えた。 最初の足音では、そこまで思わなかったのに。 「………じゃあ、俺開くね」 「………うん」 力を蓄え、何があってもいいように身構える。 そして恐る恐るカーテンに手をかける。 シャッ。 思いのほか軽やかに、カーテンがレールを滑る。 そして出てきた光景に、思わず口元を抑えた。 「………う」 カーテンの向こうには、想像通りバスタブがあった。 そしてそのバスタブには、並々と中身が湛えられていた。 薄暗くてよくは分からないが、薄暗さでは誤魔化しきれない赤黒い、液体。 長い時間で濁った水かもしれない。 それ以上、それが何か、というのはやはり考えたくない。 あの、陰惨な模様がついた子供部屋を思い出す。 一体ここでは、何があったんだろう。 「………三薙、あれ」 「なに、え」 雫さんが指さす方向には、バスタブの横に供えられた洗面台と、その上に設置された鏡。 さっきの鏡に映った何かを思い出して、身構える。 けれど、鏡の中に人はいなかった。 ただ、鏡の表面に、赤いものがすっと動いている。 まるで誰かが指についた液体で、鏡に字を書いているように。 「………字?」 「うん、みたい、だね」 正直、気味が悪くて目を逸らしたかったが、なんとか堪える。 赤い液体は、不自然に動き続け、文字らしきものを形作る。 「コ」 粘性のある液体は、不器用に乱れて、傾いている。 それに、少し垂れて形を崩れている。 「ドモ?」 「子供?」 そして、今度は線が二本引かれる。 「二?」 漢字の二、か、片仮名のニなのか。 どちらなのだろう。 次に引かれた字は、上からすっと線が下に引かれ払われる。 その線の真ん中から、一本線が引かれる。 雫さんが首を傾げる。 「人?」 そう言った瞬間、鏡の真ん中から亀裂が入った。 あ、と思う瞬間に亀裂はますます広がって行く。 「危ない!」 「うわ!」 咄嗟に雫さんと鏡の間に入って背を向ける。 その瞬間、渇いた音が浴室内に響いた。 ガシャン!!! コートの上から衝撃を感じて、鏡が割れたことが分かった。 カシャカシャと、地面に破片が落ちる音がする。 「大丈夫!?怪我ない?」 「あ、うん………」 一応腕で防ぎはしたが、念のため雫さんの顔を覗き込む。 雫さんは呆けたようにぼうっとしていた。 「どこか痛くない?」 「あ、うん、平気平気」 けれど怪我はないようで、重ねて聞くとこくこくと頭を振った。 それから俺の顔を見て、目を見開く。 「み、三薙、ほっぺた!」 「え、あ」 雫さんがそっと触れた頬に、ぴりっと痛みが走った。 どうやら飛び散った破片の一つが頬を掠めたらしい。 自分でも触れてみると、微かに痛みが走り、少量の血が指についた。 そこまで大きくも深くもないらしい。 「大丈夫!?」 「平気だよ、これくらい」 「ガラスとか入ってない?」 「と、思うけど。大丈夫、舐めとけば治る」 「ほっぺたを?」 「あ、そうか」 自分で自分の頬を舐められた苦労しない。 俺の言葉に、雫さんがちらりと笑う。 「………ありがと、ごめんね」 「ううん、あ、それより、鏡は!」 慌てて振り向くと、鏡は粉々になって砕け散っていた。 あの字が何を書こうとしていたのかすでに分からない。 そしていつの間にか、バスタブの中にあった液体も消え去っていた。 ただ、部屋中に立ち込めている匂いだけは、消えていなかったが。 「さっきの字、人って、ことはふた、り?」 「子供が二人ってこと?」 写真には子供は一人しか映っていなかった。 子供は二人いたのだろうか。 見つけてといっているのは、もしかしてその一人だったりするのだろうか。 分からない。 何も分からない。 気にはなる。 けれど、早く家から出ないといけない。 でも、さっきからこの家から出ることを妨害し続けられている。 「………外、足音消えた?」 だからこそ、早く家から出ないと駄目だろう。 家に留めるのが目的ならば、それにやすやすと乗ってはいけない。 雫さんがドアに耳をつけて、外の気配を探る。 「うん、消えてるし、気配もない」 「………じゃあ、今度こそここから出よう」 「………うん、そうだね。今度はあいつがいても、向かおう。それで、玄関目指そう」 「うん、それがいいかもしれないな」 このままここにいることがいいことだとは思えない。 何者かに、手の平で転がされているような気がする。 さっきから、翻弄され続けている。 「じゃあ、行こう。雫さん、後ろから来てね」 「分かった。………さっきは本当にありがとね、三薙」 「ううん。雫さんに怪我がなくてよかった。女の子なんだし。俺は男だからいいけど」 男だから怪我の一つや二つ、別に問題にない。 女の子の顔に傷なんて残ったら大変だ。 「三薙は、いい奴だね」 「え、は!?」 突然言われた言葉に、ドアにかけた手を驚いて止めてしまう。 後ろを振り返ると、雫さんはにっこりと笑っていた。 凛々しい顔に浮かべる笑顔は、とても優しく、可愛らしい。 こんな時なのに、体温が上昇していく。 「頼りにしてるよ!行こ!」 「う、うん」 頼りにしてると言われて、胸の中がふつふつと熱くなっていく。 体に力が、漲ってくる。 こんな俺でも、必要としくれるのだろうか。 必要とされているのだろうか。 「三薙?」 思わず黙り込んだ俺の背に、雫さんがそっと触れる。 俺は一つ頷いて、聞こえないように口の中でありがとうと言った。 「行こ」 そして前を振り向いてドアに向き合って、また息を飲む。 ドアに、先ほどまでなかった模様が付いている。 クレヨンで書いたような太い子供の物と思われる幼い字。 「僕を見つけて」 雫さんが、それを読み上げる。 先ほどと同じ文言。 なんだか、嫌な気分に襲われる、文字。 「この子が、私達を守ろうとしてくれてるのかな」 「………」 この子供は何を訴えたいのだろう。 あの写真の子供じゃないのだろうか。 もう一人いるのだろうか。 「見つけてって、どこにいるんだろう。もう部屋は全部見たし。二階かな」 「二階は、ここより、多分もっと危険だと思う」 「そうなんだ?」 「………うん」 この前のことを思い出せば、天がいないのに上に行くわけにはいかない。 俺たち二人では、手に負えないだろう。 あのゼリーのような空気思い出して、喉がつまった。 雫さんは俺の強張った顔に気付いてか、一つ頷く。 「じゃあ、やめておこう。玄関行こう」 「うん、そろそろ、四天が来てもおかしくないと思うんだけど」 腕時計を見ると、そろそろ電話をしてから40分ほどになろうとしていた。 それしか経っていないのか。 もっと長い間、ここにいた気がする。 いい加減、天はそろそろ来るはずだ。 「行こう」 「うん!」 そしてもう一度外の気配を探ってから、恐る恐るドアを開ける。 屋敷の中は相変わらず薄暗く据えた匂いがして、静まり返っていた。 玄関から見た景色とは逆。 左手に階段、その先に部屋が4つ、奥は薄暗くてよく見えないが玄関があるはずだ。 右手には窓がずっと並んでいる。 「あ、分かった」 それを眺めて、ようやく違和感の正体に気付いた。 「三薙?」 「窓が、一つ多い」 「え?」 「あの部屋の前だけ、窓が一つ多いんだ」 そうだ、それが、感じていた違和感だったのだ。 |