背後から聞こえてくる、足音。 後ろは、俺たちが今までいた、クローゼットの中の隠し通路。 誰もいないはずの、場所。 「どういうこと!?」 悲鳴のような雫さんの声。 一度安心してしまったからこそ、焦りと恐怖がいやます。 後ろから来るものが何かは分からない。 でもそれがいいものだとは、到底思えない。 「雫さん、逃げよう!」 「わ、分かった」 雫さんがすぐさまドアに飛び付く。 俺はクローゼットの扉を乱暴に閉め、ポケットからハンカチを取り出す。 そして瀟洒な作りの取っ手をぐるぐると巻いて、簡易のつっかえとする。 バタンと、隠し通路の向こうのドアが開かれた音がする。 「雫さん、平気!?」 「あ、これ!」 「ち!」 雫さんがガタガタと音を立てて、ドアに立てかけられた椅子を外そうとしている。 そういえば、隠し通路に入る前に、椅子でドアにバリケードを作っていた。 外からの侵入者から身を守るための備えは、今はただ俺たちを逃がさないようするための檻に見える。 なんて馬鹿なことをしたのだろう。 でも、あの時は外に敵がいると思っていたのだ。 部屋の中に敵がいるとは、思っていなかったのだ。 「外れた!」 クローゼットのドアを抑えながら、雫さんの元まで行こうかどうしようか迷っていると、ガシャンと部屋中に響き渡る音を立てて、椅子が投げ捨てられる。 どうやらバリケードは無事解除出来たようだ。 外にいるのが、味方だとは限らない。 でも、ここにいるよりは、いいだろう。 ガタン! クローゼットの扉を離そうとしたその瞬間、体に衝撃を受けた。 扉が、揺れる。 重厚な古い木材がメリメリと軋み、たわむ。 「………っ」 「三薙!?」 「だ、大丈夫!」 クローゼットの扉を隔てたすぐそこに、来ている。 何かが、来ている。 ドン、ドン、ドン! 重い何かが体当たりしているように、クローゼットの扉が何度も軋む。 じわりと、全身に冷たい汗をかく。 何が、いるんだろう。 そこに、何がいるんだ。 俺たちは何を出してしまったのだろう。 いつ、出してしまったのだろう。 そんなの、知らない。 分からない。 「三薙、ごめん、ドアがまだ開かない!」 雫さんの、泣きそうな声。 例によって、ドアは閉ざされてしまっているようだ。 集中を乱した雫さんが、力を作ろうとして、何度か失敗を繰り返す。 「大丈夫!落ち着いて!」 「わ、分かってる!分かってる!」 「落ち着いて。平気だから。雫さんなら、出来るから」 いつもだったら、俺がパニックになっているところだろう。 けれど、雫さんが慌てていると、逆に冷静になってくる。 なんとかここを持ちこたえて、雫さんを無事に家に帰さなければ。 俺に付き合わせてしまって、こんな目にあっているのだ。 この優しく強い人を、傷つけたりしたくない。 岡野と、雫さんと、俺で、絶対に家に帰るんだ。 「大丈夫、ここはまだもつ。だから、雫さん、ドアを開けて」 「………三薙」 「出来る、信じてる」 揺れるドアを抑えながら、ゆっくりともう一度告げる。 そうだ、それに傷つけたくないなんて、思い上がりだ。 俺よりもずっと雫さんは強い。 むしろ俺が守ってもらうこともしばしばだ。、 雫さんが俺の方を見て、一つ頷く。 「………うんっ」 きゅっと唇を噛んで、もう一度頷く。 そして、大きく深呼吸して、目を瞑る。 雫さんが、綺麗な赤い力が纏い始める。 彼女のまっすぐな気性を表わすような、強く激しい色。 ああ、綺麗だな。 ドン! 思わず見とれていると、もう一度強くクローゼットが叩かれた。 ぎゅっと体全体を押し付けて、扉を閉ざす。 大丈夫、このまま押さえていれば、雫さんがドアを開けてくれる。 そうしたら一緒にドアを飛び出そう。 その後はどうする。 まず、ドアを閉める。 その後は。 なんとか、玄関まで辿りつけるだろうか。 こいつから逃げながら、外にいけるだろうか。 分からない。 いや、いけるだろうか、じゃない。 いかなければいけない。 このままここにいても、いつかは破られるだろう。 力を使って結界を張った方が、いいだろうか。 そうだ、そうしよう。 雫さんが退路を確保している間に、俺はここに結界を張って、こいつを抑え込む。 そしてこいつが出るのに手間取っているうちに、逃げよう。 力は、まだある。 雫さんから貰った。 大丈夫。 俺は、やれる。 息を吸って、目を閉じて、神経を研ぎ澄まして。 青い青い海。 俺を包む、真っ青な水。 澄み渡る、青い空と、その下の海。 力を、変換させる。 青い力を、辺りに這わせる。 「………っ」 その瞬間、ざわりと、全身が総毛立った。 訳も分からず本能のままに、咄嗟にクローゼットから離れる。 その瞬間。 ザク! 俺がたった今までいた場所に、銀色のものがつき立っていた。 つき立っている、のではない。 突き刺さっている。 鋭い銀色の刃が、クローゼットの向こうから突き刺されている。 あのギザギザで二枚に重なった刃は、さっきの子供部屋で見た鋏だろうか。 ザク!ザク!ザク! 何度も何度も、同じように、鋏が、クローゼットの扉に穴を開ける。 刃は半分ぐらいしか出ていない。 それでもその刃は長く鋭く、変なところを刺されれば、大事になっていたかもしれない。 ぞくりと、改めて全身に悪寒が走る。 意識を集中させていたから気付くことが出来たが、気付かなかったら今頃刺されていた。 その悪意に、吐き気がしてくる。 「三薙!?」 「なんでもない、雫さんはそっちに集中して」 「う、うん」 雫さんのほうにちらりを視線を向ける。 大分ドアに絡みつく邪気は弱くなっている。 後少しで、開くはずだ。 タイミングを逃してはいけない、雫さんの邪魔をしてはいけない。 後、少しなんだ。 再度クローゼットに視線を向けようとして、クローゼットの向かいにある鏡台がちらりと目の端に映る。 「うっ」 鏡台の鏡に映るクローゼット。 その、ハンカチで縛られて閉ざされた、僅かな扉の隙間。 そこには、大きな血走った二つの目が、じっとこちらを見ていた。 「………っ」 思わず目を逸らしてしまう。 駄目だ、すぐにクローゼットは突破されてしまう。 どうすればいい。 結界を張るのか。 駄目だ、俺の術の速度じゃ間に合わない。 では、どうする。 迷うな、躊躇うな、俺に出来ることは多くない。 「………雫さん、手伝う!」 「う、うん!」 だったら、さっさとこの部屋から出て改めてドアを閉ざし、仕切り直そう。 とりあえず、あいつには掴まってはいけない。 力を練って、絡みつく邪気を祓い、ドアを切り開く。 しつこくドアを閉ざそうとする蔦のようなそれを何度も何度も切りつける。 その間にも、後ろでは叩きつける激しい音がして、集中を乱す。 駄目だ、集中しろ。 落ち着け落ち着け落ち着け。 「後、少し、だよ、三薙!」 「うん!」 最後の一際しつこく強い蔦を、俺のナイフ状の力で切り払う。 雫さんがドアノブに手をかける。 ギ、音を立てて、ドアが開く。 「やった!」 「うん、行こう!」 バタン! その瞬間背後で、クローゼットの扉が開け放たれた音がする。 トサ、と軽い音を立てて、何かが、床に降り立つ。 パタパタパタ。 駆け寄ってくる。 「…く、そ!」 雫さんを押しやって、鈷を手に、後ろを振り向く。 そこには目を爛々と輝かせた、小さな少年の姿。 こんな状況に相応しくなく無邪気に楽しそうに笑っている。 その手には鋏。 俺に振りかぶろうとしている。 「三薙!」 雫さんだけは、守らなきゃ。 絶対に、守らなきゃ。 パリ、ン。 硬質な渇いた音を立てて、世界が、揺れた。 |