「あ、べ!」 天の腕から抜けだそうとして、身じろぐ。 追い掛けてどうするということは考えてない。 ただ、阿部を捕まえて、話を聞きたかった。 なぜ、どうして、どうやって、こんなことになったんだ。 聞きたいことは、山ほどある。 「動かないで」 しかし天にしっかりと抱えられて、追い掛けることは敵わない。 このままでは、阿部が逃げてしまう。 さっきまで倒れていた人間とも思えない、俊敏さ。 雫さんが咄嗟に追いかけようとしているが、間に合わないかもしれない。 「え………」 けれど、ドサっと音がして、ドアを出たすぐ先で阿部の体が崩れ落ちた。 まるで操り糸が切れてしまった、マリオネットのように。 「大丈夫ですか?お二人とも」 その後に響いてきたのは少し不安げな、けれど落ち着いた優しい声。 この声は、ここ最近聞き慣れたものだ。 「し、とうさん………?」 呼びかけと共に長身の人の姿が、倒れ込んだ阿部のすぐ傍に現れる。 なんで、ここにいるのだろう。 どうして。 部屋の中を覗き込んだ志藤さんは、天の体にもたれかかる俺を見て表情を変える。 「三薙さん!」 こちらに駆け寄ってこようとして、けれどぴたりと足を止める。 目を瞑って、大きく息を吸って、吐く。 「大丈夫ですか」 「は、い。大丈夫です」 その言葉を聞いて、志藤さんはもう一度大きく深呼吸をする。 そしてその場に座り込み、阿部の腕を捻りあげた。 阿部はさっきまであんなに元気に動きまわっていたとは思えないほどぐったりとしていた。 完全に気を失っているようだ。 「ありがとうございます。お疲れ様でした。守備はどうですか」 天が、その様子を見て志藤さんに話しかける。 「あ、すいません、失礼いたしました。はい、とりあえず場を沈めてあります。これで問題はないと思いますが………」 「了解です。ありがとうございます。あなたは本当に有能だ」 「あ、いえ、そんな」 手早く阿部を縛りあげながら、志藤さんは顔を赤らめる。 天がこんな風に人をストレートに褒めるなんて、あまりない。 しかもこれは嫌みなどではなく本心からのようで、満足げに微笑んでいる。 「………」 天は、志藤さんを認めているのか。 志藤さんが認められている誇らしさと、志藤さんへの尊敬と、自信のない人が認められることに対する喜びが胸をよぎる。 それと同時に、天に認められている志藤さんに、嫉妬が浮かぶ。 ああ、こんな苦しい状況でも、しかも志藤さんに対しても、俺は嫉妬から逃れることはできないのか。 「中は誰もいなかったんですね」 「ええ、私が見回った限りでは」 「了解です」 俺が苦しさと痛みと自己嫌悪にぐるぐるしている間に、話が進んでいく。 自問自答から思考を引き剥がし、二人の会話に耳をすませる。 つまり、最初から志藤さんと一緒に来ていたということか。 本当に天は、抜かりがない。 「そうだな………」 天が目を眇めて、辺りを見渡す。 それから視線を落とした。 「兄さん、もうちょっと我慢してくれる?」 腹の中では相変わらず邪気が暴れ回って、苦しい。 なんとかさっきから自分で処理をしようとしているが、力が足りないからうまくいかない。 じりじりと、力が削られるばかりだ。 でも、まだ我慢できるはずだ。 「………うん」 「黒輝」 天が呪を唱えて、こんな捨邪地のど真ん中に黒き狼の姿が現れる。 さっきの祓いで大分力を使っているだろうに、まだ天の力は底が見えないらしい。 天は天で辛いと分かっていても、やっぱりその力は羨ましくて、悔しい。 「黒輝、ごめんね。兄さんを運んで」 「俺、歩ける………」 「本当に?」 「………」 「変な意地は張らないで、面倒くさい」 大きな黒い獣の上に、下ろされる。 黒輝は若干嫌そうだったが、黙って乗せてくれた。 やや堅いがさらさらの毛並みは、気持ちがいい。 「志藤さん、ソレ持ってください」 「あ、は、はい」 倒れ込んだ阿部を指さされて、慌てて志藤さんが阿部の体を抱えあげる。 天は剣を手に、すたすたと部屋から出ていく。 黒輝も黙ってその後ろをついていく。 「雫さん、岡野さん、俺たちから離れないでください」 「あ、うん」 「分かった」 岡野が小さく駆け寄ってきて、俺の顔を覗き込む。 黒く汚れた顔で、俺を心配そうに覗き込んでいる。 そんな哀しそうな顔をしないでほしい。 岡野には、いつでも不敵な顔で、笑っていてほしい。 「宮守………」 「だい、じょうぶ。ごめん、みっともない、姿見せちゃって」 「………アホ」 頭を小さく叩かれる。 でも、その後くしゃりと優しく髪を撫でられる。 「本当に、馬鹿」 「あは」 岡野に馬鹿って言われるのが、嬉しいのは、変なのだろうか。 腹の中はこんなにも痛くて苦しくて、力が足りなくて喉が渇く。 でも、温かくて、胸がいっぱいに満たされていく。 岡野が、無事でよかった。 まあ、俺は大したこと出来なかったんだけど。 岡野自分で脱出しちゃったし。 部屋から出て、階段を下り、廊下を抜ける。 相変わらず空気は重く暗いままだったが、何も現れない。 「外だ!」 雫さんの弾んだ声と共に、玄関がぎぎっと音を立てて開かれる。 あんなにも苦労したのに、なんだか一瞬だった。 岡野らしき姿を見て、屋敷の中に入ったのは遠い昔のように感じる。 外はもう日が沈み切る寸前で、すっかり暗くなっていた。 完全に闇に沈む前に、出てこれて良かった。 「つっ」 屋敷の門から出てしばらく歩いたところで、黒輝に乱暴に放り投げられる。 仕事はすんだというように、さっさと姿を消してしまった。 薄情な奴。 「四天さん、鞘をどうぞ」 「ありがとうございます」 そこには一台の乗用車があって、志藤さんが中から長くシンプルな鞘を取り出す。 ああ、志藤さんの車の中にあったから、大丈夫だと言ったのか。 「志藤さん、先にお二人を送り届けてください」 「あ、はい………、三薙さんと四天さんは?」 「後で迎えに来てくれますか?兄さんがこの様子だし、コレもあるし」 「………はい、承知いたしました」 車は5人乗りのセダンだ。 阿部も入れたら、完全に人数オーバーだろう。 「石塚様、岡野様、こちらへ」 「あ、はい。………三薙、四天、後でね」 雫さんが車に素早く入り込む。 岡野が躊躇うように俺を見下ろしている。 俺はなんとか見上げて、笑顔を作る。 「後で、連絡、するね」 「………絶対しろよ」 「うん」 岡野がすっとしゃがみこんで、俺の頭をもう一度撫でる。 それから車にようやく入り込む。 エンジンが素早くかかり、危なげなく車は発進する。 残されたのは、俺と弟の二人。 「さて、と」 「ぐぅ、くっ」 俺は草むらに横たわり、ようやく我慢を止めて痛みと苦しみに身を丸めてうめく。 辺りは闇に落ち、不気味な家はすぐ傍にある。 こんな状況でも不安にならないのは、天が横にいるからだろうか。 「まずは結界、ね」 天が素早く辺りに結界を結界を張る。 白い力に満ちた空間に、息が少しだけ楽になる。 弟は、立ったまま、俺を見下ろして笑う。 「大丈夫?………じゃ、なさそうだね」 「………うん」 大丈夫なんかじゃ、ない。 痛みと苦しみに気を失ってしまいそうなのに、痛みと苦しみがそれを許さない。 何千何万の虫は、いまだに腹の中を食い荒らそうとしている。 シャリシャリシャリシャリと、内臓を食べられる音がするようだ。 「く、るしい」 「またこんなズタボロになって、本当に汚い」 天が跪き、俺の傷ついた頬をぐいっと押さえる。 鈍い痛みは、大きな痛みの前ではあまり痛いとも感じない。 「ん………」 「血が、出てるね」 天が身をかがめて、俺の頬を舐め取る。 ひやりとした、濡れた感触。 「腕も。でも、縫うまではいかないかな」 「ぐっ、つ、いた、い」 「痛いだろうね」 ぐいっと腕を引っ張られ、天が傷口を抉るように爪を立てる。 さすがに頬より深い傷を押さえられると、鋭い痛みが走る。 血が溢れて、制服が濡れている気がする。 天がハンカチで、腕を縛り上げる。 強く締め上げられて、また呻く。 「っ」 「力も減ってる。苦しいよね」 「て、ん」 呼吸が唇にあたるぐらいの距離に、天の顔が近づく。 俺の視界には、天の目しか映らない。 吸いこまれてしまいそうな、深い深い黒。 後少しで、力が、貰える。 「供給は禁止されてるんだよね」 「あ………」 けれど、天は身を起こして、小さく笑う。 当然、与えられるものだと思っていた力が、離れていく。 すぐ、そこにあったのに。 力が、あったのに。 「………っ」 欲しい。 そこにあるのに。 力は、そこにある。 「………天」 体の中を食い荒らす邪気をどうにかしたい。 そしてこの飢えを満たしたい。 岡野のおかげで心は満たされた。 でもやっぱり、体は極限まで飢えている。 「天、………四天」 すぐ、そこにあるのに。 なんとか、手を伸ばして弟の黒い髪を引っ張る。 引き寄せられた天が、くすくすと楽しそうに笑う。 「欲しい?」 「………」 欲しい。 天との供給は禁止されている。 でも、我慢できない。 後少しで、与えられるところだったのだ。 ごくりと、唾を飲み込む。 渇いた唇を舐めて湿らせる。 欲しい。 欲しい欲しい欲しい。 この飢えを満たしてくれる、圧倒的な力が欲しい。 体の隅々まで熱が行き渡る、あの快感を感じたい。 「ね、兄さん、欲しい?」 「天、欲しい。頼むから、力を、くれ、天………」 天の顔を、両手で挟みこむ。 相変わらず天は、何もしてなくても白く力を纏って輝いている。 欲しい。 これが、欲しい。 「まあ、非常事態だしね。今なら、いいか」 くっと喉の奥で笑って、天が近づいてくる。 後少しで唇が触れそうな距離で、呪を唱える。 「宮守の血の絆に従い、此の者に恵みを。此の者に巣食う闇を浄化せよ」 そして、唇が触れる。 ぬるりと濡れた舌が、俺の開いた唇から忍び込んでくる。 その瞬間、回路が繋がり、白い力がどろりと中に入り込んでくる。 「んっ」 ああ、欲しかった。 これが欲しかった。 俺の中を満たす、白い力。 圧倒的に、何もかもを染めつく、暴力的なまでの白。 「ん、ふっ………」 自分から舌を絡めて、天の唾液をもっと奪おうとする。 天の唾液が、甘い。 飲み込むたびに、快感に体が震えて弛緩していく。 「ん、ぐ、あ、かはっ、あ」 そして天が俺の胸に手を置いた瞬間、祓いの力が入りこんでくる。 暴力的な白は、俺の飢えを満たしながら、俺の中を巣食う闇を喰らいつくして行く。 体が跳ねるほどの、ビリビリとした痛み。 けれどそれは体の中を綺麗にされる気持ち良さも伴い、痛みと快感に涙が溢れてくる。 「あ、はっ、天」 もう何が分からない。 でも、欲しい。 もっと欲しい。 気持ちがいい気持ちがいい気持ちがいい。 力をもっと受け入れるために天の背に腕をまわし、更に密着する。 天の体から溢れだす力が、気持ちがいい。 「んっ」 体の中が綺麗にされ、いっぱいに満たされた後、天が唇をそっと放す。 そして襲ってくるひどい倦怠感と、急激な眠気。 体が地面に沈み込みそうなほど、重い。 瞼が閉じたまま、開くことが出来ない。 「ねえ、兄さん。兄さんにはどうしてもらおうかな」 「………天?」 瞼が持ち上げられない。 意識がフェードアウトしていく。 だからまた、俺は天の問いに、答えられなかった。 |