志藤さんの部屋に移動している最中に、また当主部屋に差し掛かる。
その部屋の前はやっぱりひんやりと冷たい空気が漂っていた。

「…………」

今日は障子が開いていないから中が確認できないが、もしかして露子さんがいるんじゃないかと一瞬立ち止まる。
するとすぐに中から声がかかった。

「三薙さんかな?どうぞ、お入りください」
「す、すいません」

まるで天みたいだ。
思わず飛び上がってから、恐る恐る障子を開ける。
露子さんはやっぱり巫女服姿で、湖に対峙していた。
明るい月明かりの下の、冷たく神秘的な光景。

神秘の巫女は俺の手の中の荷物を見て、おかしそうに笑う。
そうすると途端に人間味が生まれてほっとした。

「ふふ、荷物を持ってお引っ越しかな。昨日の部屋を用意させようか」
「あ、いえ、今日は志藤さんのところで寝ます。あ、だ、駄目じゃないですよね?」
「いや、別に私は構わないが。あっちにももう一組ぐらい布団もあっただろうし。でも、いいのかな」
「はい、すいません」

わざわざ今日も部屋を用意させるのはとてもいたたまれない。
昨日は時間も時間だから、露子さん自身が色々用意してくれた。
兄弟喧嘩で当主の手を煩わせるというのはさすがにもう御免こうむりたい。
いや、使用人だったらいいのかというとそうじゃないんだけど。

「四天さんとうまくいっていないのか」
「あ、で、でも、仕事はちゃんとしますから!」
「分かってる。そこは心配してはいない」

慌てて答えると、露子さんはからからと笑う。
心配してないって言われると、なんか逆にプレッシャーでもある。
露子さんにそんな気はないんだろうけど。

「兄弟とは難しいものだな」

露子さんが笑顔を消すと、ふっとため息をついた。
それは俺と天のことを言ってはいるのだろうが、それ以上に露子さん達のこと言っているのではないかと想像してしまう。

「ああ、私は別に、霧子も湊も、愛しているよ。あっちとしては私が何を考えているのかが分からないと言うのはあるようだが」
「そんなことは………」
「あるだろう」

ないとは、言い切れない。
付き合いが短すぎてなんとも言えないが、確かに露子さんは少し冷たい印象を受ける時もある。

「どこの兄弟も難しいものだな。特に四天さんは霧子や湊なんかより複雑そうだ」
「………はあ」

複雑なんてものじゃない。
あれは複雑すぎて歪つになっている。。

「でもあの志藤さんと言う人に甘えすぎるのも、まずいんじゃないかな」
「あ、や、やっぱり、使用人だし、いけないと思うんですけど………」

指摘されて恥ずかしくて、つい俯いてしまう。
宗家の自覚がないというのは、昔から言われていることだ。

「いや、そういう訳じゃないんだが。まあ、私の勘違いかもしれないな」
「へ?」
「だが、人の感情を縛り付けてしまうというのは、重いものだ。三薙さんには気をつけてほしいな」

何を言われているのかよく分からなくて、はあ、という間抜けな応答しかできない。
露子さんは、俺の答えに軽く肩を竦める。

「私は人を縛るつもりも、縛られるつもりもないから、好意であれ悪意であれ、強い感情を向けられるのは中々に負担だ」

それは誰のことを言っているのだろう。
俺なのか、それとも露子さんなのか。

「俺、誰かを、縛り付けて、ますか?」
「さて。余計なことを言ったが、何しろ私は人の感情と言うのが良く分からない」
「………」
「人間は難しいな」

露子さんは湖に視線を移して、目を細める。
月明りの青い世界の中、露子さんは自分から輝くようで本当に綺麗だ。

「私は、何をされても何をしても、愛しいとしか思えない。だがそれは、確かに犬や猫を愛しいと思う感情と一緒と言われれば、その通りだ。それに………」

まるで独り言のように呟いていた露子さんが、そこで言葉を切って首を振る。

「いや、なんでもない」

それから、もう一度、窓の外に視線を移す。
真円にはやや欠ける月を見上げる。

「ああ、本当に月が綺麗だ」

目を細め、愛しげに月を見つめる。
この前もそう言っていたっけ。
月が綺麗で、こんな日に、霧子さんがいなくなったって。

「………」

あれ、でも、今日、湊さんは、違うことを言ってなかったっけ。
曇っていた、闇夜だったと、言っていた気がする。
聞き違いだっただろうか。

「…………霧子さんがいなくなったのは、月夜だったんですっけ」
「ああ、綺麗な月夜の日だったよ。霧子の旅立ちにふさわしい」

一つ違和感を感じたら、また生まれる違和感。
霧子さんは自由な人だった。
けれど臆病な人だった。
出ていく度胸なんてないと言った湊さん。
飛んで行ってしまうのは当然だとした露子さん。
二人の言葉に、小さな行き違いがある。

「どうかしたかな?」

黙りこむと、露子さんが面白そうに聞いてきた。
違う。
こんなの、単なる俺の聞き違いか勘違いか何かだ。
深く考えなくていい。
他家の事情に関わるな、だ。

「いえ、俺、そろそろ休みますね。お休みなさい。露子さんも早く休んでください」
「ああ、ありがとう。だが、胸が高鳴って眠れそうにないよ」

そう言って笑う露子さんは、やっぱり綺麗だった。
だから俺は、自分の中に沸いた変な考えに蓋をした。



***




「あの、志藤さん、いいですか」

志藤さんの部屋の前で、中に向かってそっと声をかける。

「え!?み、三薙さん!?」
「はい」

中でどたばたと音がする。
なんか転んだような音がした。
なんかぶつかったような音がする。

「あ、あの、志藤さん?」
「な、なんですか!?」
「だ、大丈夫ですか!?」

勢いよく開けられた障子から現れた志藤さんは、眼鏡がずり落ちて、服も乱れて、髪もぼさぼさになっていた。

「は、はい、失礼しました」

それに気付いたのか慌てて身支度を整える志藤さん。
寝る準備をしようとしていたのか、ネクタイは緩くほどかれ、シャツのボタンがいくつか外されている。
髪が下ろされてやや疲れたような顔は、なんだか一兄がスーツを脱いでいる時のような大人っぽさを感じた。

「………志藤さん、なんか、社会人て感じですね」
「え、あ、どうしてですか?スーツですかね?」

急に大人の人みたいに感じて言うと、志藤さんがまだ慌てた感じで自分の姿を見返す。

「でも私、まだ学生なんですよ。今は休学中です」
「え、そうなんですか!?」
「ええ、まだ大学生です。事情があり、休学しております。その間、宮守の仕事のお手伝いをさせていただいている半人前です」

露子さんが学生と言うのもびっくりしたが、志藤さんが学生だったのもびっくりだ。
なんだ、この人達、老け過ぎだろう。
いや、大人っぽいんだ。
そうだ、そういうことだ。

「………そうだったんですか」
「がっかりされましたか?」

どう受け止めたらいいのか分からなくて曖昧に返事をすると、志藤さんが困ったように笑った。
いや、がっかりという訳じゃない。
なんだか今まで一兄と同じカテゴリだったのが、急に双兄カテゴリに入ってしまったような不思議な感覚なだけなのだ。

「いえ!双兄と同じぐらいなのに、ずっと、志藤さんの方がしっかりしてますし!」
「ありがとうございます」

そして訳の分からない返事をしてしまった。
やっぱり双兄と同じぐらいというのには、見えない。
志藤さんの方がずっとしっかりしている。
でもまあ、志藤さんの方がずっと純粋かもしれない。

「そういえばこんな時間に、どうかされたんですか?」

そうだった。
あまりにびっくりしすぎて本題を忘れそうだった。

「そうだ、えっと、あの、今日こっち寝かせてもらいませんか?」
「は!?」

志藤さんがまた大きな声を出す。
こんな夜に他の部屋まで聞こえてしまったんじゃないだろうか。

「え、だ、駄目ですか?」
「え、と、いや、えっと、………え!?」
「あ、ご、ご迷惑なら………」

そんなに嫌だっただろうか。
ちょっと困りながらも承諾してくれると思ってたのだが。
志藤さんはぶんぶんと首を横にふってはくれる。

「あ、いえ!…………いえ、いえ、はい」

なんだか焦点が合わないうつろな目で、何度か口の中で何かをつぶやいている。
そこまで、嫌だったのか。
そうだよな、いくら友人でも、今は仕事中だしな、困るよな。

「………変なこと言って、すいませんでした。戻ります」

露子さんにやっぱり、部屋を用意してもらおう。
あの人ならきっと笑いながら引き受けてくれるだろう。

「いいえ!違います!えっと、私は、構いませんが、その、よろしいのですか?」
「………いいんですか?」

引き返そうとすると、慌てて引き留められる。
恐る恐る聞くと、志藤さんはまだ困ったような顔をしながら頷いた。

「はい、その、三薙さんはいいんですか?」
「はい、だって、俺から言ったんだし、志藤さんがよければ。あ!露子さんもいいって言ってましたし!」
「そ、そうですか」

そういえば、立見家に許可を取ったかどうかは言ってなかった。
その辺も気にしていたのだろうか。

「では、その、狭いところですが、って私の部屋でもないんですか、どうぞお入りください」
「はは、じゃあ、お願いします」

押し問答の末、ようやく部屋に入れてもらえた。
部屋は俺と天に割り当てられたものより一回り狭く、けれど綺麗に手入れはされている部屋だった。
志藤さんは几帳面に使っているようで、荷物が散乱している様子はない。

「本当に、急に押しかけてきてすいません」
「いえ、私は問題ないですが………」
「ありがとうございます」
「いえ、では、どうぞおくつろぎください」
「はい!あ、とりあえず、風呂入ってきますね。そうだ!志藤さんも一緒に入りますか?」
「いえ!滅相もないです!」
「………そうですか」

やっぱりこれは駄目なんだな。
立見家の風呂も十分広いから、二人ぐらい余裕ぽかった。
でも、一緒に風呂入るっていうのは、友達としてはおかしいのだろうか。
修学旅行みたいに入りたいのだけれど。

友達って難しい。



***




「ふふ、本当に修学旅行みたいですね」

志藤さんの隣に布団を敷いていると、どんどん修学気分が増している。
シーツを整えてくれている志藤さんが目を細めた。
志藤さんは動きやすそうな服に着替えて、眼鏡を外している。
なんだかいつもと違うちょっと幼い印象で新鮮だ。

「そうですね」
「この前の旅行も楽しかったけど、これは仕事ですけど、でも、志藤さんと一緒に眠れるって嬉しいです」
「………は、はあ」

志藤さんが困ったように、曖昧に頷く。
また、やってしまったようだ。
こんなの、楽しいのは俺だけなのに。

「………なんか、やっぱりはしゃぎ過ぎですね、すいません」
「あ、いえ、私も嬉しいです」
「本当ですか?」

志藤さんはこくこくと幼い仕草で何度も頷いた。

「勿論です!」
「ありがとうございます!」

やっぱりかわいい人だ。
眼鏡を外していると幼く見えるから、余計になんだかかわいい。
最近は俺なんかよりずっとしっかりして強くなってたからちょっと寂しかったけど、こうしているとやっぱり近く感じる。
年も、結構近いんだし。

「ただちょっと緊張しているだけなんです」
「そんな緊張しないでください」
「あ、いえ、その」
「この前の時は、一緒にずっと同じ部屋にいたじゃないですか」
「………そうなんですが」

まあ、あの時は非常事態だったし、志藤さん弱ってたしな。
今のこの状況だと、やっぱり迷惑なのかもしれない。
志藤さんは優しいから拒みきれないだけなのだろうか。

「………やっぱり、迷惑ですか?」
「そんなことありません!」
「あの、本当に困ってたりしたら、言ってくださいね。言いづらかったりするかもしれないけど、気にしませんから」
「いえ、本当にありませんから!」
「………なんだったら、天とか、双兄に言ってくれてもいいですから」

直接言えと言っても言いづらいだろうから、他の案を提案する。
俺はあまり空気が読める方でもないから、本当に志藤さんを困らせたりしてないか、どんどん心配になってきた。
でも、志藤さんは優しく笑って、首を横に振る。

「私は三薙さんと一緒にいられるのは、嬉しいんです」
「本当にですか?」
「はい。とても、嬉しいです」
「俺も、嬉しいです!」

志藤さんの笑顔は、きっと嘘じゃないと思う。
この人もあまり器用な人じゃないから、笑って嘘なんてつけないだろう。
だったら、迷惑ではないはずだ。
だったら、嬉しい。

「でも、本当に突然、すいません」
「いえ、本当に迷惑ではありません」
「でも、困ります、よね。でも………天が、あんな………」

あんなことをしなければ、こんな迷惑をかけることもなかったのに。
その後の言葉は濁すが、志藤さんは察して、顔を顰める。

「………」
「あいつ、やっぱり、俺のこと、嫌いなのかな。嫌がらせしたいぐらい、嫌いなのかな」

昨日のことを思い出すと、怒りと屈辱と羞恥に、ぐるぐると脳内が掻きまわされる感じがする。
俺は天に憎まれていたのか。
嫌われていたのか。
悔しい、哀しい、ムカつく、でも理由が知りたい、怖い。
色々な感情が渦巻いて、いまだに苦しい。

「………そうではない、と思います」
「え」

けれど思わず漏らしてしまった愚痴に、志藤さんがゆっくりと穏やかに異を唱える。

「四天さんは大変聡明で、そのお考えは、私には到底考え及ばないものですが」

布団の上で向かい合って座り込んでいた俺の顔を、じっと真面目な顔で見つめる。
優しく、諭すように話す。

「でも、多分、三薙さんが嫌いと言うことはないと思います」
「………でも」

だったらどうして、あんなことをするんだろう。
あんな、酷いことをどうして出来るんだろう。
志藤さんは困ったように、少しだけ視線を下に落とす。

「何か、お考えがあるんだと思います。何か、理由が」
「………理由」

そういえば栞ちゃんも、天は理由がない行動はしないって言っていた。
天も何か理由があるようなそぶりをしているし、いつか話をしてくれるとも言っている。
でも、何も教えてもらえないまま、酷いことをされて、そのまま信じて待つのも限度がある。

「でも、それなら、言ってくれればいいのに………、はぐらかすばかりだ」
「そうですね、あの方は、秘密主義です。誤解されるような言動も多い」

何も話さない、酷いことばかりする。
俺が迷惑をかけることも多いけれど、でも、あんなことをする必要はないはずだ。
嫌なら嫌って言えばいいのに、それすらない。
せめて、理由を教えてくれれば、いいのに。

「けれど、徒らに三薙さんを困らせようとしているだけでは、ないと思います」

志藤さんが俺を宥めるように、優しく話す。

「三薙さんのことを、ちゃんと思ってらっしゃると思います」

その言葉には、すがりたくなってしまう。
ただ、俺を馬鹿にしているだけじゃないのだろうか。
俺が嫌いだからあんなことをするんじゃないんだろうか。

俺は天を嫌いだけど、でも、俺が天から嫌われるのは嫌だ。
勝手だな。

「そう、なのかなあ………」
「はい。私見ですが。あの人は、まだ年若いですし、自分の力が足りないことで、一人で苦しんでいるよう見えます。私から見れば、とても凄い人なのですが」

天は力が強くて、器用で、頭がよくて、何でもできる。
でも弱いところもあるといったのは、誰だっけ。

「だから、やり方が、ちょっと極端なのかもしれません」
「………俺より志藤さんの方が天に詳しいみたいだ」

天を語る志藤さんは、なんだか親しみがこもっている。
俺は天と志藤さん、どっちに嫉妬しているのだろう。
志藤さんに褒められる天にか、俺よりも天を分かっている志藤さんにか。
憮然とした俺の声に、志藤さんが苦笑する。

「そんなことありませんよ。四天さんはあなたの弟です。付き合いの短い私よりもあなたの方が、本当は分かっていらっしゃるはずです」
「………俺は、天のことなんて、全然分かりません」
「きっと知っているんですよ、本当は。今はちょっと見えなくなっているだけで」

志藤さんは、そっと優しく微笑む。

「四天さんを、信じてあげて下さい」

信じたい。
信じたいのに、信じさせてくれない。

「………随分天の肩を持つんですね」

どこまでも天を褒める志藤さんに、少しだけムッとしてしまう。
拗ねてる俺に、志藤さんはやっぱり優しく笑う。

「三薙さんの弟さんですからね」
「………天の方がいいとか、ないですか」

言った瞬間に自分のガキっぽさに死にたくなった。

「あ、な、なんでもないです!なんでもないです!」
「ないですよ」

けれど志藤さんは呆れることも怒ることもせずに、首をゆっくりと横にふった。
そして立ち上がって、窓の障子を開ける。
真円に少し欠ける月は、やっぱり煌々と世界を照らしていた。

「私は、三薙さんを何より敬愛してします」
「………ありがとう、ございます」

志藤さんが月を見上げると、白い顔が青く染まる。
その横顔は、露子さんの時と同じように神秘的で、急に志藤さんが遠く感じる。

「三薙さん、今日は月が、本当に綺麗ですね」
「え、はい、本当に綺麗ですね」

俺もつられて月を見上げる。
月は、とても綺麗だ。

「はい、月が綺麗です」

志藤さんは振り返って、本当に、優しく優しく笑った。
なんだか、胸が締め付けられる。
何がなんだか分からなくて胸元を抑えると、志藤さんがすぐに障子を閉めた。

「さて、そろそろ休みましょうか。明日も早いでしょう」
「はい。そうですね。あ、そうだ。供給お願いしてもいいですか」

後少しで忘れそうになっていたことを思い出す。
すぐにぶっ倒れるってことはないけれど、今力の減少は早まっている。
なるべくこまめに供給はしていかないといけない。

「は!?」

志藤さんがまた部屋中に響き渡るような大きな声を出す。
一歩体を引いて障子にぶつかり、ガタっと音をたてた。

「だ、駄目ですか!?」
「え、いや、え!?ええ!?」
「………駄目ですか?」

供給は、迷惑だっただろうか。
でも、これはやってもらわないといけないし、こればっかりは立見家に頼むと言う訳にはいかない。
そうすると天にやってもらうことになるのだが、それは嫌だ。

「えっと、その、出来れば、お願いしたいんですが………」
「いえ、あの、わ、私で、いいんですか?」

志藤さんの顔が真っ赤になっている。
そこで、昨日のことが思い出されて、俺の顔も一気に熱くなった。

「あ、昨日の、あんなことまですることはないんですよ!?」
「は、はい!それは重々承知しております!」

そういう訳じゃなかったのか。
変なことを言ってしまった。
なんだか余計に焦ってくる。

「えっと、ああいうのじゃなくて、ただ、体を接触して、その触媒で体液とかあるとスムーズで、それで、えっと辺りを清めてから、術を組み立てて」
「あ、はい、熊沢さんに伺っております」
「そ、そっか」

熊沢さん、教えておいてくれたのか、よかった。
落ち着け落ち着け。
落ち着け、俺。

「あの、俺、天には、まだちょっと頼みたくないし、駄目、ですか?」
「い、いえ、み、三薙さんさえよろしければ、私は、問題ありません、けど」

よかった。
昨日のことで、ちょっと焦っただけなのだろうか。

「では、お願いします」
「………」

志藤さんは困ったような顔で、それでも頷いてくれた
すぐに部屋の中を清め、清浄な空気が漂い始める。
そして俺に向かい合わせで座って、緊張した面持ちで頭を下げる。

「で、では、失礼いたします」
「は、はい!」

志藤さんが呪を唱えて、術を組み立て始める。
繊細な細い指が俺の首をそっと押さえる。
志藤さんの顔が近づいてきて、俺も静かに目を閉じた。、
細い指から、志藤さんの力を感じて温かくなる。

「失礼します」
「はい………んっ」

温かなものが、唇に触れた。
驚いて目を開くと、志藤さんの整った顔が至近距離にあった。

「っ」

しまった。
そういえば、口でなくてもいいと言ってなかった。
そこまで聞いてなかったんだろうか。
昨日の天のを見てるし、間違えちゃったのだろうか。
いや、間違いでもないんだけど。

「………あ、ぅ」

どうしようどうしようどうしよう。
そうこうしている間にも、志藤さんの力がじんわりと体に伝わってくる。
駄目だ、止めないと。

「は、ん」

止めようと手を志藤さんの体に当てた時に、舌が口の中に入り込んでくる。
唾液が触れ合って、回路が繋がれて、ぐいっと体が前に放り出される感覚がする。

「ふっ」

押しのけようとした手から力が抜けていって、辛うじて志藤さんのシャツをぎゅっと掴んでしまう。
そのまま、しがみつく形になる。
志藤さんの舌が、丹念に俺の舌を舐め、吸う。
唾液が絡み合って、ぴちゃりと音を立てる。

「ん、ん、くぅ」

駄目だ、気持ちがいい。
志藤さんの優しい力が、体を中を満たして行く。
気持ちがいい。
もう、なんでもいい。
力が欲しい。
志藤さんなら、いいや。

そのまま後ろに倒れ込むと、志藤さんも一緒に倒れてきた。
体が密着すると、そこからも力が与えられる。

「は、んっ」

優しい志藤さんにくっついていると、安心する。
気持ち良さに、目に涙が溢れてくる。
気持ちがいい。
必死に舌を絡めて、唾液を呑み込む。

「三薙さん………」

僅かに唇が解けた時に、志藤さんが弾んだ声で名前を呼ぶ。
その切羽詰まったような声が、心地いい。
志藤さんの唇を追いかけて、しがみつく。

「はっ、しとう、さん、もっと」
「三薙、さんっ」

志藤さんの唇が、もう一度俺の唇を塞ぐ。
もっともっともっと。
俺を満たして。
俺の中を満たして。

「は………」

真っ白に蕩けていく思考の中、志藤さんの吐息が響いていた。





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