天が倒れている姿なんて、見たことはない。
怪我をしているところは見たことがある。
でも、あんな風に無防備な姿を、俺に見せてよしとする奴じゃない。
怪我をしていてさえ、ふてぶてしくて強気だった。
あんなの、天じゃない。

「天、天!」

焦燥のままに弟を目指して走り出すと、不意に足を払われてつんのめる。

「わ!」

そのままバランスを崩して、その場に倒れ込んだ。
どこが地面かも分からず打ちつけた感覚すらないのに、倒れ込むという感覚だけは嫌にリアルだ。

「なんだよっ」

自分の足を取ったものが何かを確かめようとすると、すぐ目の前にはひれと鱗を纏ったものがあった。
見せつけるようにひらりと揺らめかす、美しい龍神の尾。
長い体でとぐろを巻いている龍の尾が、俺の足を払ったらしい。
龍神はそのまま俺と天を遮るように、大きな体を横たえる。

「なんだよ、この!どけよ!天を返せよ!………っ」

毒づくと上から金色に輝く瞳に覗き込まれて、一瞬立ち止ってしまう。
でも、今は恐れてなんて、いられない。
天が、あそこにいるんだ。
弟が、龍に囚われている。

「このっ」

袂には、一兄に貰った懐剣が入っている。
これも落とさないで済んだようだ。
取り出して、しっかりと握る。
刃物を振うのは、嫌だ。
でもこれはある程度の加護の力が込められている。
龍神を怯ませるぐらいの力はあるのではないだろうか。

「どけよ!」

立ち上がって、鞘に入ったままの短剣を構える。
龍神は目をゆっくりと細めた。
尾がまた俺の体を祓おうとしてか、持ち上げられる。

「させるかって、うわ!」

尾を避けようとして前に意識を集中していると、いきなり後ろから襟首を掴まれた。
そのまま強く引っ張られて、背中から地面に横たわる。
柔らかいとも堅いとも分からないから痛みはそうない。
でも衝撃に目を瞑る。

「なっ!」

誰にやられたのかと慌てて顔を上げると、黒輝がすぐ傍で、その鋭い目で俺を見下ろしていた。
どうやら黒輝が俺を引っ張ったようだ。

「何すんだよ!」
「落ち着け」

地面に倒れ込んだままだった体を支え、半身を起こす。
邪魔をする黒輝を睨みつけるが、弟の使鬼は黙って俺を見つめるだけだ。
何も言わない黒輝を無視して、弾みで手放してしまった懐剣に手を伸ばす。
だがそのまえに、今度はその手を掴まれる。

「離せよ!」
「黙れ」
「たっ」

そして大きな手で頬をはたかれた。
痛みに一瞬目の前に星が飛ぶ。

「な、んでっ」

痛みと怒りと焦りに、涙が滲んでくる。
睨みつけると、黒を纏った長身の男はうんざりとしたようにため息をついた。
そして目の前の龍神を顎で指し示す。

「この土地神に敵意はない」
「え」

何を言われたのか分からないまま、黒輝が示した方向に視線を送る。
龍神は先ほどと変わらない体制で、ただじっとこちらを見ていた。

「………」

その理性的な金色の目に、頭に登った血がすっと冷えていく。
龍は俺たちを攻撃する様子はない。
今だったら、俺のことを害することもできたのに。
ただ弟を背にして、じっとうずくまっているだけだ。
龍神は、動かない。

「あれだ」
「え」

黒輝が天が浮いている下の辺りを指差す。
倒れ込んだまま、そちらを見る。
そして、息を飲んだ。

「あ、れは………」
「あれが邪魔なようだ」

黒輝が指さす先、龍神の後ろ、天の下。
そこには人が横たわっていた。
いや、横たわっている、と言ってもいいのだろうか。
目をかっと見開き、口を開け、服が破け、赤く染まった腹を晒している。
苦痛と驚きの表情を浮かべた人は、もう動くことはないだろうことがすぐ分かる。
それを横たわっていると言って、いいのだろうか。

「なん、で………」

あれは、なんだ。
あれは、誰だ。
なんで、あんなところにいる。

「あれのせいでこの湖が穢れているようだ。龍神がお前を止めたのは、そのまま進めばあれの穢れに触れるからだ」
「え」

黒輝がじっと龍神を見つめ、龍神も黒輝を見つめる。
特にお互いに敵意は感じられない。
それからしばらくして、黒輝が天に視線を移す。

「本来はお前か四天、どちらか一人だけ呼ぶつもりだったらしい。だが、二人来てしまったせいで、結界に歪みが生じたそうだ。四天はお前を庇ったせいで歪みとあれの邪気をまともに食らい、倒れたそうだ」
「え、だ、大丈夫なのか!?」

俺を庇って、ああなったのか。
あんな常にない無防備な姿を、俺や黒輝に晒しているのか。
また、俺のせいなのか。

「さあ分からん。だが、とりあえず土地神が一時的に庇護している」

黒輝は特に焦りも心配もなく、そう言った。
一瞬苛立ちを感じるが、ここで怒っても仕方ない。
黒輝と俺は、違うものなのだから。

それより、黒輝の言ったことを考えよう。
つまり、あのシャボン玉のような泡は、天を閉じ込めている訳ではなく、むしろ天を庇っているということなのか。

「じゃあ、龍神は天を守ってくれてるのか?」
「そうなるな」

しばらくの間、その意味を考える。
それから、俺はとても自分が失礼なことをしたことに思い至った。
神と呼ばれる存在に、勘違いから襲いかかったのだ。
慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「ご、ごめんなさい。急に襲いかかったりして………」
「………」
「本当にごめんなさい!」

龍神は俺の謝罪にも、じっと見つめるだけで、怒っている様子はない。
静かで理性的な目は、むしろ温かさすら感じる。
龍神は優しいって言っていたのは、水魚子さんだっけ。
それがなんとなく、分かった気がする。

「じゃあ、黒輝、龍神が、俺たちを呼んだのって」
「その死体の処理だ」

死体と、ストレートに言われて、ひやりと背筋が冷たくなる。
だが、どんなに取り繕おうと、あれは確かに、人として存在していたもの。
今は、存在していないもの、だ。

「ああ、それと、あれのせいか」
「え」

黒輝が今度は顎で、龍神を指し示す。
促されて視線をそちらに移すと、龍神の首元の後ろあたりに、きらりと光るものがあった。
目を凝らして見ると、首の後ろから生えている、銀色の細い、何か。

「………あれは、刀?」
「そのようだな。あの刀のせいで、龍神の力が思うように出せず、邪気がたまり、弱っていたようだ」

龍神を刺し捉える刀。
そのフレーズはつい最近、聞いた気がする。
龍神を制した、伝説のある刀。

「止水、か?」

立見家から長女の失踪と共に失われていた刀、なのだろうか。
ここにあったのか。
本当に、止水なのか。

龍神は一度首を振って、刀を取ろうとするような仕草を見せる。
けれどそれは果たせず、ぐったりと地面に体を横たえた。
どうやら、あれのせいで力が思うように出せないと言うのは、本当のようだ。

「じゃあ、あの刀を抜いて、あの人の穢れを処理すれば、龍神は元気になる?」
「そう言っている」
「天はどうしたらいいんだ?」

黒輝はまたしばらく黙りこんで、じっと龍神を見つめる。
龍神も苦しげに体を横たえながら、黒輝を見つめる。

「四天は邪気に囚われているようだな。解放する前に、これ以上囚われないように龍神の力を取り戻してほしいらしい」

そこで黒輝は一旦言葉を切る。

「だが、あの刀を抜くのは一筋縄ではいかなそうだ。妖祓いの刀に儂は触れない。お前がやるしかない。しかし、土地神の血と邪気を吸った刀だ。触ればお前にも障りがある」

刀は詳しくは見えないが、力は感じる。
確かに、その力には禍々しいほどの邪気が混じっていた。
あれに触れれば、確かに俺にもダメージはあるだろう。

「………分かった」

黒輝の言葉に、ゆっくりと頷く。
それからようやく立ち上がり、一歩前に進み出る。
龍神はじっと静かな目で俺を見ていた。

「たつみの地を統べる龍神。俺の非礼をお許しください。代わりと言ってはなんなんですが、俺があなたの穢れを祓います。だからそれまで弟のことをお守りいただけますか?」

龍神はじっと俺を見つめるだけだった。
だが、それで十分だった。
龍神は、受け入れていると感じられた。

「じゃあ、黒輝。とりあえず俺が、あれを抜いてくる」

ダメージがあるぐらいなんだ。
今、天を助けられるのは、俺だけだ。
天を助けて、龍を助ける。
他者を、助けることが出来るのだ。
胸がドクンと波打って、高揚する。

「あそこまで運ぶ。乗れ」
「分かった」

黒輝がそう言って、みるみるうちに大きな黒い狼に姿を変える。
その背中に乗り、ぎゅっとその滑らかな毛を握りしめる。

黒輝は俺を乗せたまま、龍に向かって地を蹴った。





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