しばらく、二人、というか一人と一体で、水の世界を歩く。
相変わらず神聖な空気の中は、ピリピリと鋭く肌を刺激するようだ。
息を吸うのもはばかられるような、張りつめた清浄さ。
でもどこか温かさもあるような気がする。
不自然に感じられる邪気さえなければ、心地よいとすら感じられるかもしれない。

「ここってさ、龍神の結界の中なの?」

つい話しかけてしまうと、前を歩く黒輝にじろりと睨まれた。
そんな仕草もどこか人間臭いが、さすがにその鋭い目で睨みつけられるとびくついてしまう。
さっき黙ると言ってから、そう経っていない。
さすがに怒っただろうか。

「………ご、ごめん」
「そうだ」
「え」
「結界の中だ」

黒輝は前を向いて、吐き捨てるようにだが、それでも答えてくれた。
なんだかんだ言って、やっぱり黒輝は優しいと思う。

「綺麗、だなあ」

上を見上げると、水を通して光がゆらゆらと揺らいでいる。
白い泡がふわふわと漂い、ぶつかり、はじけ、空を目指す。
神秘的で不思議な空間。
場合が場合じゃなければ、ここでゆっくりとしていたいかもしれない。

「ここの龍神って、俺たちに悪意あるのかな。ずっとこのたつみを守ってきたんだろ?それに、こんな綺麗な結界張るのに」

悪意なんて感じない、美しい世界。
こんな結界の持ち主なら、実は優しいのではないだろうか。
黒輝はやっぱり前を向いたまま、淡々と答えた。

「美しいからと言って、人間を受け入れるとは限らない。山も海も、美しく恵みもあると同時に畏れを抱く恐ろしい存在だろう」
「そっか。うん、そうだな」

つい、この空気に圧倒されて馬鹿なことを言ってしまった。
神や鬼は、神聖で美しい存在だったりもするけれど、それは決して人間とは相いれない。
自然と同じ、恐れ敬い、決して交わらず、けれど共存をしていく存在。

「じゃあ、たつみの龍神は、人間に好意的じゃないのかな」
「………お前は本当によくしゃべるな」
「………だって」

黒輝がうんざりとしたようにため息を漏らす。
黙っていると、落ち着かないのだ。
話せる人がいるなら、話していたい。
人じゃないけれど。

「天は話さないの?」
「必要なこと以外は基本話さない。だが、酔狂で呼びだす」
「それはいいの?」
「命なら仕方ない」
「ひいきだ」
「当たり前だろう」

黒輝が心底呆れたような目で見てくる。
鬼にこんな風につっこまれるとは。
そういえば、面倒くさそうだったが、天と着せ替えとかやっていたっけ。
やっぱり、黒輝は付き合いがいい。

「ここの空気は、別に攻撃的じゃない」
「え」
「怒りはあるな。怒り、戸惑い、混乱」

話の展開に一瞬ついていけなくて、呆けた声を出してしまう。
ちょっとしてから、ここの龍神の話に戻ったのだと分かった。

「怒り。やっぱり怒ってるのか?」

龍神の怒り。
それは、どれほどのものなのだろう。
場を汚され、花嫁に逃げられ、神剣は奪われ。
ていうか考え見れば散々だな。
怒らない方がおかしいかもしれない。
なんてことを考えていると、黒輝が先を続けた。

「ああ。それと、恐怖、か」
「恐怖?」
「強いものではないが」

黒輝の言葉を意外に思う。
龍神なんて強大な存在が、恐怖なんて感じるのか。

「龍神なのに、なんで、一体何を怖がってるんだ?」
「理由など知らん。神とて様々だ」
「そう、か」

黒輝と白峰も、全然違う。
今まで会ってきた神や鬼、邪な存在は、確かに全然違った。
恐怖を抱く神がいても、おかしくないのだろうか。

「黒輝は何か、怖いものある?」
「ない」

即答だった。
別に虚勢を張っているとかではなく、本心からそう思っているのだろう。

「退治されたり、とか、考えるのは怖くない」
「人間ごときを恐れる必要はないだろう」

黒輝がくっと喉の奥に笑いを含ませる。
それはぞっとするほど、冷たい声だった。
いきなり黒輝が鬼だと、感じられる。

「生存本能といったものはあるだろう。だが、人間のそれとは違う」
「どういう、こと」
「存在するもしないも、儂にとっては同じことだ」

何を言っているのか、よくわからない。
でも、黒輝にとって人間は恐ろしいものではないということは、分かった。
子供の頃から一緒にいたっていうし、天を恐れているから一緒にいる訳ではないのだ。

「なんで黒輝は、人間と、天と一緒にいるの?って、面白からだっけ?」
「そうだ」

黒輝はあっさりと答えた。

「昔、おかしな人間がいた。あやつの言ってたことが真かどうか見届けるために人の子と共にいる」

おかしな人間。
黒輝は随分長生きらしいけど、どれくらい昔のことなんだろう。

「何言ってたの?」
「人は強いものだと、そう言っていた」

答えてくれないかと思ったが、予想に反して、黒輝は答えてくれた。
その後に、笑い交じりに答える。

「儂には到底そうは思えん」
「えっと、じゃあ」

誰と、出会って、どういう時にそういうことを言ったのか、質問を続けようとする。
だが、話はそこで打ち切られた。

「いい加減黙れ」
「………」
「ここは龍神の結界の中だ。儂が存在するのも骨が折れる。力の消耗が激しいと言っただろう」
「え、あ」

慌てて手に持っていたお守り袋を確認する。
天の力がこもった水晶玉のうち、一つがすでに力が尽きそうになっていた。

「うわ!ごめん、急ごう!」
「そうしてくれ」

黒輝は前を向いたまま、すたすたと歩いて行く。
俺も今度は黙ってその後を追った。
水晶玉の力が尽きたら、黒輝は顕現できなくなる。
俺の力では、黒輝を存在させることは不可能だ。

「………」
「………」

道はない。
世界はずっと変わらないように見える。
ただただ続く青と白の、不思議な空間。
けれど黒輝には道が分かっているようで、迷いなく歩く。
黒輝は白峰より、探索能力は劣るらしいが、全然そんなの感じない。
頼もしくて、一緒にいると安心する。

「もうすぐだ」

それからしばらく歩いて、また沈黙が辛くなったところで黒輝が口を開いた。
その言葉に慌てて辺りを見渡すが、特に今までと変わった様子はない。

「天がいる!?」
「ああ、そしてここの土地神がいるな」
「え!」

土地神ってことは、龍神のことか。
それが、ここにいるのか。

「わ」

黒輝を追って歩いていると、一瞬ぐにゃりとゼリーの中に体が突っ込んだような感触がした。
その快とも不快とも言えない感触に咄嗟に目を瞑る。
そして、開いた時に、それはそこにいた。

「あ………」

青と緑の間の色をした、大きく、光り輝く、何か。
俺が手を大きく広げたのと同じぐらいの胴回りは、鱗にびっしりと覆われていた。
顔を上げないと全長が分からず、のけ反るようにしてその長い体を視線で辿る。

「りゅう、じん」

それは間違いなく、龍と呼ばれる存在だった。
青緑か、水浅葱色の鱗で全身を覆われた長い体を持ち、けれど蛇とは違い手のようなものがある。
水の天井まで届きそうな、巨大な存在。
頭をもたげて、じっとこちらを見つめている。
金色の目は、恐怖を感じると共に、どこか理性的に見えた。

「これが土地神だな。四天はそこだ」

黒輝が指さした先は龍神の後ろの空間。
巨大な体に遮られるようにして、球体のようなものがあった。
それは辺りに漂う泡の、大きい版のようで、白くふわふわとシャボン玉のようだ。
でも、シャボン玉とは違い、中に何かがある。
白いのは、中身が、白いからだ。
白くゆらゆらと漂うそれは、俺が身にまとっているものと同じ、白袍と白差袴だ。

「天!」

シャボン玉の中で仰向けに身を投げ出しているのは、弟だった。
遠くてよく見えないが、目を瞑っているようだ。

「天、四天!」

それを認めて、俺は走り出した。





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