気がつくと、倒れていた。 けれど、頬があたる地面は、柔らかい。 体も痛くない。 地面。 地面ではない。 布団でも、砂利でも、土でもない。 柔らかく冷たい、床。 「あ………」 目を開けて、体を起こし、辺りを見渡す。 そこは、白く青い世界だった。 先ほどまでの状況を忘れて、俺は思わず声をあげてしまった。 「きれ、い………」 柔らかな、静寂に満ちた世界。 キラキラと光る、透明な青い世界。 ゆらゆらと揺らぎ、キラキラと輝く空間。 空気の粒がたまにぽこぽこと天井に上がって行く。 天井。 そうだ、天井がある。 光が差し込む、明るく白い天井。 その先にあるのは、青い、空だろうか。 「水の、中………?」 そうとしか、言いようがなかった。 テレビで見たことがある、水中の映像に似ていた。 でも、息が出来る。 体は、自由に動く。 冬の水の中なのに、ひんやりとはしているが、凍えるような冷たさもない。 静かで、キラキラと光る、透明な青い世界。 ここは、水の中、なのか。 そうだ、龍神に、湖の中に、引き込まれたんだ。 「天!」 そこで思い出す。 俺を庇って、一緒に飲み込まれた弟のことを。 「天!天!天!」 立ち上がり、辺りを見渡しても、それらしい姿はない。 辺りはただ果てのない水の世界。 地面もない。 ただ、天井だけは見える。 でも、普通に歩けるこの空間では泳いで上に行くということもできない。 「天、どこにいるんだ!天!四天!」 答えは、ない。 どこにいる。 一緒に、飲み込まれたのは覚えている。 「どこだ、どこだよ。返事しろよ!」 こんな空間に一人だけで、途端に不安が押し寄せてくる。 天は無事なのか。 ここはどこなんだ。 どうしたらいいんだ。 出れるのか。 天は、どこだ。 「………落ち着け」 焦燥感に走り出しそうになる足を、必死に留める。 下手に動いたら、余計に自体が悪化する。 落ち着け。 深呼吸をしろ。 落ち着け落ち着け落ち着け。 「………そうだ、落ち着け。天は、大丈夫」 俺が無事なんだから、天が無事じゃない訳がない。 俺よりずっと冷静で、強い奴なんだから。 「そうだ、落ち着け」 まず、天よりも先に俺の無事の確保が先だ。 このまま感情で走り出したら、結果的に天の邪魔になる。 落ち着け。 「ここは、多分、湖の中、なんだよな。でも、息が出来る。結界の中、なのかな。そうだな。双姉の世界に似ている。結界だ。龍神の、世界」 黙っていたら不安になりそうなので、独り言で、考えを整理する。 ここは、龍神の結界の世界なのか。 「危害を加える、気はないのかな。天を、探さなきゃ。でも、動かず待っていたら来るだろうか」 天は、血水晶のおかげで、俺の居場所が分かる。 だから俺が下手に動くよりも、天が来るのを待っていた方が効率的だ。 「でも、天は無事なのか」 天が動けない状況だったら、どうしよう。 そんなことはないとは思うのだが、万が一ということがある。 志藤さんや露子さんの助力を待った方がいいだろうか。 でも、あの二人はここにこれるのだろうか。 天が、怪我なんてしていたらどうしよう。 今すぐ、助けに行った方がいいのだろうか。 「落ち着け!」 また、思考が混乱している。 駄目だ、落ち着け。 もう一度息を深く擦って、吐く。 「辺りを、探ろう」 目を瞑って、意識を統一させる。 青い青いどこまでも広がる海。。 ああ、そうだ、海の中は、こんなところなんだろうか。 そう思うと、ここが落ち着いてくる。 ここも水の中。 青く美しい世界。 「………」 意識を研ぎ澄まして、辺りの気配を探る。 やっぱりここは、龍湖のようだ。 湖を確認して回っていた時の気配によく似ている。 張りつめていて清浄で近寄りがたくて、でもどこかに邪気がある。 アンバランスな、でも、神聖な世界だ。 「天の気配は、感じられない」 力を張り巡らせて辺りを探るが、天らしい気配はない。 なんだかもっと強い気配を感じて、それ以外が掻き消されてしまう。 どうしよう。 俺も血水晶を作っておけばよかった。 天は俺の居場所が分かるのに、俺は天の居場所を分からない。 こんな時に不便だ。 天の力を、感じ取れればいいのに。 「あ!」 そこで一つ思い出した。 慌てて袖の袂を探ると、着物に着替えた時ちゃんと入れておいた小さな守り袋が指先に触れる。 どうやら落とさなかったようだ。 取り出してひっくり返すと、綺麗な水晶がいくつかコロコロと転がり落ちてきた。 これならきっと、天の場所が分かるはずだ。 「宮守の血に連なるものとして命ずる、宮守の血に囚われし黒き獣………」 呪を唱えて、水晶の一つに触れて力を注ぐ。 すると、すっと黒い影が現れ、みるみる内に肉を持ち、気配が濃厚になっていく。 瞬きをする間に、黒い狼が姿を現す。 「黒輝」 名を呼ぶと、黒輝はそのまますっとまた姿を変える。 身を伏せていた黒い狼は、長身の男性へと姿を変化させた。 けれんみのある悪役俳優のような美貌。 ゆったりと立ち上がる仕草は、身惚れてしまうほどに綺麗だ。 「黒輝!」 名を呼ぶと、弟の使鬼は少しだけ嫌そうに眉をひそめた。 けれど白峰のようにあからさまに敵意を表わすことはなく、小さく頷く。 「行くぞ」 「え、え、どこに!?」 「四天の元へ行くのだろう」 「あ、うん」 何も話してないのに、黒輝に迷いはない。 すたすたと歩き始めてしまう。 俺には全部同じに見える世界だが、黒輝にはどうやら方向も分かっているようだ。 「あ、待った!四天は無事なのか!」 「無事だ。でなければ儂はここにいない」 「そうなの?」 「四天が死ねば契約は切れる。お前に呼び出すことはできない」 「………っ」 死ぬと言う言葉が怖くて、息を飲んでしまう。 落ち着け。 天は、無事なんだ。 そうだ、無事なんだ。 よかった。 ようやく認識出来て、体から力が抜けていく。 「怪我とか、してないかな」 「それは分からない。だが、四天が動く気配がない」 「え」 「動けないのかもしれないな」 あくまで淡々と黒輝は無感情にあっさりとそんなことを言う。 心配するような様子はない。 それは鬼と呼ばれる存在に、期待する感情ではないのかもしれない。 やっぱりどうしたって、こいつらは俺たちとは違う存在なのだから。 「………でも、無事なんだよな」 「生きてはいるな」 生きてはいるって、どうしてそういう言い方をするんだろう。 無駄に不安になってくる。 こいつらはそういう存在なのだと思っていても、今は同じ姿をしているからなんだか反感を抱いてしまう。 「お前は、天が心配とか、ないのか」 「心配?」 黒輝は俺を振り返って、呆れたように眉を吊り上げた。 人ではない癖に、なんとも人間らしい反応だ。 「異なことを言う。お前は、我々が傷ついたら心配するのか?」 「するよ!」 誰だって、目の前で怪我とかをされたら心配になる。 そりゃ、まったく知らない鬼や神が傷ついてもなんとも思わないかもしれないが、少しは知っている黒輝や白峰が怪我をしたら心配になるだろう。 「そうだったな。お前はそういう奴だった」 黒輝は無表情のまま、けれどどこか口調に呆れを滲ませた気がする。 また前を向き、淡々と言う。 「心配という感情は分からないが、四天が死んだらつまらないな。だから生きている方がいい」 「天のこと、好きなんだよな」 今は無表情で冷たい印象だが、狼の姿をしている時はよく天に擦りよっている。 なんかあっちの姿の時の方が親しみやすいな。 人型だと、こんなにも可愛げがない。 「気に入ってはいる。あいつは面白い」 「面白い?」 「ああ」 面白い、のだろうか。 天が冗談とか言ってる姿とかは想像がつかない。 いや、そういう面白さではないのだろうが。 「黒輝は、天に負けたから契約したのか?」 水の中の空間を歩いていると、沈黙が耐えきれなくなってまた話しかけてしまう。 黒輝はうんざりとした口調で振り返らないまま言った。 「黙れないのか?」 「………不安だから、話していたい」 すると、深く深くため息をつく。 やっぱりなんだか、人間のようだ。 「黒輝、今の人間ぽいな」 「儂は、人間と付き合って長いからな」 そういえば前もそんなようなこと言ってたっけ。 あ、白峰は人間と関わり始めて短いって言ってたんだ。 黒輝は、どれくらい長いのだろう。 「初めて会った時、四天はまだ小童だった。儂に勝つことなんて不可能だ」 力に満ち溢れる使鬼の言う言葉は、自信家だと笑い飛ばすことも出来ない。 いくら天が強い力を秘めているとはいえ、確かに小さい頃では不利だったのかもしれない。 「えっと、じゃあ、なんで契約したの?」 「面白かったからだ」 「面白い?」 「何度か、四天のような人間はいた。だが、結局つまらない結果に終わった。そろそろ人間にも飽いていたところだ。四天で終わりにする」 俺の質問に答えているような答えていないような返事が返ってきた。 いや、答えてないだろう。 だから、つい聞いてしまう。 「どういうこと?」 黒輝は今度は振り返って俺の顔をちらりと見る。 「昔、お前と似た人間に出会ったことがある」 俺に似た人間。 そのフレーズはこの前聞いた気がする。 「あ、二葉叔母さん?」 「お前なんて影も形もない頃のことだ」 てことは、二葉叔母さんじゃないのか。 黒輝はまた間を向くと、淡々と答える。 「その時から、ずっと人間を見ているのだが、中々面白い結果を見せることはない。やはり脆弱な存在だな」 こんな風にあっちにいったりこっちにいったする会話はやっぱり妖だ。 意志の疎通がなかなか難しい。 「えっと、四天は、面白い結果を見せてくれそうなのか?」 「そうだな。そう期待している」 期待、なんて言葉、黒輝の口から出てくるとなんだか面白い。 つい笑ってしまった。 「やっぱり黒輝ってなんか人間くさいな」 「そうか」 黒輝は喜びも怒りもしない。 人間と一緒にするなと怒らないところも、なんだか変わっている。 黒輝は、妖の世界では随分と変わりものだったんじゃないだろうか。 「じゃあ、小さい頃の天が、黒輝に面白いことを言ったから、黒輝は契約したんだ」 「そうだ」 「どんなこと?」 質問攻めにしていると、さすがに黒輝がイラついたのだろう。 わずかに眉を顰めて後ろを向く。 「お前は本当にうるさいな」 「な、す、少しくらいいいだろ!楽しい会話は人づきあいの基本だ!」 「儂は人ではない」 「………そ、そうだけど」 ムキになって噛みついたら、冷静に返された。 使鬼に普通につっこまれるってどうなんだ。 「お前は、四天を選ぶべきだ」 「え!?」 不意に黒輝は、それだけ言った。 前後の文脈なく、本当に唐突に。 だから咄嗟に返事が出来なくて呆けていると、黒輝は少し歩きを早める。 「消耗が激しい、急ぐぞ」 「く、黒輝、今の!!」 「うるさい、あまりうるさいと置いて行くぞ」 「っ」 どうやらそろそろ本当にイラついているらしい。 ここまで話してくれただけでも、随分な進歩だ。 これ以上は怒らせないようにしなければ。 「行くぞ」 「う、うん!」 真意を問いただしたい。 けれど、今は無理だろう。 どういう、意味なのだろう。 喉にひっかかる小骨のように、心に刺さって、離れない。 |