生垣の抜け道から、綺麗な着物が泥で汚れるのも気にせず由紀子さんが這いずり出る。
そして息を乱しながら、すっかり広がった穴から俺も引き摺り出す。
生垣の枝で、更に切り傷が増える。
もうそんな小さな傷気にならないぐらい体中ぼろぼろだけど。

体が熱を帯び、怪我と打ち身で全身がしびれている。
血がまた流れてきている。
飛びそうになる意識を、その度痛みが引き戻す。
苦しくていっそ倒れたいが、それをしたら最後だろう。
今は気を失わないことが、ありがたい。

草の上に仰向けに横たえられる。
見上げた空はもう暗くて、日が完全に沈む寸前だ。
消える前の太陽が血を噴き出すように最後の光を放っている。

祓いは、もう終わっただろうか。

由紀子さんのまとめ髪はすでにボロボロで、汗まみれの泥まみれだ。
それでも鬼気迫る様子で、俺を引きずる。

「………な、んで……」

どうして、そこまでするんだ。
何を、したいんだろう。
なぜ、ワラシモリに俺を捧げようとしているんだろう。

けれど由紀子さんは答えない。
屋敷の敷地から出ると、力が抜けたようにそこに座り込む。
額の汗をまた拭うと、ふっと俺に向って笑う。

「………さあ、館から出れたわ。あと少し、あと少しです。手荒な真似してごめんなさい」

俺をまた引きずろうとして、疲れが押し寄せたのだろう。
足をもつれさせ、ぺたりと尻もちをつく。
もう一度立ちあがろうとして、またぺたりと座り込む。
一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに諦めたようにかすかに笑う。

「………ここでも、大丈夫かしら。ワラシモリはどうせ見てるわよね。早くしないと」
「や、め………、どう、して………のぞむ………」

どうして俺を殺そうとする。
どうして、望君を殺した。
どうして。
どうして。

「望?あなたは本当に優しい人ね。そういう子はワラシに向いているんですよ」

由紀子さんが嬉しそうに微笑んで、俺の頭を優しく撫でる。
とても柔らかい仕草だけれど、その手はひんやりとしていて寒気を感じる。

「美奈子はまた産めばいいんです。子供なんてまた生まれてくるんだから」
「………ば、かな……」

何を言っているんだ、この人は。
人に、代わりなんている訳がない。
またたとえ美奈子さんが子供を産んでも、それは望君じゃない。

理解できない。
したくない。
気持ち悪い。
今までで一番の気持ち悪さを、感じる。
吐き気が、する。

「私にも、姉がいたんですよ。でもいなくなったんです。その時、お母様は言ったんですよ。子供なんてまた産めばいいって」

思い出すように、自分に言い聞かせるように、目を閉じる。
そしてまた目を開いたときには、やはりそこには何も映されていなかった。

「私、ずっとずっと、そう言われて来たんです。だから、美奈子だってそうすればいいわ」

分からない。
何を言っているのか、わからない。
由紀子さんは優しく俺の頭を撫でる。

「あなただって、そうですよ。あんなご立派なご兄弟がいらっしゃるんですから。お兄様達も優秀なんでしょう。じゃあ、いいじゃないですか。ここであなただけいなくなっても。きっと誰も困らないわ。ね、そうでしょう。他に立派に才能があるんだから、それを活かしましょう」

体の怪我とは違う痛みが、胸を刺す。
違う、と言い切れなかったから。
きっと誰も困らない。
そうだ、誰も困らない。
ずっとずっと、宮守の家では居場所がなかった。

どんなに修行しても、俺は力が生み出せない。
力を扱うことができない。
宮守の人間として、出来て当然のことが、できない。
役に立たないどころか家族に寄生して生きることしかできない。
両親も兄達も優しくしてくれるけど、それでも拭いきれない劣等感。

家族への申し訳なさでいつでもいっぱいになっている。
優秀な弟へ対する嫉妬に常に苛まれている。

何もできないのに、人を僻むことだけは人一倍。
そしてこんな風に、災難を招き入れてはまた家族に迷惑をかける。

ここで俺が死んだら、宮守に迷惑をかけるだろう。
だけど、もしかしたら、みんなせいせいするのだろうか。
暗い感情が胸をじわじわと侵食する。

唇を噛んだ俺に気付いて、由紀子さんの細い指がもう一度頭を撫でる。
そして懐から懐剣を取り出した。

「すいません、血でワラシモリを呼びます。少し痛いですけど、我慢してください」

我慢しろも何も、俺に選択肢はない。
その青白い顔をただ見つめる。
怒り、恐怖、哀しみ、憐れみ。
感情が、ぐるぐると浮かんでは消えていく。

由紀子さんは一度だけ、泣きそうに顔を歪めた。
そして、顔をあげ、ヒステリックに声を張り上げる。

「ワラシモリ!ワラシモリ!いるんでしょう!あなたに捧げるわ!この人なら満足でしょう!」

懐から懐剣を取り出す。
それを思いきり振りかぶる。
その顔には、もう感情は浮かんでいない。

ぼんやりとした頭で、すべてがどこか遠い世界のように感じる。
でも、死にたくないという感情だけがリアル。

いやだ
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。

助けて助けて助けて。
誰か、助けて。
一兄、双兄。
一兄、一兄助けて。

「い、やだっ………」

体が動かない。
避けることもできない。
手で庇うこともできない。
ただ、強く目を閉じる。

いやだ。
死にたくない。

四天。
四天。
四天

風を切る音。
痛みに備えて身を固くする。

「きゃ!」

しかし、聞こえてきた高い女の人の悲鳴に、目を開く。
視界は真っ暗に染まっていた。
由紀子さんの青白い顔が、見えない。

「く………」

か細い声が、聞こえる。
何度も瞬きをして、かすむ目をなんとか凝らす。
そして、ようやく、状況を認識した。

「くろ、き………」

黒い狼が、俺の前に立ちはだかり白い体を組み敷いている。
細い腕を脚で抑え、白い喉元をその鋭い牙で押さえている。
由紀子さんは力を入れて振りほどこうとしているのだろうが、力を持つ使鬼はビクともしない。
ほっと、息をつく。
黒輝を残しておいて、くれたのか。

なんとか気力を振り絞って、体を起こす。
今のうちに、誰かを、呼ばなきゃ。
俺じゃこの人を取り押さえられない。
黒輝が、抑えてくれている間に。
くそ、動け、俺の体。

「ぎゃうん!」

だが、動けないでうだうだしている間に、黒輝の悲鳴が聞こえる。
そちらに視線を向けると、肩から血を流した黒い狼。
その肩には、綺麗な装飾をされた懐剣の柄が見える。

「黒輝っ」

どうやら結構力を持った霊剣のようだ。
黒輝は苦しそうにぐるると呻く。
その眼には、殺意が見える。

きっと、普通にやれば黒輝の方がずっと強い。
けれど四天に命令されているのだろう。
牙をむき出しにして唸りながらも、由紀子さんを傷つける様子は見えない。

由紀子さんは黒輝の肩から懐剣を抜こうとする。
だめだ。
黒輝が、危ない。
俺のために傷つくなんて、そんなの駄目だ。
止めなきゃ。

這いずって、黒輝の元へ行く。
黒輝がぎらつく目で、由紀子さんの喉元へかける力を強くする。
けれどそれ以上はどうしようもできない。

「くろきっ」

懐剣が肩から引き抜かれると、吹き出す血で黒輝の肩が濡れる。
黒輝の呻き声が聞こえる。
再度由紀子さんが懐剣を振りかぶる。

だめだ。
後少し。

黒輝の体に手が届く。
その体をすがるようにして、赤く染まった黒い毛並みにしがみつく。
由紀子さんが笑った気がした。
その小さな刃が、俺を突き刺そうと向きを変える。
黒輝の体にしがみついたまま、俺は眼を閉じる。

「人のペットと兄に手を出すの、やめてくれませんか」

その聞き慣れた声に、今度こそ俺は全身の力を抜いた。
黒輝の体に体重を預ける。

ああ。
もう、大丈夫だ。





BACK   TOP   NEXT