次に目を覚ました時は、煤けた黒い天井の下だった。
自分の部屋の天井じゃないことに違和感を感じて、ぼんやりと辺りを見渡す。
障子から差し込む光は、明るい。
夏の強い昼間の日差し、だ。
確か、目を閉じた時は、夕暮れ気がするんだけど。

「目が覚めた?」

また少しだけ高い、けれど年よりもずっと落ち着いた、大人びた声が聞こえる。
それは、何年も共にあった声。
傍らに視線を向けると、そこには普段着に着替えた天が座っていた。
正装をしている時のように人間離れした美しさはないけれど、やはり綺麗な顔をしている。

「………天」

名を呼ぶと、弟はいつものように冷たく鼻を鳴らして見下ろしてきた。
その顔には不満と苛立ちがありありと現われている。

「色々言いたいことあるけど、とりあえず帰ってからにしてあげる。父さんと母さんと、一矢兄さん達と一緒にね」

一兄の名前を聞いて、懐かしさがこみ上げる。
家を出てまだ、そんな経っていないのに。
でも、そうだ。
そう言えば俺は、2日以上家を離れることはなかったんだ。
懐かしいな。
一兄、会いたい。

「父さんたちに………?」
「報告したよ、全部ね。せいぜい言い訳考えておけば」

熱を帯びていて、だるい。
頭が重い。
体中が、痛む。
それでも何か薬が効いているのが、あれほど激しかった痛みはぼんやりとしたものになっている。

痛みが蘇るとともに徐々に思い出す。
何があったか。
どうして、俺はこんな状態なのか。

「………言い訳なんて、ないよ」

言い訳なんて、できない。
何もない。
俺は一人で騒いで、四天に迷惑をかけた。
言いつけを悉く破って、場を混乱させた。
俺がもっとしっかりしていれば、由紀子さんだってあんな行動に出なかったかもしれない。
俺に隙がなければ、あんな愚行を起こそうなんて気は生まれなかったかもしれない。

『お前の軽率な行動が、邪を招く』

父さんに何度も何度も繰り返し言われていたのに。
全ては、四天の言うことを何も聞かなかった、俺のせい。
また、迷惑をかけた。
俺は身を横たえたまま、四天の眼をまっすぐに見つめる。
その黒い色は吸い込まれそうに、深い。

「四天、ごめんな。いろいろ、迷惑かけた」
「何、珍しく素直だね。いい加減反省してくれた?その反省が続くといいんだけどね」
「…………」

天の言うとおりだと思いながらも、やっぱり腹立たしい。
どうしても、この反発心は消えない。
自分でも愚かだと、恩知らずだと思い知りながらも。

その時ぴくりと四天が反応して、入口の障子に視線を送る。
しばらくして、ゆっくりと上品に歩く女性の影が外に見えた。
由紀子さんの時のことを思い出して、緊張する。
影が廊下に座り込み、凛とした声でこちらに問う。

「四天さん、三薙さん、少しよろしいでしょうか」

婆ちゃんの声だ。
安堵にほっと息をつく。
当主の訪れに、だらしなく寝たままとはいかず体を起そうとする。
しかし天がそれを手で制した。

「兄さんはそのまま寝てていいよ」

そして居住まいをただして、障子の外に声をかける。

「どうぞ」

カタリ。
古いが立て付けのいい障子がかすかな音を立てて滑らかに開く。
上品で隙のない仕草で一度立ち、部屋に入ると俺の枕もとに座る。
そして深く頭を下げた。

「この度は大変失礼いたしました」
「………あ、いえ………」
「当家の者の不始末にどんな責めでも負う覚悟でございます。ただ、身勝手な事でございますが、大祭を終えるまでの猶予を一時くださいませ」

婆ちゃんの土下座に、俺は慌てて上半身を起こす。
しかしズキリと差し込むような痛みが胸を走りぬけ、また布団に沈み込んだ。
でも、なんとか顔だけあげ、婆ちゃんを覗き込む。

怒ってないと言ったら、嘘だ。
怖かったし、痛かったし、死ぬかと思った。
謝ってほしいとは、思う。
でも別に婆ちゃんに何かされた訳じゃない。
謝るべきは、婆ちゃんじゃない。
それに、別になんかしてもらおうなんて思わない。

「あ、顔を上げてください。俺は………」

俺は、別に東条家を責めようとは思ってない、と言おうとする。
けれど、天がそれをとどめるように言葉をかぶせる。

「昨日お話しした通り、その件についてはまた大祭後に。祭を終えることが、管理者としてのなによりの勤め。それは宮守もよく心得ております。当主も承諾済みです。予定通り私たちは午前中には帰ります。ご当主様におかれましては、祭りを終えることだけに、どうぞ専念なさってください」

そう、か。
別に俺が構わなくても、家同士では、なんかしらのやりとりが必要なのか。
東条家と宮守家は、長い付き合いらしい。
だからこそ、管理者の一族同士、一定の礼節と距離が必要だ。
居心地が悪くてもぞもぞしながら、それでも俺は口を閉ざす。

天の言葉に、婆ちゃんがようやく顔をあげる。
深い皺が刻まれた顔は、厳しい。
それは孫程に年若の相手に対して甘えも何もない、当主としての責任を背負った毅然とした表情だった。

「お心遣い、痛み入ります。この度の恩につきましては東条家の名にかけて必ず返させていただきましょう」
「これからも、東条家と宮守の縁が途絶えぬよう、末永き親愛を望みます」
「ありがたきお言葉にございます」

もう一度、婆ちゃんが畳に頭をこすりつけるように深く頭を下げる。
天も、畳に手をついて、礼を返した。

「それでは大変申し訳ございませんが、祭の準備に戻らせていただきます。本当に申し訳ございませんでした」
「………いえ」

何度も謝り、それでも婆ちゃんは立ち上がった。
部屋を出ようと、障子に手をかける。
そのぴんと伸びた背筋を見て、急き立てられるように自分でも思いもよらず、声をかける。

「あのっ!」

部屋を出ようとしていた、婆ちゃんが振り返る。
一瞬ためらって、それでもやっぱり問わずにはいられない。

「あの、ひな………」

雛子ちゃんはどうなったんですか。
聞こうとして、けれどまた、制される。

「話は終わりだ、兄さん。ご当主様、失礼いたしました。大祭の成就をお祈りしております」
「ありがとうございます。新幹線の停車駅まで送らせます。列車では三薙さんのお体に障りましょう」
「お気遣い、感謝いたします」

最後に礼を一つ、婆ちゃんは静かに部屋から去っていった。
もやもやとする感情が整理できないまま、まだしびれの残る腕を持ち上げ顔を覆う。

「………天」
「言ったよね。他家の事情には、関わるな」
「…………」

そうだ。
管理者の家同士は、基本不可侵。
ナワバリ荒らしは、大罪だ。
仕事を頼まれているとはいえ、踏み越えてはいけない一線がある。

「さあ、用意は済ませてある。帰るよ」
「………うん、ありがとう」

だから、天の言葉に、絞り出すように礼を言った。
ああ、でも。
でも、やっぱり最後に。
最後に一つだけ。

「………なあ、ひとつだけ、頼みがあるんだけど」

顔を覆っていた腕をどけ、天を見上げる。
荷物を持とうと立ちあがっていた天は、嫌そうに鼻に皺を寄せる。

「………まだ俺に働かせる気?」
「ごめん!少し、少しでいいんだ。……もちろん、ダメだったら、いい。お前の、判断に従う」

すると、天はしばらく俺の顔を見つめてから、深い深いため息をついた。
そして嫌々ながらも、聞いてくれた。

「………聞くだけは聞いてあげるよ。叶えるかは別だけどね。何?」
「………もう一度だけ、花畑が、見たい」



***




天は、また飛びだされては面倒だと言って、花畑に付き合ってくれた。
生垣の抜け道ではなく、駅へ向かう途中、車で寄ってもらった。
正規のルートで初めて花畑に訪れる。
行きに送ってくれたポマードだらけの頭をしたおじさんが、森の外で待っていてくれる。
村の中は祭りの準備のせいか、人気がなくとても静かだった。

花畑は、当たり前だが変わらずそこにあった。
曇天の下、白い花だけが浮かんでいた初日と違って、今日は天気がいい。
白い花が、陽の光を受けて輝いている。

足の怪我は裸足で走った時のものだけだけど、まだ歩くのは辛い。
痛み止めが聞いているとは言え、脱臼、あばらにひび、打ち身切り傷で、全治3週間の怪我だ。
一歩歩く度、体中に響く。

ふらつくと、四天が乱暴に腕を引っ張ってくれた。
それもまた痛んだが、悲鳴はこらえた。

東条の館を背にした、花畑の隅。
軽やかに駆け抜ける、少女の姿が脳裏に浮かぶ。

「………ここで、雛子ちゃんに出会ったんだ」

手には、俺の腕には小さすぎるシロツメクサの腕輪。
乾かして持って帰ろうと思って、風通しのいい窓際に干していた。
かさついて茶色く色あせたものの、枯れることなくその姿を保っていた。

「ふーん」

天は興味なさそうに、生返事をして立っている。
それを気にせず、森を指さす。

「後、変な化け物と、ワラシモリに、あの森であった」
「森は駄目だよ」
「うん」

森には、行く気はない。
そこでワラシモリに会ったら、俺はどうするんだろう。
何を、聞くんだろう。
何を、知ってしまうんだろう。

知りたい。
けれど、知りたくない。

「なあ、天」
「何?」
「その………」

天は俺をじっと見ている。
何度か、言いかけて、やめる。
俯いて、小さな花をただ見つめる。
やっぱり何も聞かずに帰ろうと思いかけた時。

「雛ちゃん、見つけてくれたのね、ありがとう、お兄さん」

高く澄んだ、少女の声がした。





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