「浜田!」 叫んでも、返事は返ってこない。 浜田の上履きの音も、気味の悪い静かな足音も、聞こえない。 代わりに聞こえてくるのは。 「じゅーう、きゅーう」 男とも女とも分からない、高い声のカウントダウン。 一瞬、浜田の方に行こうか、迷う。 けれど、引きとめてくれたのは、薄いオレンジ色の爪で彩られた手。 ごつい指輪が、腕に食い込んで少し痛い。 「宮守、早く!」 「あ………」 「とりあえず、早く!」 岡野が、腕を引っ張ってくれる。 けれど、前と後、、どちらにいけばいいのか、わからない。 これは、正しいことなのか。 浜田を追わなくて、いいのか。 ここで俺が逃げることは、正しいことなのか。 また、クラスメイトを、犠牲にすることじゃないのか。 「ごー、よーん」 「宮守!」 焦った岡野が、悲鳴じみた声で俺を呼ぶ。 『いつでも冷静に、選べない状況では迷うな』 『兄さんは弱いんだから、まず自分が何ができるか考えて。できることは多くない』 長兄と末弟の言葉が、脳裏に浮かぶ。 そうだ、迷うな。 「………うん」 「行くよ」 「うん!分かった!」 今は、逃げる。 きっと、無事だ。 大丈夫。 皆、無事だ。 根拠はない。 でも、血の匂いはしない。 喰われるにしても、時間がかかるはずだ。 今は逃げて、そして対応を考えろ。 こいつらを無事に帰すことだけを、考えろ。 全てを助けようなんて、思うな。 目が、熱い。 歯をくいしばって、堪える。 大丈夫、大丈夫大丈夫。 みんな、大丈夫。 大丈夫だ。 岡野に細い手に引かれて、走って元来た道を走る。 「ぜーろ」 かなり距離があるはずなのに、はっきりと耳に届く澄んだ声。 ざわざわと、体を這いまわるおぞましい感覚に吐き気がする。 「いくよ」 カウントが終わる。 廊下の端の窓は、開きっぱなしだ。 誰か一人なら、逃げられるかもしれない。 ひた、ひた、ひた、ひた。 でも、足音が後ろから追ってくる。 間に合わなかった、どうなる。 「上へ!」 そう言うしか、なかった。 息を切らしながら、藤吉と槇が返事を返してくれる。 「分かった!」 「うん!」 俺も足を速めて、岡野の前に出るとその手を一度そっと外す。 そして、今度はその華奢な手を強く握った。 少し汗ばんだ、熱い手。 ごつい指輪がいくつもついた、細い指。 「ありがとう、岡野!」 「うん」 岡野は苦しげに、けれど笑ってくれた。 こんな派手な化粧なんてしなくても、かわいいのに。 女の子って、手も柔らかいんだな。 こんな時なのに、そんなことがちらりと浮かぶ。 上へ行って、少しだけ距離を稼いだら家に電話をしよう。 学校まではそんなに家から遠くない。 来てもらえれば、なんとなるかもしれない。 暗い中、足をもつれさせて階段をかけのぼる。 二階まで来たところで、先頭の藤吉が聞いてきた。 「どうする!?」 「上へ!」 「分かった!」 こんな状況なのに、藤吉は冷静だ。 焦って恐怖に青ざめていても、混乱する様子は見せない。 頼もしい、強い奴だ。 なんの力がなくても、こんな風に強くもいられるんだ。 階段を昇りかけて、藤吉がこちらを振り向く。 「だめだ、宮守!足音がする」 「え!?」 階段を見上げて、耳を澄ませる。 ひた、ひた、ひた、ひた。 「一段、二段、三段」 また、上から足音がする。 それとともに、またあの薄気味悪い声が響く。 なんなんだよ、あいつは! 「えっと、じゃあ、こっち!」 岡野の手をひいて、二階の廊下へと方向転換。 そのまま、駆けだしてしばらくして、ばたっと音がした。 「きゃあ!」 「槇!」 槇と藤吉の声が響く。 振り返ると、転んだらしく槇が膝をついていた。 ひたひたひたひたひた。 「七段、十三段、二十三段!」 でたらめな数を数えながら、声と足音が近づいてくる。 だめだ、追いつかれる。 どうしよう。 どうしたらいいんだ。 落ち着け落ち着け落ち着け。 一兄、一兄、一兄。 双兄。 四天。 助けて。 助けて助けて。 父さん、母さん。 そうだ、母さん! 「教室へ!」 藤吉が槇を抱えるようにして立ちあがらせる。 俺は、すぐ近くの教室の扉を開くと岡野をそこに放り込む。 「藤吉、槇、早く!」 ちょっとよろよろとしながら、藤吉と槇が走り出す。 もどかしいほど長く感じる時間、なんとか二人も教室に辿りつく。 一緒に部屋に入り込んで、乱暴にドアを閉める。 「藤吉、前のドアも閉めて!」 「わ、わかった!」 藤吉が後ろに駆けて行く、俺は廊下側の壁の真ん中に立つ。 内ポケットにいれたままだった紙を一枚取り出す。 息を吸って、大きく吐く。 意識を、集中させて。 澄み渡った青い空の下の、青い海。 自分の中を駆け巡る力を、札に集中させる。 「宮守の血の力により、邪を寄せ付けぬ塞となれ!」 壁の真ん中に札を張り付ける。 母さんがくれた破邪の札で、結界を作る。 俺の力は微弱だけど、母さんの札があればそれなりのものが作れる。 壁一面に俺の青い力が、サランラップのようにぴったりと張り付いた。 隙間なく綺麗に張り付けられた力を見て、大きく息を吐く。 「………できたっ」 よかった。 俺にも、出来た。 これで、防げるかはわからない。 でも、出来た。 上がっていた息を整えて、滲んでいた額の汗を拭う。 ひた、ひた、ひた、ひた。 足音が、近づいてくる。 恐怖を抑えるために、一度目をつぶって唾を飲み込んだ。 ごくり、という音が一階まで聞こえるんじゃないかというぐらい大きく聞こえた。 「………みんな、黙って。息をひそめて」 三人は教室の真ん中で身を寄せ合って、こくりと頷いてくれた。 俺の変な行動にも、特にひくこともなく素直に従ってくれる。 それが、ありがたかった。 ひた、ひた、ひた、ひた。 壁から少し離れて、三人の前に来るように教室の真ん中に立つ。 入ってきたら、出来なくても祓う。 三人だけは、助ける。 ポケットに入った鈷を握りしめる。 冷たい金属は、俺の体温を移して温かくなる。 ひた、ひた、ひた、ひた。 緊張で、気持ち悪くなってくる。 冷たい汗が、背筋を伝う。 ひた、ひた、ひた、ひた。 ひた、ひた、ひた、ひた。 ひた。 ぴたりと、扉の前で足音がとまる。 槇が悲鳴を呑み込むように、手で口を塞ぐ。 自身も青ざめた顔をした藤吉がその肩をぎゅっと抱く。 かり。 前の扉から、何かをひっかくような音がする。 「ひ」 岡野が喉の奥で、小さな悲鳴を呑み込む。 槇が、岡野の手をぎゅっと握った。 かりかりかり。 かりかりかりかりかり。 力を、全身に纏う。 大丈夫、出来る。 かり。 音が止む。 諦めた、か? 意識を研ぎ澄ます。 「………いった、か?」 藤吉が、辺りを見渡す。 槇と岡野が、不安げな顔に少し希望を見出す。 どん!! その瞬間、今度は後ろのドアが大きく叩かれた。 前のドアに集中していた俺達は、それぞれ小さく悲鳴を上げる。 どんどんどんどんどんどんどんどんどん! ガタガタガタガタガタ! 繰り返し叩いたと思うと、今度は無理矢理こじ開けようとするようにドアが揺れる。 結界にヒビが入る感触がする。 だめだ、力が押し返されそうだ。 「宮守の血よ、その血族に力を与えよ!」 結界を強める。 簡易な呪だが、力はフルにある。 力を教室内に満たして、壁に貼りつく結界に集中させる。 ぱん! 何かが弾けるような音がした。 それと同時に、音が止む。 荒い呼吸を、繰り返す。 ゆっくりと、意識を研ぎ澄ます。 周りの気配を、感じとる。 強く強く、研ぎ澄ます。 耳を澄ませ、目をこらせ。 何も、感じない。 「………とりあえず、大丈夫だ」 俺は大きく息を吐きだすと、ずるずるとその場に座り込んだ。 |