「なーな、ろーく」

声はまた数を数え始める。
あのなにかを、祓うことは、できるだろうか。
力は一兄のおかげでフルにチャージされている。
昨日のうちに供給しておいてよかった。

廊下の東端に位置する教室からは、すぐ目の前が階段だ。
声は西側からしている。
階段から降りればかち合わないはずだ。

とりあえず声から逃れるように階段を駆け降りる。
ちらりと横目で見てしまったが、そこにはただ文化祭のために飾りつけられた薄暗い廊下があるだけだった。
槇と岡野が続いて、最後尾に藤吉がつく。
リノウムの床に上履きの音がパタパタと嫌に大きく響く。
音が響くと、あいつが追ってきそうで、背筋に嫌な汗が伝う。

できる、だろうか。
鈷は持っている。
力は、十分。

「………いや、だめだ」
「宮守?どうしたの?」
「なんでも、ない」

岡野の問いに、軽く頭をふる。
欲を出すな。
出来ることを、やる。
あいつの正体も、力も、祓える存在なのかも、分からない。
多くを望むな。
俺にできることは、少ない。

ただ今は、逃げることを考えろ。
大丈夫、ここから出て、こいつらを帰したら、家に連絡をする。
ここは宮守の管理地。
逃げ切れば、一兄達がなんとかしてくれるはずだ。

四階分駆け降りると、さすがに息が切れる。
廊下が暗くて、足もとが見えない。
文化祭の準備のためか、段ボールなんかが散乱している。
集中しながら降りると、余計に疲れる。
声は、いつのまにか止まっていた。
それがまた、気味が悪い。
少し休みたいが、そうも言ってられない。

「あ」
「あ、藤吉、岡野!」

階段を降りた先の非常口で、先に出た女子が四人いた。
俺達の顔を見て、ほっとしたように強張った顔から緊張が緩む。
よかった、無事だったのか。

「何してんの、あんたたち?」
「非常口、あかなくて………」

女子の中の一人、確か御園だったか、がドアをガチャガチャと揺らしている。
非常口が開かないらしい。
意識を集中してみるが、別にそこに何かの力が働いている様子はない。
単純に、物理的な施錠によるものか。
この鍵ぐらいなら、外せる気はする。

「…………」

一瞬、みんなの前で力を使うことを逡巡する。
また、変な目で見られるだろうか。

「窓から出るか」

けれど、その前に藤吉がもっともな提案をする。
そうだ、別に扉からでる必要はないんだ。
自分の固まった思考が、忌々しい。

「あ、そ、そうだね」

不安げに見守っていた槇が、それを聞いて窓に手をかける。
けれど、その瞬間ざわりと、全身総毛だった。

ひた、ひた、ひた、ひた。

降りてきた階段から何かの足音が響く。
それは急ぐことのない、ゆったりとした足取り。

「ひっ」

女子の誰かが、小さく悲鳴を上げる。
誰か、学校に残っていた他の奴かもしれない。
そんなことを思いつつ、収まらない悪寒がそれは違うと告げている。

「………早く、窓から!」

急かすと、槇が焦った様子で何度か失敗しながらなんとか鍵を外し、窓を開く。
よかった、開かないってことはないようだ。

「いいよ!」

槇が促すと、藤吉がサポートしてまず衣装班の一人が窓から出る。
上履きのままだが、そんなの気にしてられるか。

「次!ほら、御園、早く!」

青ざめた顔で固まっている御園を、岡野が促す。
こくこくと頷いて、御園が次に窓に乗り上げる。

「きゃあ!」

降りる時にバランスを崩して下の花壇に倒れこんだようだが、無事なようだ。
後五人。

ひた、ひた、ひた、ひた。

足音はどんどん大きくなってくる。
今は、二階と三階の辺りか。
これが、人間だったらいいのだけれど。
でも、全身に立つ鳥肌が、そんな楽観的な想像を許してくれない。

「早く、次!」

焦って小さく叫ぶと、一瞬五人は顔を見合す。
そして槇と岡野は健気にも、衣装班の二人を促した。

「石島さん、早く、次」
「………あ、ありがと」

泣きそうになりながら、石島が藤吉にサポートされて窓から飛び降りる。
その瞬間。

ひた、ひた、ひたひたひた、たたたたた。

「きゃああ!!」

足音が急にスピードを上げる。
二階を越えて、一階に差しかかる。

「は、早く、浜田!」

岡野の焦った声。
浜田が窓の桟に手をかけた瞬間。

たたたたた!

一気に駆け下りる足音が響く。
だめだ、来る。

「だめだ!一旦逃げよう!外の三人は学校から出て!」

外の三人が悲鳴を上げる。
バタバタと足音が響くから、逃げたんだろう。
俺は窓の前に固まっていた四人の背を押して駆けだそうとする。

「や、やだ、置いてかないで!」
「だめだ、浜田!」

だが、浜田は窓から逃げることに固執する。
無理矢理その手をひいて、廊下を引きずるように走る。

「みーつけた」

あどけない、けれど感情のない声が階段から響く。
恐怖で、顔が引きつる。

「きゃああああ!」

浜田の悲鳴が、廊下に響き渡る。
足を止めさせないように、手に力をこめて前だけを向く。
後ろは見ることができない。
見た途端に、捕まりそうだ。

「前だけ見て!正門に!」

前を走る三人に、指示を飛ばす。
廊下を駆け抜けて、来た道とは逆の西側へ向かって走り出す。
一階の職員室には職員が残っているはずなのに、こんな騒いでも誰も反応しない。
そういえば、非常灯すら消えている。
だからこんなに薄暗いのか。
月明かりだけが、廊下を照らしている。

大丈夫だ。
このままいけば、正門がある。
そこからなら逃げられるはずだ。

しかし。

ひた、ひた、ひた、ひた。

「う、わあ!!」

先頭を走っていた藤吉の驚きの悲鳴が聞こえる。
なぜか、足音が、前から、響いている。

「ど、どういうこと!?」

暗い廊下の先は、見ることが出来ない。
何かがいるのかも、わからない。
皆の足が止まる。

落ち着け落ち着け落ち着け。
焦る気持ちを押さえて、意識を集中させる。
なかなか集中できないが、深呼吸を繰り返してなんとか自分の中の青を安定させる。
嫌な気配は、前から来ている。
さっきのは囮か、それとも二匹いるのか。
でも、後ろからは、もう気配はしない。

「………だめだ、前から来てる!後ろに!」

とりあえず、いない方向に逃げるだけだ。
どうなっているかはわからない。
けれど、前にいったら、確実にあいつは、いる。

「え、う」
「分かった!」

戸惑う岡野と槇だが、藤吉がいち早く頷いてくれた。
岡野と槇も不安げな顔だが、後を振り返った藤吉に続く。

「浜田も!」

それを見届けた後、俺も続こうと後ろを振り返る。
浜田の手を引くが、細い手に力いっぱい振りほどかれる。

「もう、やだ!そっちやだ!」
「浜田!」

振りほどかれてバランスを崩している間に、浜田は駆けて行ってしまう。
藤吉たちとは逆の、西側に。
慌てて追いかけようとしたその時、足音が更に加速する。

たたたたたたた!

「浜田!」

駆けだそうとすると、ぐいっと手をひっぱられた。
後ろを振り返ると、岡野が青ざめた顔で俺の腕を引っ張っている。
どうしようか迷っているうちに、暗闇の中に浜田の姿が消える。
駄目だ。

「浜田!」

叫ぶように、名を呼ぶ。
けれど。

「つーかまえた。一人」

あどけない、澄んだ声が、廊下に響き渡った。





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