優しい、穏やかな人は、こんな時でも穏やかに笑っていた。 「こんにちは、皆さん」 サクサクと音を立てて、ゆっくりと祐樹さんが近づいてくる。 いつもとまったく同じ、祐樹さんの姿。 いつもと、変わらない。 変わらな過ぎて、逆に今この中では、酷く異質な、姿。 「………祐樹、さん」 「お兄ちゃん!」 その時、天の傍らにいた雫さんが、祐樹さんに駆けだして行った。 とりすがるように、祐樹さんのシャツを掴む。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん、違うよね!?ねえ、違うよね!」 「………雫」 「お兄ちゃんは、何もしてないよね!こいつらの言うこと、嘘だよね!お兄ちゃんは、そんなこと!」 混乱で言葉が言葉にならないまま繰り返し、ただ兄にとりすがる雫さん。 そんな妹を見て、祐樹さんは優しく困ったように笑った。 雫さんの小さな頭を、そっと撫でる。 「雫、落ち着いて」 「………お兄ちゃん」 妹が落ち着くようにと、ゆっくりと何度もその短い髪を撫でる。 きっと昔からやっているのだろう、愛しさが溢れるような、温かい抱擁。 雫さんは、その祐樹さんの穏やかな姿に、強張っていた表情をゆるゆると解いていく。 「そうだよね、お兄ちゃんは、そんなこと………」 祐樹さんが、何かを言いかけた雫さんの頬をそっと両手で包み込む。 そして、見ているこちらの胸が痛くなるぐらい優しく笑った。 「雫、お前は、自由に生きなさい」 「え?」 「何にも捕らわれず、自分のしたいことを、しなさい」 「何を、言ってるの?」 「………お前は自由に、いつでも、笑っていて」 「おにい、ちゃ、ん?」 かすれた声。 次の瞬間、雫さんの体が、糸が切れた操り人形のように倒れ込んだ。 とさ、っと音がして、祐樹さんの足元に横たわる。 「雫さん!」 慌てて雫さんの元へ行こうとすると、腕を掴まれ、それが阻まれる。 俺の行動を阻害している原因を付きとめるために、振り返る。 「………四天!?」 「近づかない」 四天は、俺の腕をつかみながら、前をじっとを見ていた。 俺もその視線を辿って、もう一度祐樹さんを見る。 「………祐樹さん」 「こんにちは、三薙さん」 祐樹さんは雫さんを一瞥してから、乗り越えるようにして一歩俺たちと距離を詰める。 いつもと変わらず、穏やかに優しく笑っている。 信じられない。 この人が。 この優しい人が。 そんな訳ない。 信じられない。 信じたく、ない。 「祐樹さん、本当に………?」 「何がですか?」 「怪異を、引き起こしたのは………」 あの人達を、あんな姿にしたのは、本当に、この人なのか。 いまだに信じることが出来なくて、縋るように聞く。 祐樹さんはにっこりと笑う。 「はい、私です」 そしてあっさりと頷いた。 一瞬、意味が分からず、言葉を失う。 「………っな、んで!どうして!」 「なんで、なんでしょうね」 祐樹さんは、本当に不思議そうに首を傾げた。 昨日の夕食はなんだったけと思いだすような、そんな他愛のない表情。 「ここで、祥子さんに会いました」 ここで、と言ってフシイシに顔を向ける。 その眼は、静かで感情が見えない。 けれど、気のせいかもしれないけど、どこか苦しいものがこめられていたように感じた。 「あの時の彼女は、ひどく感情的でした。なぜここに呼び出されたか分かりませんが、色々、言われました。家のことや、雫のことを」 それは、きっと雫さんと祥子さんが喧嘩をした日のことなのだろう。 雫さんとのやりとりで興奮した祥子さんが、祐樹さんを呼び出した。 「彼女が私に好意を持っていてくれたことは知っていました。けれど、私には興味がありませんでした。雫の友達、それだけです。それ以上の感情はない。落ち着いてもらって、その旨を伝えるつもりでした。だから、彼女が落ち着くまで、私はただ、黙って彼女の言うことを聞いていた」 思い出すように、遠くを見つめる。 でも、と祐樹さんが続ける。 「彼女が、私は石塚の家の人間じゃないのに、縛られているのはおかしい。そんなものは雫に任せればいい。こんな頭のおかしい家にいる必要は、ない」 感情的で怒りぽかったという、祥子さん。 きっと、本心じゃない。 ただ、頭に血が上ってしまったのだろう。 「そんなことを言われた時に、頭が、真っ白になりました。気づけば、私はフシイシの闇に、囚われていました」 淡々と続ける祐樹さんに、感情の揺れは見られない。 祥子さんの言葉の、どれが、この穏やかな人の心に触れたのだろう。 なにが、いけなかったのだろう。 祥子さんは、ただ、祐樹さんが好きだった、だけだろうに。 何がいけなかった。 祥子さんが祐樹さんを好きになったことなのか。 雫さんと祥子さんが喧嘩したことだったのか。 この場所を荒らしてしまったことなのか。 「目の前には祥子さんが倒れていて、身の内には何かがいた。そいつがずっと言い続けるんです。解放しろ、殺せ、堕ちろ、全てを壊せ、と」 体の中にあるものを確かめるように、そっと胸を抑える。 「その代わりに、力をやる、と」 自分を嘲るように、祐樹さんは笑う。 その笑い方は、なんだか、ひどく痛々しかった。 「私は、きっと、ずっと、力が、欲しかったんでしょうね。管理者としての力は、私にはありません。先代が行っていた祭りや祓いも、ロクにすることは出来ません。全て、他家に力を借りる始末です。管理者としての立場も危うい」 「………祐樹さんは、力が、欲しかったの?」 「はい、自分では気付いていなかったのですが、そうだったんでしょうね。いえ、気付かないようにしていただけで、きっとずっとそうだった」 だから従うことにしてみたんです、と何気なく言う。 土地を管理できない管理者は、その立場を追われる。 代わりに管理者になりたい人間なんて、腐るほどいる。 土地と管理者は密接な関係にあるから、本来なら難しいところだけど、石塚の家のように本家が途絶えているのなら話は別だ。 管理出来ていない今の状態なら、誰が継いでも、きっと同じなのだから。 「………家を、雫さんを、守りたくて?」 力が、欲しいと祐樹さんは言っていた。 雫さんに、こんな家に囚われて欲しくないと言っていた。 でも今の状態なら、石塚の家を継げる可能性が高いのは、雫さんだけだ。 けれど祐樹さんは首を緩く横に振る。 「いえ、多分違いますね。私は雫に嫉妬していた。管理者としての力を持ち、誰に教えられるでもなく振うことの出来る雫に、嫉妬していた。あの子を守ると言いながら、私はきっとずっとあの子が疎ましかった。あの子に力を見せつけたかった。だから、力が欲しかった。家もどうだっていいんです。面倒くさい。こんな古いしきたりに縛られた家、最初からどうでもよかった。ただ生まれながらの才能に左右される。そんな理不尽なこと、ありますか?いっそ壊してしまいたかった」 「嘘だ!」 「本当ですよ」 そんなはずがない。 祐樹さんは、雫さんを心から大事にしていた。 ちょっと付き合っただけの俺だけど、それは、痛いほどに伝わってきた。 そんなのは、嘘だ。 「おそらく、小さい頃ここで遊んでいた時から、私は目をつけられていたのだと思います。この胸の内にある暗い感情に。小さい頃から、何かにずっと言われていた気がします。力が欲しいだろう、壊してしまえ、自分を否定する世界なんて、いらないだろう、と。ここも、昔はここまでじゃなかったんです。子供が遊んでも、まだ平気でした。いえ、平気じゃなかったから、今、俺はこうなっているのかな。俺はもっと前から、こいつらに囚われていたのか。ああ、もう分かりません」 自問自答するように、繰り返す。 自分の気付かぬうちに、闇は心に入り込む。 邪は人を、惑わせようとする。 「それであなたはどうするんですか?」 四天が、そこでつまらなそうに問いかけた。 祐樹さんは顔を上げて、けぶるように穏やかに笑った。 「身の内の声に従うことにします。逆らう理由もない」 「壊し続ける?」 「ええ、この前は次を作る前に貴方がたに前の生贄を壊されてしまった。ちょうどいいので、あなたがたが次になってください」 「丁重にお断りします」 四天も穏やかにうっすらと笑って、肩をすくめる。 祐樹さんはでしょうねと言って、また一歩近づく。 「では、失礼ですが貴方がたの意志を無視して、続けさせていただきましょう」 「先にあるのは破滅だけだとしても?」 「それこそが、私の望みです」 ゆらりと、祐樹さんの周りの空気が揺れた気がした。 なんだろうと、目を凝らす暇もない。 「兄さん避けて」 「え、わ!」 ぐいっと掴まれたままだった手がひっぱられ、引き倒される。 突然のことに、受け身もとれずに肩から地面に倒れ込む。 いくら柔らかい土と草だとしても、勢いよく倒れ込んだから、それなりに痛い。 しかしその乱暴な処遇に文句を付けている暇もない。 「うわ!」 先ほど前俺がいた場所を、しゅっと音を立てて、何かが切り裂く。 四天が俺の前に立ちながら、剣袋から素早く剣を取り出し身構える。 「ああ、そうだ、一つだけ」 「なんでしょう?」 「なんで、俺たちを呼んだんですか?」 その言葉に、祐樹さんは一瞬だけ笑顔とは違う表情を見せた。 眉を顰めて、目を伏せる。 途方にくれたような、頼りない、顔。 「………思い留まって………」 小さい小さい声は、最後の方が耳に届かなかった。 けれどすぐに祐樹さんは笑顔に戻る。 そして、小さく肩をすくめた。 「単に、貴方がたが怪異を鎮めたということにしてくれたら、しばらく時間が稼げるんじゃないかと思ったんです。それに管理者となるには宮守の家とつなぎを作っておくのもいい。それだけです」 「計画がザルですね」 「本当に」 四天の言葉に、困ったように苦笑する。 それから、小さく首を傾げた。 「他に、何かご質問はありますか?」 「いえ、ありがとうございました。では、私も勤めを果たさせていただきます」 「はい、お願いいたします」 天が、剣を鞘から取り出すと、真剣は光の差さないこの森でも白く鈍く輝く。 チャラ、リと、音がする。 「………あ」 その音の元を辿ると、祐樹さんの体に太い鎖が、幾重にも巻き付いていた。 |