洗面器とタオルを用意して、四天の部屋の前に立つ。
それでもノックしづらくて、ため息をつく。
お湯がこのままでは冷めてしまう。
天、寝てないかな。
寝てたら、邪魔するのは、悪いよな。

「兄さん?」

けれど、気配に敏感な弟は、部屋の中から声をかけてくる。
くそ、起きてたか。
仕方なく、腹をくくる。
逃げたら、双兄にコブラツイストを食らわせられる。

「………俺、三薙。入って、いいか?」
「いいよ」

洗面器を方手で持って、なんとかドアを開ける。
天は部屋の奥のベッドで、浴衣を着て本を読んでいた。

「どうしたの?」

三日ぶりに、顔を合わせる。
朝食も、天は自分の部屋で取っていた。
何を話したらいいか分からなかったけど、いつも冷静な弟は気にした様子もなく普段通りの態度だ。

「………えっと」
「何その荷物」

俺の手に持った洗面器に目をつけて、聞いてくる。
どう答えようかと一瞬迷って、正直に答えることにした。

「双兄が、お前が体拭くの、手伝ってこいって」
「何それ気持ち悪い」

四天は本当に嫌そうに、鼻に皺を寄せる。
まあ、そうだよな。
俺が四天でも、気持ち悪い。
でも、言われたら言われたで、ムカっとくる。

「………俺だって、別に、やりたくてやるわけじゃない」
「じゃあ、別にいいよ」

肩をすくめて、四天は本に視線を戻す。
浴衣で隠れて見えないが、その袖の下には包帯が巻かれているのだろう。
俺のせいで、負った傷。

「………怪我、大丈夫、か?」
「痛いよ」
「………だよ、な」

でも、四天が言うと、全然痛そうに聞こえない。
こいつ、痛覚なんてないんじゃないかなと思う。

「………」

部屋を出て行くこともできず突っ立っていると、天が本から顔を上げる。
そして面倒くさそうに、ため息をつく。

「何、まだ何かあるの?」

双兄はなんで、こんなこと言ったんだろう。
いつもの嫌がらせだろうか。
それとも、何か意味があるのだろうか。
双兄は、だいたいホラばっかり吹くけど、たまに、ごく稀に意味のあることを言う。
これは、意味のあることなんだろうか。

洗面器のお湯は、冷めてきている。
せっかく、ここまで持ってきたんだ。
双兄が何を考えてるか分からないけど、言いつけを守ってみることにする。
やらなかったってばれたらコブラツイストだし。

「………汗、拭くの、手伝う」
「本当に気持ち悪いんだけど」
「でも、双兄に言われたし」
「いいよ、後で双馬兄さんには俺から言っておく」

そこまで拒絶されると、なんだかこっちもムキになってくる。
まあ、四天にやってやってとか言われても気持ち悪いけど。
ていうか想像できないけど。

「でも、双兄には絶対にばれるから、やる」
「俺の意志は無視な訳?」
「お前だって、汗かいただろ」
「かいてるけど」

そんなやりとりを繰り返した後、四天が深くため息をつく。
諦めたように、布団の上に本を放り投げる。

「分かったよ」

そして迷惑そうに顔を歪めたまま、顎で俺を促す。

「さっさとやって、出てって」
「………」

偉そうな奴。
まるで俺がどうしてもやりたいって言ったようだ。
いや、まあ、言ったのか。
とりあえずお互いのためにも、嫌なことはさっさと済ませてしまおう。
本が山積みのベッドサイドのテーブルの上をどかして、洗面器を置く。
タオルを濡らして、きつく絞る。
やっぱり、だいぶ温くなってしまってる。

「背中、拭くな」
「はいはい」

ぞんざいに返事をして、天が体を起こしてするりと浴衣をはだける。
まだ細いけれど俺よりも筋肉のついた白い体があらわになる。
その右腕には包帯が、痛々しく巻かれていた。
ベッドに乗り上げて、後ろから、触れないようにそっとそれを指でなぞる。

「………傷、痛いよな」
「そりゃ痛いってば。刺されれば痛いよ」

天はやっぱりなんでもないように答えた。
濡らしたタオルを、少し汗ばんでいる背中に滑らす。
白く滑らかな肌は、けれど途中で違和感を感じる。

「………あれ、こっちは」
「何?」
「背中の、傷。これも?」

背中には、20センチほどの傷跡が、残っていた。
恐らく、かなり深い傷だったのだろう。
肉が抉れた後が、生々しく残っている。

「ああ、それはもっと昔の。今回のじゃないよ」

そうだ、これはもう完治している。
ずっと、昔の傷だ。
でも、かなり、痛かっただろう。

「………こっちの、わき腹にも」
「まあ、昔はヘマもしたからね。先宮は、俺にはスパルタだから。今は足手まといがいない限りそう大怪我はしないけど」

俺を揶揄して笑う天の言葉に、反応できなかった。
わき腹には、これも、古い、そして深い傷が残っていた。
その他にも、小さなものから、大きなものまで、沢山の傷が、あった。

「傷が、いっぱい、ある」
「あるけど、それが?」

俺の言葉に面倒くさそうに答える、四天。
なんで、俺は驚いているんだろう。
天に傷があることが、こんなにも意外だ。

なんで、気付かなかったんだろう。
こんな深い傷だったら、学校を休むことも多かっただろう。
でも、俺はずっと天が不在なのは、仕事をしているのだろうと思っていた。
だからいないことも、気にしなかった。
そういえば、怪我をしたと聞いたことは、あった。
でも、それも大したことがないとなぜか思っていた。

「痛い、よな」
「今は右腕以外は痛くないけど」
「痛かった、よな」
「怪我したら誰でも痛いよ」

それは、そうだ。
誰だって痛い。
でも、俺は天は痛くないと思っていた。
天は、怪我なんてしないと、思っていた。

「そう、だよな、痛いよな、誰だって、痛いよな」

天は、誰にも負けなくて、なんだって出来て、怪我なんてしないと信じていた。
そうだ、俺はそう信じていたんだ。
だからこんなにも今、驚いている。
体にこんな傷を負った弟に、驚いている。

「………ごめ、ん」
「は?」

突然謝った俺に、天が怪訝そうな声を上げる。
ああ、分かった。
分かりました、熊沢さん。

俺は、四天だったらなんでも出来ると思っていた。
そんな馬鹿なことを、心の奥底で考えていた。

だから、祐樹さんを殺すしかないと分かっていても、認められなかった。
四天ならなんとか出来るんじゃないかと思っていた。
出来るのに、やらないんじゃないかと思っていた。

だから、四天の言葉に、いつだって納得できなかった。
不可能だと言う、四天に、納得できなかった。

「ごめん、天、ごめん、ごめんな」
「………なんで泣いてるの?」

こいつも、普通に、人なんだ。
そうだよな。
当たり前だ。
なんで、俺は、そんな当たり前のことに、今更驚いているんだ。

「ごめん、ごめんな」
「何に謝ってるの?ごめん、本当に気持ち悪いんだけど」

こいつは、二つ下の、俺の弟。
俺よりずっと優秀で、何でも出来て、家族からも信頼を受けている、弟。
でも、俺の、弟だ。
俺と、同じ人だ。
怪我だってするし、怪我をしたら痛いし、失敗だってする

「………ごめん、天、ごめん」
「………」

四天が、小さくため息をつく。
もう、何も言う気をなくしたようだ。
自分が情けなくて、苦しくて、胸が痛くて、涙が止まらない。
白い、傷跡だらけの背中に顔を埋める。

温かい。
汗の匂いがする。
生きている、匂いだ。

「ごめん、天」

俺はそのまま、弟の背中を濡らし続けた。






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