赤い。 すごく、赤い。 赤い、夕焼け。 空が真っ赤に染まって、まるで燃えているようだ。 赤い、な。 視線を前に戻すと、そこにはだいぶ古いタイプの垢ぬけないマンション。 白い壁に夕日が反射して、まるでオレンジ色のペンキをぶちまけたみたいだ。 年季が入って煤けたマンションは、上から下まで真っ赤に染まっている。 1、2、3………、8階建てか。 古い癖に、結構高いな。 さて、行かないと。 少しだけ段差になっている昔ながらのバリアフリー無視の入り口に踏み出す。 エントランスをくぐったら管理室も何もなく、右には階段。 そしてその奥にはずらりと左右に部屋の扉が続いている。 すぐ正面には階数を示すプレートが壁に張り付いていた。 一階。 「おはよ、宮守」 「あ、藤吉、おはよ」 教室に入る前に後ろからやってきた藤吉が声をかけてくた。 藤吉はシャツの袖を捲りながら、うんざりとしたように言う。 「もう10月なのに、今日も暑いよなあ」 「半袖着たいよな」 「本当、選ばせてくれよ」 衣替えで強制的に着せられる冬服は、現状にそぐわないと思う。 本当に選ばせてくれればいいのに。 まあ、中には半袖着ちゃってる奴もいるが、俺にそんな度胸はない。 「昨日の映画、結構よかったよな」 「ああ、めっちゃ楽しかった」 「お前感動して、帰り道ぼーっとしてたしな」 「してねーよ」 「いや、してただろ、かなり上の空だったし」 昨日は藤吉と映画を見に行った。 見に行きたいやつがもうすぐ終わりだから一緒に見に行かないかと言われたのだ。 サスペンスものだったが、中には泣きどころもあって楽しめた。 でも別にそんな感動って映画でもなかったぞ。 楽しかったけど。 何より、藤吉と見に行く映画が、楽しかったけど。 確かに、初めての状況で、ぼーっとしてたかも。 言わないけど。 「おはよう。宮守君」 「おはよう、槇」 藤吉と言い合いながら教室に入ると、入り口近くの席の槇が挨拶してくれた。 今日もおっとりと笑っていて、なんかほわんとした気持ちになる。 槇は、人の気持ちを穏やかにしてくれる子だ。 「今日、数学テストだね。勉強してきた?」 「うん、ちょっとだけね」 「宮守君、成績いいよねえ」 「槇だっていいじゃん」 「でも宮守君、塾とかいってないでしょ?」 「俺、家で結構勉強してるからな」 「偉いなあ」 人によっては嫌みに聞こえるだろう台詞も、槇がいうと純粋な賛辞で照れてしまう。 にこにこと笑う槇に、悪意は一切感じない。 俺は慌てて無意味に言い訳してしまう。 「いや、単に暇だから」 「暇なの?」 「俺、趣味ゲームぐらいだし、それに」 「それに?」 言ってしまってから、自分で暗い気持ちになってくる。 でも槇はかわいらしく小首を傾げて、俺の言葉を待っている。 「………友達、いないし」 勉強がしたいって訳じゃなく、勉強ぐらいしかすることがなかったのだ。 遊びに行くこともなく、家にいることが多かったから、勉強をしていただけなのだ。 一兄も双兄も四天も、忙しいのに成績は落とさなかった。 俺なんて家の仕事できないんだから、成績ぐらいは落とす訳にはいかない。 あ、なんかへこんできた。 「くっら!」 「岡野!」 思わず俯いていたら、後ろから頭をはたかれる。 慌てて振り返ると、女子にしては低い声、高い背の岡野が後ろに立っていた。 今日も朝からメイクはばっちりだ。 「あんた友達いなかったの?」 「………一年の頃から、ほとんど一人だっただろ」 「あんたの一年の頃なんて知らないし」 「俺、同じクラスだっただろ!?」 「え、マジ!?印象うっすいし。あ、そっか。だから友達いなかったのか」 「………」 ひどい、岡野酷い。 正直すぎてひどい。 まあ、確かに一年の頃の俺は今より更に地味で目立たなかったけど。 ごく限られた人と、話すぐらいだった。 人との接し方が、分からなかった。 どうやって話せばいいのか、分からなかった。 「でも、私たちは友達だよね?」 「………槇」 槇が座ったまま、にこにこと俺を見上げてくる。 その甘く優しい声に、胸がきゅーっと熱くなる。 「と、友達で、いいかな」 「友達じゃないの?」 「………友達だと、嬉しい」 「私は友達だと思ってたよ?」 あ、やばい、すごい、胸が痛い。 槇って、聖女なのだろうか。 菩薩様だ。 「………何この中学生日記」 岡野が呆れたようにぼそりと言った。 まあ、確かに、色々考えるとこっ恥ずかしい。 でも、嬉しい。 槇、本当に優しくていい子だ。 大好きだ。 「え、ていうか私、宮守の友達じゃなかったの!?友達のつもりだったんだけど!?」 「さ、佐藤」 集まっている俺たちを見て、佐藤まで寄ってくる。 明るくて元気な佐藤は、今日も高い声をはりあげている。 「あんたは友達のボーダーが低すぎ。一言しゃべれば友達じゃん」 「え、駄目なの?」 「まあ、いいけど」 岡野が肩をすくめてため息をついた。 そんな二人を見て、槇がにこにこと微笑ましそうに笑っている。 タイプが全然違う三人だけど、なんだか一緒にいるのがしっくりくる。 女の子って不思議で、かわいいなあ。 「まあいいや。宮守、明日帰り、買物付き合ってよ」 「買物?」 「駅前でセールするの。荷物持ち」 岡野の提案に、ドキドキして顔が熱くなってくる。 女の子、買物。 もしかして二人きり。 デート。 これはデートの誘いなのか。 岡野と、デート。 「チエとチヅと行きたいって言っててさ。ついでにあんたも来なよ」 うん、そうだよな。 そんなはずないよな。 俺ちょっと落ち着け。 落ち着けよ。 そんなはずないだろう。 ちくしょう。 「う、うん、別にいいけど」 「なんでそんながっかりしてるの?」 「そんなことないよ!?」 「声がひっくりかえってるけど」 「そんなことないって、でもなんでまた?」 慌てて話を逸らすと、岡野は黙り込む。 槇がくすくすと楽しそうに笑いながら、悪戯っぽく友達を見上げる。 「友達は、一緒に出かけるものだもんね、彩?」 「………」 「え、え、え」 岡野の顔が気のせいか、ちらっと赤くなった気がした。 化粧かもしれないけど。 でもそういうことなのか。 それで誘ってくれたのかな。 否定しないってことはそうなのかな。 かわいい。 やばい、かわいい。 「ねー、俺はー俺はー」 俺が岡野の意外なかわいさに萌えていると、藤吉が後ろから入ってくる。 しまった、存在を忘れていた。 女の子と話すって、時と場所を忘れる。 「あんた誘わなくても付いてくるじゃん」 「そうだけどさー。ずるいよなあ。なんで宮守ばっかり。俺も優しくしてよ。俺も友達でしょ。皆友達じゃない!差別反対!」 「あー、うっせ」 岡野がうんざりとしたように、藤吉に蹴りを入れる。 藤吉がひどいと言って抗議する。 友達同士の、楽しいじゃれあい。 「どしたの、宮守?」 黙りこんだ俺に、佐藤が顔を覗き込んできた。 「………みんな、友達?」 「へ?」 「………俺も、かな」 なんか、すごい、楽しい。 この輪の中に、俺も入れてるのかな。 ずっと憧れていた、友達の会話。 ふざけあって、じゃれあう。 そんな、何気ない光景に、俺も入れているのか。 「………ああああああ、駄目だ!このへたれ!へたれ!草食男子!」 「痛!痛えよ、岡野!痛い!」 岡野が今度は俺の背中をげしげしと蹴ってくる。 逃げても逃げても追ってくる。 なんだ、なんなんだ。 なんか変なことを言ったか、俺。 なんかへたれとか草食男子って、言われると哀しくなるな。 「宮守君って、なんか弟みたいだよね」 「な、なんか嬉しくない」 「えーと、じゃあ、なんだろう。犬?濡れて小汚い捨て犬?」 「なんだそれ!?」 槇と佐藤が、なんかひどいこと言ってる。 犬はともかく、小汚いってひどくないか。 しかも濡れてるって、俺はどれだけみすぼらしいんだよ。 「宮守ずるいよなあ。卑怯だよなあ」 「な、何が?」 今度は横から藤吉がいちゃもんをつけてくる。 なんなんだよ、こいつら。 俺が何をしたっていうんだ。 「でも、しょうがない、許す。うん、仕方ない」 「は?」 一人で納得したようにうんうんと頷く。 そしてがしっと肩を掴まれた。 「俺も友達だぜ!」 「………」 「あ、嬉しそう」 「嬉しくない!いや、嬉しくない訳じゃなくて、えっと、いや、嬉しいんだけど、えっと、そうじゃなくて………」 いや、嬉しいんだ。 嬉しいんだが。 嬉しいんだけど、それを言うのはものすごく照れくさい。 「だから何この中学生日記」 岡野の呆れた声がもう一度こぼれたと同時に、チャイムが鳴り響いた。 慌てて解散して、席に戻ろうとする。 その時、視界の隅に、違和感を感じて顔をあげる。 「………阿部」 阿部が俺をじっと、暗い目で見ていた。 その視線から逃れるように、目を逸らす。 「………」 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 俺はこんな浮かれていていい、立場じゃない。 笑っていていい、立場じゃない。 クラスメイトを一人、助けられなかった。 阿部の目は、それをずっと、訴えている。 「気にしなくていいよ、宮守」 「………岡野」 岡野がぽんと肩を叩く。 すぐ下にある視線が、まっすぐに俺を見ていた。 「あんたが、頑張ってくれたから、チヅも私たちも無事。そんで、頑張ってる。今も頑張ってる」 「………」 きゅっと、手が温かいものの包まれる。 柔らかくて、滑らかな感触。 驚いて手を見ると、槇の小さな両手が俺の右手を掴んでいた。 「宮守君が悪いことなんて、何もないよ」 「………槇」 許されない。 俺の罪は、許されない。 「………ありがとう」 ああ、でも、阿部、平田、ごめん。 本当に、自分勝手で、ごめんなさい。 この優しさを享受したい。 痛みは、忘れることはないから。 我儘な甘えを、どうか許して。 |