「今日もお仕事?」

鞄を持って立ち上がると、槇がおっとりと首を傾げながら聞いてきた。
四限が終わったところで、これから出たらちょうど幼稚園でお弁当の時間が終わる頃だろう。
今日はお昼を一緒に食べる必要はない。
ただ、確かめることがあるだけだ。

「うん、多分、今日か、明日で終わりかな」
「そっか。頑張ってね。それと、怪我とかしないように気をつけてね」

頷くと、槇は少しだけ心配そうに顔を曇らせながら気遣ってくれた。
柔らかな心配は、ささくれ立っていた心が宥められる。

「ありがと、槇」

お礼を言うとふんわりと綿あめのように笑ってくれる。
槇と話していると、なんだかほわほわと穏やかな気分になれる。

「また早退なのー?一緒に遊びにいこーよ!」

昼を一緒に食べるのか、佐藤が寄ってきて槇に抱き付きながら不満そうに口を尖らせる。
そんな風に誘われるのに、驚かなくなったのはつい最近だ。

「ごめん、また今度誘って」
「仕方ないなあ」

しぶしぶといったように不満を漏らす佐藤に、つい苦笑が漏れる。
正直で明るい佐藤と話していると、心が明るくなってくる。

「ちょっと顔色悪いみたいだけど、大丈夫か?」
「へーき。ありがと、藤吉」

俺みたいなのに気さくに話しかけてくれて、呆れないでいてくれる藤吉。
いつだってこいつは、春の日差しのように温かく笑ってる。
それにどれだけ安心してきたか、分からない。

「終わったらゆっくりメシ食いに行こうな」
「うん。約束な」

こんな、きっと他の人にとっては些細な日常に、いつだってにやにやしてしまいそうだ。
仕事や家のことでへこんでも、学校に来ると浮上する。
学校がこんなに楽しい場所だなんて、知らなかった。

「じゃあな。また明日」

ばいばいと言って、三人は手を振ってくれた。
俺は鞄を抱えて扉から出る。

「宮守」
「どうしたの、岡野」

そしてそこで、長身の女子に声をかけられた。
岡野は今日も隙なく、ばっちりメイクを決めている。

「何、暗い顔してんのよ。鬱陶しい」
「………」
「何よ」

ぶっきらぼうに、ちょっと不機嫌そうに眉をひそめる。
迫力美人である岡野がそんな顔をすると、ちょっと怖い。
けれど、岡野の性格を知っている今は、こんなのビビる必要がないって知ってる。

「俺ってそんな顔に出やすいかな」

ただ、少し苦笑いしてしまう。
言われてることは天と同じようなことなのに、受ける印象は全然違う。
どんな酷いことを言われても温かさが胸に満ちていく。

「うん」

岡野は不機嫌そうな顔を崩さないまま頷く。
きっぱりとしたその返事に、俺はやっぱり笑ってしまった。

「普通にしてたつもりなんだけどな」
「あんた馬鹿正直過ぎ。隠し事とか無理でしょ」
「皆も気づいてたりする?」
「気付いてるでしょ。それでそっとしてる。チヅはどうだかしんないけど」

槇も藤吉も岡野も、本当に心配症だ。
確かに佐藤は、ちょっと違うのかもしれないけど。

「ありがと」

だから小さく礼を言うと、岡野はふいと視線を逸らした。
岡野は背が高いから目線が近い。
その分、その目元が少しだけ赤くなっているのがよく分かる。

「ちょっと、仕事でへこむことがあって弱音吐いちゃったんだよね。兄も弟も、俺よりずっと大変なのに弱音なんて吐かない。それ考えて俺ってやっぱり弱いな、って思って反省して、それでまたへこんでた」

仕事のたびに俺はすぐに感情的になって、失敗して、落ち込んで、弱音を吐いて。
そんな弱い自分が、嫌になる。
そしてこんな風に暗い顔をして、慰めて欲しいとアピールする自分が、更に嫌だ。
頑張ろうって決めても、つい落ち込んでいく感情が抑えられない。
どうしたら、一兄のように天のように、揺れずに立っていられるんだろう。
暗くしちゃってごめんと謝ると、岡野は俺を睨みつけるように見上げる。

「仕方ないじゃん、あんたヘタレなんだから」
「う」
「どうやったってヘタレなんだから、弱音ぐらい吐いても仕方ないでしょ」
「うう」

まあ、そりゃそうなんだけどさ。
俺はどこまでいってもへたれなんだけどさ。

「弱音吐きたくなったら、藤吉やチエにでも甘えれば?あいつらだったらなんだって聞いてくれるんだし」
「でも、一兄も天も、そんなことしないのにさ………」
「あー、もう。あんたはあんたでしょ。あんたはヘタレ草食男子だから仕方ねーだろ!」

そしてバンと背中を叩かれた。
岡野の指輪は本当に攻撃力があるから、痛い。

「ヘタレなりに弱音吐きながら頑張ればいいじゃん。あんた不器用だし、弟君みたいに、なんでも器用にできる訳じゃないんだから」
「………」
「要領よくないし、うじうじしてるし、すぐ泣くし、ヘタレ」
「う」

そうなんだけどさ。
本当にそうなんだけどさ。
更に落ち込みそうになると、岡野はそこでまた視線を逸らした。
そして聞こえるか聞こえないかぐらいの本当に本当に小さな声で言った。

「………でも、弱くないよ。強いよ。頑張ってる」
「岡野………」

ああ、もう、どうして岡野はこうなのか。
その優しい言葉に泣きそうになるし、照れる岡野がかわいくてドキドキするし、ヘタレって言われたことは落ち込むし、どうしたらいいのか分からない。
俺がどうしようもできない感情を持てあましていると、岡野はまた力いっぱい背中を叩いた。

「だからうじうじしてないで、もっとしっかりしろよ!ほんといっつもめそめそしてるんだから!」
「ごめん」

背中のじんじんする痛みと共に、心が軽くなっていく。
指先まで、温まっていく。

「俺だって出来ること、あるよな」
「あるでしょ。あるから、私は今ここにいるんだから」
「………うん」

猫のように釣り上がった目で睨みつけてくる岡野に、緩む頬が抑えきれない。
それに気付いた岡野がぎゅっと頬を一度つねった。

「いったたた!ありがと、岡野。嬉しかった。ありがとう」
「はいはい。恥ずかしいこと言ってないでさっさと行けよ」

そして軽く足を蹴られた。
それを合図に、軽くなった足で廊下を駆けだす。

自己嫌悪は、どうしても消えない。
でも、岡野も藤吉も槇も佐藤も、励ましてくれる、傍にいてくれる。
だから大丈夫。
だから、頑張れる。



***




園長室に挨拶に行くと、園長先生はさすがに浮かない顔をしていた。
昨日のうちに報告はしていたが、また改めて経緯を伝える。
一見きつそうに見える壮年の女性は、疲れたようにため息をついた。

「静波先生は、本日はお休みしております」
「そう、ですか」

なんとも言えず頷くと、園長先生は寂しそうに笑う。

「彼女も、いい先生なんですけどね」
「すい、ません」

別に俺が謝る必要は、きっとない。
けれど、いい知れぬ罪悪感に蝕まれて、つい謝罪の言葉を口にしてしまう。
自分に責任のないことまで無理矢理責任を感じて落ち込むのは馬鹿だ。
それは分かってる。
きっと俺は最初に謝ることで人から責められることを回避しようとしているのだ。

「あなたが謝ることはありません。むしろこちらの監督不行き届きでご迷惑おかけいたしました」

最初に謝ってしまえば、ほらこんな風に逆に慰めてもらえる。
ああ、嫌だな、こんな俺が、とても嫌だ。

「………そんな」
「島田先生には、私から伝えておきますから」
「その、静波先生は………」

子供に囲まれて笑っていた顔。
島田先生や俺を罵って醜く歪めた顔。
最後に見た、途方にくれた子供のような顔。
その全てが、彼女の顔に違いはない。

「まだ彼女をどうするかは決めておりませんが、少し話し合いたいと思います」
「あ、の」

園長先生の言葉に口を挟もうとした時、くいっと腕を掴まれる。
後ろで黙っていた一兄が、俺の腕をひいている。

「………」

そうだ、このことは、俺が口を挟むことではない。
俺がすべきことは、この幼稚園の怪異の原因を取り除くこと。
だから口をつぐんで、頭を下げる。

「お、私達の仕事はまだ終わっておりませんので、これで失礼させていただきます」
「………ええ」

園長先生は曇った顔のまま、頷く。
ちょっとだけ逡巡して、やっぱり最後に一言付け加えた。

「もうすぐ、終わります。少しだけ、お待ちください」
「はい、信じています。よろしくお願いいたします」

そこでようやく、園長先生は少し笑ってくれた。
それを見届けてから廊下に出て、緊張が解けて盛大にため息をつく。

「後少しだ。頑張れ」

忙しい兄が付き合ってくれて、励ましてくれる。
皆、本当に優しい。
俺は恵まれている。

「一兄」
「ん?」
「えっと」

自分でも何が言いたいのか分からなくて、声をかけたのはいいもの黙りこんでしまう。
すると長兄は小さく笑って、いつものように俺の頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「大丈夫だ」

何が、とは言わない。
何が大丈夫なのか、分からない。

それでも、その言葉だけで、漠然とした不安は、すっと解消されてしまった。



***




「ちょっといいかな」

ボールを蹴って遊んでいた男の子を手招きして呼び出す。
すると、一緒に遊んでいた子に何か一言二言話してから、こちらに駆けてきてくれた。

「なに、お兄ちゃん」
「ちょっとこっち来て」

園庭の片隅。
園舎の影になってあまり人目につかない場所まで連れてくると、小さな子供の目線に合わせるためにしゃがみこむ。
目の前の大きな瞳は、ぱちぱちと不思議そうに瞬きする。

「なに?」
「夏休みにいた、お友達のことについて聞きたいんだけど」

その言葉を口にすると、目の前の子供のすっと気配が変わる。
それは今まで何回かあった、急激な変化。
無邪気な幼い存在が、急に感情を失い異質な存在となる。

「知らないよ」

硬質な、冷たい声。
けれど俺は今度は怯まなかった。
その変化に、逆にやっぱりあっていたと安堵すらする。

「知ってるはずだよね。君と仲が良かったはずだ」

逃げ出してしまわないように、そっと、けれどしっかりとその手を掴む。
すると無表情に、彼は俺をじっと見てくる。

「………」

それはいつも笑っていた彼とは、全く異質な空気。
けれど今までと違って、怖くはなかった。

「ね、健吾君」

健吾君は、少しだけその静かな目に感情を揺らした。





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