「ひっ」 職員室に一人入った人は、自分の机を見て小さく悲鳴を上げた。 その様子を見届けて、俺達はそっと職員室に入り込む。 「おはようございます。早いですね。日曜日なのに」 「きゃあ!」 背後から話しかけるとまた悲鳴を上げて、その場で飛び上がる。 そしてガチャガチャと机の上にあったものを取り落とした。 予想以上の驚きように、逆にこちらが驚いてしまう。 「だ、大丈夫ですか?」 「あ、あ、あんた達がやったの!?これ、あんた達がやったんでしょう!」 「なんのことですか?」 慌てふためいている理由は分かってはいるが、一応とぼけて聞いてみる。 すると先生は自分の机の上から一枚の模造紙を取りあげて俺達に突きつけた。 「これよ!」 それは、幼稚園でよく使っていた一枚の薄汚れた模造紙で、中には一言だけ書かれていた。 恐らくマジックで、子供の幼さなを感じるつたないひらがなで一言、『うそつき』とだけ。 「………」 「なんなの、こんなことして楽しいの!?」 先生は顔を真っ赤にして、俺達に詰め寄ってくる。 模造紙を握りつぶし、ぐちゃぐちゃにしてしまう。 今まで優しげに笑っていた先生とは思えない、突然の豹変に胸にどろりと嫌なものが溢れる。 「………なんで、俺達がやったと思ったんですか?」 「なんで、って、こんな時間にこんなところに来てるの、あんた達だけじゃない!」 女性にこんな風に責められるのは、苦手だ。 けれど怯んでいても仕方ないので唾と一緒に、動揺と怖れを飲み込む。 「夜の間に、何かお化けのようなものがやったのかもしれませんよ?」 「そんなのいる訳ないじゃない!」 「………」 言われるのは慣れているが、こんな風にその存在の一切を否定されるのは哀しくなる。 この人は、俺を前に笑っている時でも、きっと俺を嘘つきだと影では嘲笑っていたのだろう。 邪をその目でみることのない人には当然の反応だ。 分かっていても、俺の言葉を何一つ信じていなかったと思うと、辛い。 「先生は、そう言ったものの存在を、信じてないんですね」 「当たり前でしょ!幽霊とか、馬鹿馬鹿しい!どうせ誰かの悪戯でしょう!」 「島田先生のこともですか?あれも、幽霊とかの仕業ではない?」 聞くと、憤っていた先生は、すっと顔色を変えて口ごもる。 「あ、あれは………」 その顔色に、やっぱり、この人のやったことなのだと確信する。 いっそギイギイの仕業だったら、こんな気持ちにならなかっただろうか。 「その紙」 けれど、ギイギイは、多分、悪い奴じゃない。 いい子にはいい奴で、悪い子には悪い奴。 「え」 「その紙は、俺達が夜中に泊まりこんだ時に、職員室のあなたの机の上に置いてあったんです。一旦回収して、さっき置き直しましたが、俺達が書いたものじゃありません」 あの日ビー玉によって誘われた職員室に置かれていた一枚の紙きれ。 それは彼女の、静波先生の机に置かれていた。 「な、じゃ、だ、誰が」 「さあ、分かりません。ただギイギイは、悪い子にはお仕置きするそうです」 「どういう意味よ!」 青くなっていた顔をまたさっと赤く染めて、静波先生は詰め寄る。 優しく穏やかで綺麗な先生だったのに、今はまるでそれこそ鬼のようだ。 見ていられなくて視線を逸らしてしまう。 「島田先生のロッカーと机にされたことだけは、なんか変でした。他の悪戯は誰か特定の人間にしたものって訳じゃないのに、島田先生のものだけ、悪意があった。それに、静波先生は信じないかもしれないけど、そういった、異形のものが関わっている気配がなかったんです」 「あんた、何言ってんのよ!馬鹿じゃないの!霊能者とかって、頭おかしいんじゃない!」 俺が普通の人には見えないものに追いかけられて泣いている時、よく言われた言葉だ。 馬鹿じゃないの、頭がおかしい、嘘つき、変な子。 分かっている。 目に見えないものが信じられないのは、普通のことだ。 「先生は、そういうこと、信じてないんですよね。でも、一番最初に言ったの、静波先生でした。島田先生が何かに取り憑かれてるんじゃないかって。一連の事の原因は、島田先生なんじゃないかって。信じてないんじゃ、なかったんですか」 「………っ」 そう、最初の時もその次の時も、静波先生がまず聞いてきたのだ。 島田先生が全ての原因なんじゃないか、って。 「あれから、皆さんも島田先生が原因なんじゃないかって思うようになってしまったみたいですし…」 「あ、あ、そ、そうよ!島田先生がきっと原因なのよ!あの人がなんかしたから、こんな変なことが起ってるのよ!」 「………」 俺の言葉を遮って、静波先生が怒鳴るように早口で話す。 言っていることが矛盾していることは、自分でも気づいてはいるのだろう。 けれど言い訳を口にしなければいけないのだ。 自分を取り繕いたい気持ちは、よく分かる。 だからこそ余計に、それを聞くのが辛い。 「先生の言うとおり、霊や化け物なんて、信じる人は少ないです。人知の及ばない不可思議な出来事が起った時には、すぐに何か変なものが取り憑いてるんだ、なんて考えません。こういうことが起って最初に考えるのは、誰の仕業か、です。そして、犯人を探そうとする。でも、この幼稚園は今、こんな状況だから、誰も人の仕業だと思わなかった。静波先生も、島田先生が何かに取り憑かれているって、言っていたみたいだし」 誰かが、人ではない何かの仕業だと言ってしまえば、皆それを信じた。 そういう土壌が作り上がっていた。 現に怪異は起ってる。 それに一つや二つ追加されたぐらいじゃ、人の仕業と考えることもないだろう。 俺もギイギイからのメッセージがなければ、静波先生が怪しいなんて思わなかったかもしれないけれど。 「鍵当番、先生がなることが多いらしいですね。家が近いから朝と夜の施錠を受け持つことが多いって。島田先生のロッカーと机があんなことになった時も、先生が一番遅くに帰って、一番早くに来てた」 本当なら、一番最初に考えることだろう。 誰が一番最初に来て、誰が一番最後に帰ったか。 それを考えれば、簡単に想像がつくことだった。 けれどこの幼稚園の人達は、長く続く怪異に、人間の仕業であるという可能性を捨ててしまった。 「うるさいのよ!偉そうに!なんなの詐欺師のくせに!黙ってあの女が悪いってことにしておけばいいのに!」 「………」 ズキズキと、胸と頭が痛む。 胸の中からどろどろと黒いものが溢れて来て、飲み込まれそうだ。 人の負の感情は、怖い。 叫ぶ女性は、とても怖い。 「どう、して、こんなこと」 「あの女が悪いのよ!いっつもいっつも偉そうに!人のこと馬鹿にして!」 「で、でも」 島田先生は、怖いけれど、いい人だ。 それに、だからといってこんなことをしたらいけない。 静波先生のためにもならない。 そんなことを言おうとすると、今まで黙っていた一兄に肩をそっと掴まれた。 「三薙」 「………うん」 そうだ、俺がしなければいけないことは、静波先生の説得でもなんでもない。 ぎゅっと目を瞑って、もやもやとした落ち着かない感情を押し込める。 「俺達は、このことを、園長先生に報告するだけです。俺達の役目は怪異の原因を突き止め解消することです。静波先生が何をしようが、それが人のすることならば、俺達がどうこうするものでは、ないです」 なんとか感情的にならないように、それだけ告げる。 報告の義務はあるだろうから、それは伝える。 けれど人の手による出来事は、俺達がどうにかするものではない。 「………それじゃあ」 それだけ伝えて、職員室から去ろうとする。 日曜日でも、休日出勤する先生は何人かいるらしい。 誰かに見られたらそれこそ大問題だ。 「ちょっと!」 「え、わ」 けれど静波先生が、いきなり掴みかかってくる。 さすがに一応鍛えてる身としてはよけられるが、どうしたらいいか分からない。 「し、静波先生!」 「あんたさえ、あんたさえいなきゃっ」 激昂して殴りかかってくる女性を避けながらも、どうやって止めたらいいか思案する。 どこを掴んで止めればいいのか、分からない。 女性は柔らかくて小さくて、ちょっとでも掴んだらすぐに壊れてしまいそうで怖い。 「やめろ」 情けなく逃げ回っていると、低い声と共に静波先生の腕が掴まれた。 後ろを振り向くと、一兄が静波先生の腕をしっかりと握り動きを止めている。 「い、一兄」 静波先生は今まで静かに見ていた一兄が動いたのに驚いたのか目を見開いて動きを止める。 そして顔色を青くして、ぱくぱくと口を金魚のように閉じたり開いたりする。 「貴方がしたことで場は乱れ、情報が撹乱され、私達の調査は妨害されました。貴方が誰を恨んでこんな下らないことをしようと興味はないし、俺達が関知するべきことでもありません。しかし迷惑だ。貴方のような人に教えられる園児も大変ですね。ああ、それにこのことが親御さんたちに知られたら去就に関わるんでしょうね」 「………あ」 一兄は、淡々とした落ち着いた声で、けれど冷たく先生を追い詰める。 自分に言われている訳じゃないが、優しく穏やかな一兄のそんな姿は酷く恐ろしくて背筋が凍る。 自分にも他人にも厳しい人だってことは知っているが、こんな風に冷たく人を見下ろす一兄を見たのは初めてだ。 「私達は別に園長先生にお伝えする以外、特に何かするつもりはありません。けれど、これ以上調査を妨害するようなことをされるのでしたらこちらも考えます。いいですね」 「………」 最後にもう一度念を押されると、静波先生は黙って俯いた。 一兄は、それを感情のない目で見下ろす。 「それでは失礼します」 そして、俺の腕をひいて職員室から出る。 女性の負の感情が満ちた教室から出ることが出来て、一気に体が軽くなる気がした。 別に邪なんかが生まれている訳ではない。 それでも人の感情は時にとても強い力を持つ。 「………優しそうな、先生だったのにな」 子供達の前で楽しそうに笑っていた先生。 子供達も先生の足にまとわりついて、高い声で笑っていた。 さっき見た先生とは、まるで別人のようだった。 「子供達にとっては優しい先生だったのかもな」 「………」 「何より恐ろしいのは人の業だな」 一兄はただそうとだけ言った。 人の顔なんて、一つじゃない。 優しい笑顔の裏で、夜叉の顔を持っている人なんて一杯いる。 そんなことは、思い知っている。 「………一兄」 それでも俯く俺に、一兄は厳しい声で言う。 「気にするな。それより、些末事に惑わされて本筋を見落とすなよ」 そうだ、俺は仕事で来ているのだ。 人のすることは、俺達の仕事には関係ない。 気持ちを、切り替えろ。 「………うん、分かった」 「全ての物事に心を砕くのは、お前のいい所であり、悪いところでもある」 「はい」 一兄の言葉を素直に受け止め、頷く。 すると一兄は少しだけ表情を緩めて、頭をぽんぽんと叩いてくれた。 「島田先生にはいい結果になっただろう。この幼稚園にもな」 「う、ん」 そうだと、いい。 静波先生にも島田先生にも幼稚園にも、いい結果になっていると、いい。 「今日出来るのはここまでだな」 「うん。後は、明日皆が来てから聞こうと思う」 本当に解決しなきゃいけない怪異の方は、まだ何も終わってない。 それは明日、登園日になってからやらなければいけない。 今日は静波先生が出勤予定だと聞いたから張っていただけなのだ。 俺達がしなくてもいいことだったが、これ以上何かされて混乱させられてもまずい。 それに、誰かに知られる前に、彼女を止めたかった。 「じゃあ帰ろう。疲れただろう。帰って休め」 「俺は、全然平気だよ。一兄の方が疲れてるだろ?一兄は休まないの?」 「俺は慣れてる」 笑って俺の頭を撫でる一兄。 これからまた、仕事をするのだろう。 きっと疲れてるだろうに、俺に付き合ってくれている兄に、また気持ちが暗くなってくる。 でも、こんなことで落ち込んでいたら、一兄だって迷惑だ。 「………ありがと、一兄」 一兄は穏やかに目を細めて、また頭をぽんぽんと叩く。 優しくて厳しくて頼もしい兄。 俺の出来ることは、兄に感謝して、少しでも早く一人前になることだけだ。 「お帰り」 リビングに入ると、天が一休みしていたのかカップを手に座っていた。 こちらを見ないまま告げられたおざなりな挨拶に、俺もおざなりに返す。 「ただいま」 そのまま天の向かいのソファに座って、背もたれに深く背を預ける。 体から力を抜くと、自然とため息が漏れた。 「ふう」 俺のそのため息が聞こえたのだろう、天が雑誌を読みながら聞いてくる。 「仕事は順調なの?」 「うん。多分」 「随分頼りないね」 「明日にならないと、分からないから」 「そう」 そこで、一旦会話が途切れる。 それ以上の興味はないらしい。 ペラリと天の雑誌をめくる音が響く。 「………仕事って、大変だよな」 「ようやく分かったの?」 「………今までだって分かってたけどさ」 ただ相槌が欲しかっただけなのに、天はいつも通り皮肉気に返してくる。 仕事が大変なんてことは、これまでのことで十分思い知ってる。 それでもただ、少し疲れただけなのだ。 いつも仕事では、怪異より何より、人の感情に疲れている気がする。 「何があったか知らないけど、そんな暗い顔して、俺に慰めの言葉でも期待してるの?わー、兄さん大変だねー、お疲れ様。これでいい?」 「………」 茶化すような言葉に、一瞬むっとするが、すぐに思いなおした。 俺は今まで、天に仕事で慰めの言葉なんて口にしたことがあっただろうか。 ただ仕事に向かう天を羨望と嫉妬で見送り、迎えていた。 天が弱音を吐くところなんて見たことがないってのがあるけど、俺はそんな天に優しい言葉なんてかけたことはなかった。 「そうだ、な。ごめん。こんなの、仕事だったら当然だもんな」 素直に謝ると、天は何もせずとも整った眉を顰めた。 「………何、本当に最近気持ち悪い」 「お前も、今まで大変だったんだもんな。でも、俺労ったりしなかったよな」 それなのに、俺だけ優しい言葉をかけられることを期待するなんて、間違ってる。 一兄も双姉も言っていた。 四天は、強いからこそ可哀そうなのだ、と。 四天の弱さも苦しみも、俺には分からない。 でもこんな心が濁るような想いをまだ幼い頃から味わっていたのだとしたら、きっとそれは酷く辛いことだろう。 そんなことにも思い至らなかった自分を反省して素直に謝ったのに、けれど四天は、本当に嫌そうに、呆れたように言った。 「変なものでも食べたの?」 「少しくらい素直に受け取れよ!」 「はいはい、ごめんなさい」 ぞんざいに言い放つ弟はやっぱり可愛くなくてムカつく。 それでも、俺がもっと強くなれば、こいつの痛みも理解できるようになるのだろうか。 少しでも、こいつの兄として胸を張れるようになるだろうか。 「うん、よし、頑張ろう!」 気合いを入れて、握りこぶしを作る。 こんなことで、めげていられない。 一兄だって、もっともっと疲れているはずだ。 俺がこんなことで疲れていたらどうする。 「うん、せいぜい頑張って」 「だからお前は、どうしてそういう物言いしかできないんだよ!」 いきなりやる気をそぐような言い草に、殴りたくなる。 確かに俺が悪いところもあるかもしれないけれど、絶対こいつだって悪いところがある。 こいつがもっと違う言い方をする奴だったら、俺だってもっと違う態度だって取れたはずだ。 「まあ、兄さん、幼児キラーだし、いい仕事なんじゃない」 「皆、お前なんかよりずっとずっとずっと可愛くて、いい仕事だよ!」 ここにいても気分が悪くなりそうなので、立ち上がり自室に戻ろうとする。 朝早かったせいもあるし、眠気が残っている。 仕事に戻った一兄にはとても申し訳ないのだが、体調管理も仕事のうちだとして休むことにする。 その前に、ふと気になってリビングを振り返った。 「なあ、天」 「何、まだ何かあるの?」 こちらを振り向かない天はいつものことだから、気にせず俺は問いかけた。 「お前って夢があるの?」 「は?」 さすがに怪訝な顔で振り向く弟。 教室で見た、子供達の無邪気な夢が思い出される。 様々な職業が、鮮やかな色で描かれていた、希望に満ちた明るい絵。 「栞ちゃんが言ってた。二人で、内緒の夢があるって。お前、将来なりたいものとか、あるの?」 一兄には聞けなかった、言葉。 もう道を決めてしまっている兄には、聞けない。 けれど弟には、まだ、時間がある。 「ああ、なるほど。うん、そうだね、あるよ」 得心がいったとばかりに頷く弟に、ちりりと胸が痛くなる。 天には夢があるのか。 俺には、ない。 俺はただ、自分が何が出来るのか、自分がどうしたら人に迷惑をかけずに生きていけるのか、それだけしか考えられない。 夢があり、そしてそれを成し遂げられるだろう力と健康な体がある弟が、やっぱり羨ましく、妬ましい。 「………それってこの家にいても叶えられるものなの?」 妬み交じりに、聞いても仕方のないことを聞いてしまう。 すると四天は、珍しくにっこりと笑った。 それは本当に珍しい、無邪気な笑顔だった。 「叶えてみせるよ。何がなんでもね」 そしてあっさりとそう言った。 |