カタッと音がして、意識が現実に引き戻される。
なんだろうと目を開けて体を起こそうとした瞬間、体がギシギシと痛んだ。
頬に触れるのはふわふわと触り心地はいいが、ベッドではない堅い感触。
どうやら、床で寝ているようだ。

昨日床で寝てしまったんだっけと寝ぼけながら考える。
部屋の中はまだ薄暗い。
窓の外を見ると、夜がようやく開けてきたところのようだ。

すぐ近くで、誰かの寝息が聞こえる。
ゆっくり体を起こすと、そこには毛布にくるまって眠る四人の友達の姿があった。

「あ………」

驚いて声を出してしまったが、幸い掠れていて大きな声にはならなかった。
暖房をつけながら眠ってしまったから、喉が少し痛む。
そうだ、昨日ここで話しながら、眠ってしまったんだ。
楽しくて楽しくて、話が途切れなくて、夜中まで皆で話していた。
笑いながら怒りながらふざけ合いながら、皆で色々な話をした。

「………」

皆の安らかな寝顔を見て、こそばゆい気持ちになる。
胸の中がポカポカとしてあったかくて、くすぐったくてもぞもぞする。
目が覚めた時に、そこに友達がいるって、こんなにも嬉しい気持ちになるんだ。
そんなこと、初めて知った。

酷く嬉しくて、酷く寂しい気持ちになった。

皆は、知ってるんだな、こういう気持ち。
俺が今まで経験出来なかったことを、皆は知ってるんだ。
仕方のないことだけれど、今まで学校の行事に全然参加出来なかったことが、とても勿体ない事に思えた。
皆で修学旅行に行けたら、もっともっと、楽しかったのだろうか。
行ってみたかったと、改めて思った。
こんなに楽しいのなら、行ってみたかった。
皆で海で泳いだり、美味しいものを食べたり、夜に別の部屋に忍び込んだり、先生に怒られたり、出し物の練習をしてみたかった。

「………違う」

それでも、こんな経験が出来たんだ。
こんなに楽しい想いが出来たんだ。
俺は欲張りだから、すぐにもっともっとと望みそうになる。
悪い癖だ。
こんなに嬉しくて幸せなのに、これ以上を望んだら贅沢過ぎてバチが当たる。

ガチャ。

扉の先の、廊下で何か音がした。
誰かが玄関先にいるようだ。
さっきの物音はこれだろうか。
杉村さんかと思ったが、窓から外にいる天の姿が見えた。

「あ」

俺は皆を起こさないようにゆっくり立ち上がると、毛布をかぶったまま廊下に走る。
そしてそのまま玄関から外に出て、天を追った。
山の朝は寒くて、毛布をかぶっていても、冷たい風に体温が奪われそうだ。
濃厚な緑の匂いに満ちている、家の周りとは違う、山の空気。

「天」

天は別荘の庭を出て、道に一人佇んでいた。
上着も羽織らないまま、ぼうっとまだ夜も明けきらない茜色の空を見ている。
俺が来ていたのは分かっていたのだろう。
驚く様子もなく後ろを振り返る。

「おはよう。どうしたの?」
「いや、お前の姿が見えたから」
「何か用?」
「用っていうか………、お前は?」
「ただの散歩。目が覚めちゃったから」

とりあえず衝動的に天を追いかけてきてしまったのだ。
話したいことは、ある。
あの時、天の部屋に行ったのは、こいつと話をしようと思ったからだ。
でも、何から話したらいいのか分からなくて、口ごもる。

「兄さん?」

面倒くさそうに眉を潜められる。
確かに追いかけてきて、黙りこまれても迷惑だよな。
とりあえず当たり障りのない会話を、探し出す。

「旅行、無理矢理誘っちゃった感じだったけど、ごめんな」
「別に。行くって言ったのは俺だし、栞も楽しかったみたいだし、悪くなかったよ」
「そっか」

天も楽しんでいてくれたのなら、嬉しい。
栞ちゃんが喜んでくれたのなら、よかった。

あの供給の時以来、うまく会話出来ていなかったけれど、今は普通に話せている。
天の態度は、昨日から心なしか少しだけ友好的な気がする。
本当に呆れられて諦められてしまったのかもしれないけれど。
でも、聞くなら今しかないかもしれない。

「あの、さ」
「何?」

ごくり、と唾を飲み込む。
聞きたいことは色々あった。
なんであんなことをしたのか。
お前は、俺のことをそんなに嫌いなのか。

「えっと」
「うん、何?」

少しだけ苛立ったような、面倒くさそうな声。
いっつもこうだな。
俺がぐだぐだと言い淀んで、天は面倒くさそうに相手をする。
でも、天は、待っていてくれる。
ちゃんと、俺の言葉を聞いていてくれる。
大丈夫、天は、俺の言葉を、聞いている。

「お前は、俺のこと、嫌いだよな」

どう言ったらいいか分からなくて、結局ストレートに聞いた。
天は器用に片眉をあげて、かすかに首を傾げる。

「どうしたの突然?」
「なんか、お前、最近変だから。俺のこと、そんなに、嫌い?」

あんなことしたり、いつも以上に冷たくなったり、優しくなったり。
元々そこまで仲が良かった訳じゃないけど、それでも、最近の天はおかしい気がする。
俺は、前よりもずっと、嫌われてしまったのだろうか。
天は無表情のまま、じっと俺の顔を見ている。

「前にも言ったけど、別に嫌いじゃないよ」
「………でも」

それなら、なんであんなことをするんだろう。
嫌がらせとしか、思えない。
それとも、別の理由があるのだろうか。

そういえばこんな風に話すのは、初めてかもしれない。
いつも俺がキレて、天が馬鹿にして、それに更に俺がキレて、喧嘩になって終わり。
冷静に話したことなんて、ほとんどない。

天は俺の弟。
まだ中学生だ。
まだ、子供だ。

弱いところだってあるって、一兄も双姉も言っていた。
俺も子供のように詰るだけではなく、兄らしく、天の言葉を聞かないといけない。
天が、なぜこんな態度をとるのか、知りたい、と初めて思った。

「俺が、悪い、よな」
「どうしたの?」
「俺が、悪いんだよな。俺が昔からお前に嫉妬して、酷い態度取ってた。お前は正しいのに、俺は反発して迷惑をかけるばっかりだった。お前が怒って俺のこと嫌いになるのなんて、仕方ないよな」

一方的に、天に嫉妬して、嫌っていた。
その強大な力を使って傲慢に振る舞う天が、羨ましかった。
正しいことを言って俺を追い詰める天が、嫌いだった。
俺の汚いところ弱いところを全て見透かしている天が、苦手だった。

「ごめん、な」

いつから、こんな風になってしまったんだろう。
きっと、俺が大人げないのが、悪いのだろう。

「俺達さ、昔はもっと仲良かっただろ。こんな風になったのって、俺のせい、だよな」

昔は、三薙お兄ちゃんと呼んで後ろを着いてきてくれた。
俺も、小さい弟が可愛くて、一緒に遊んでくれる弟が嬉しくて仕方なかった。
いつから、こんな殺伐とした仲になっちゃったんだろう。

思い返してみれば、天が仕事に出始めた6歳辺りからだった、気がする。
つまり、俺が天に嫉妬し始めた頃から、だ。

「違うよ」

けれど、弟は静かな目で俺を見据えてあっさりとそう言った。
予想外の言葉に、いつのまにか俯いていた顔を上げる。

「え」

天は少しだけ目を伏せて、小さく笑う。
まるで、自嘲しているような、どこか苦みを含む笑い。
それからその笑顔のまま、まっすぐにまた俺を見る。

「兄さんが俺を避けるようになったのは、俺のせい」
「天の、せい?」
「そう」

確かに天は、俺に対しての態度が一際酷い。
そのせいってのも、確かにあると思う。
でもそもそも天がそういう態度を俺に取るようになったのは、俺の接し方が悪かったからだ。

「でも、それって、俺が元々お前に対して酷い態度を………」
「違う」

天はけれど俺の言葉をぴしゃりと遮った。
相変わらずその目は、落ち着いていて静かだ。

「俺が兄さんに酷いことを言って、酷いことした。兄さんはそのことを忘れてしまったけれど、それ以来俺の事を避けるようになった」
「え」
「だから、そんな風に兄さんが無理矢理自分に非を見つけて落ち込むようなことじゃない」

天に酷い事を、された。
確かに罵られたり乱暴に扱われたりはしているが、小さい頃にそんなことをされた覚えはない。
昔の俺達は、仲が良かった。
ただ、いつからか、すっかり天は皮肉屋になり、俺は天を忌み嫌い避けるようになっていた。

「………何が、あったっけ?」

言われても、全く思い出すことが出来ない。
小さい頃の天は素直で、優しかった。
俺を、慕っていてくれた。
それが、どこで間違ったんだろう。
疑問を投げかけても、天はあっさりと頭を振る。

「思い出すようなことじゃない。大したことじゃないよ。仕方がなかった。それだけ。俺も謝る気はないし」
「天?」

俺が覚えていないことを、幼かった天は覚えているのか。
そんなこと、一兄も双兄も言ってなかった。
知っているのは天だけなのか。
本当にそんなことは、あったのか。
でも、嘘を言っている様子は、ない。

「俺は兄さんのこと、嫌いじゃないよ」

天はいつものように皮肉気に笑って、別荘に向かって歩き出す。
俺の横を通り過ぎる間際に、一言だけ言い残す。

「でも、俺の感情なんて、気にする必要は全くないんだよ」

そしてそのままもう振り返ることなく、別荘に向かって歩き出す。
俺はただ、その背中を昨日と同じように見つめることしかできなかった。

「何が、あったっけ………」

その答えは、本当に俺の中にあるのだろうか。



***




「一矢さん、俺寝そうです」
「構わないよ。サービスエリアでも起こさないからゆっくり寝るといい」
「くぅ、ドSっすね!」
「はは、起こすから寝ていいよ」

俺は疲れてるだろうってことで、藤吉が助手席を代わってくれた。
確かに体がだるくて、助手席に座ったらすぐ眠ってしまいそうだ。
一番寝てはいけないポジションなのに、助手席が一番眠くなるのはなぜなのだろう。

「私、あそこのサービスエリアのメロンパン食べたい!」
「私はアイス食べたいなあ」

真ん中の席に座っている槇と佐藤が楽しそうにサービスエリアのパンフレットを見ている。
行きに寄った時にもらってきた、サービスエリアの名物選みたいのが書いてあるものだ。
あれも食べたい、これも食べたいとはしゃぐ二人に思わず突っ込んでしまう。

「………佐藤も槇も、昼ご飯あんなに食べてたじゃん」
「それとこれは別だよ、宮守君。女子にそんなこと言ったら泣くまで責められても文句は言えないよ」
「千津だってば!別腹別腹」
「ごめんなさい」

さりげなく槇がとても怖い。
今度から余計なことを言うのはやめておこう。
乗り出していた体を、椅子に沈める。
そうすると、どっと疲れが沸いてきた気がして、眠くなってくる。
皆の話し声が心地よい子守唄のように感じる。
皆が一緒だというのが感じられて、落ち着く。

「あんた、楽しかった?」

隣にいた岡野が、小さな声で聞いてくる。
自然と笑顔になって、考える暇なく頷いた。

「すっごいすっごい楽しかった」

それは、取り繕った訳でも、大げさに言ってる訳でもなんでもない。
本当に本当に、夢みたいに楽しかった。
ずっとずっと友達が欲しかった。
ずっとずっと旅行に行ってみたかった。
そのどちらも、叶ってしまった。
俺はどれだけ、幸せなんだろう。

「次はどこ行こう。やっぱり海かな」
「海、いいな」
「でも夏まで遠いし、近いうちにまたどこか行くか」

岡野は淡々と、次に行くところの話をする。
俺は皆で行く海や山を思い浮かべて、幸せな気持ちで目を閉じる。
いつか、行けたら、いいな。

「………うん」
「冬休みは?」
「冬は、正月は家のことが忙しいからな」

そうだ、しかも今年は謳宮祭で奉納舞を舞わなければいけない。
帰ったら練習を始めなければ。
大事な祭りで失敗をするなんて許されない。

「じゃあ、遠出は春休みね。その前に近場に遊びにいこう」
「うん」

皆で買物して、カラオケして、山に登って、海に行って。
ああ、やりたいことがいっぱいある。
瞼の裏で、その光景を思い浮かべる。

「卒業まで後、一年半あるんだからな。遊び倒すよ」
「俺達、受験生じゃん」
「少しくらいは平気でしょ」

俺はそもそも、大学どうしたらいいんだろう。
そろそろ考えないとな。
少しぐらい遠出してもいいなら、通うことは出来るだろうか。
そうじゃなかったら、通信学習とかになるのかな。

「あんたも、行きたいところ考えときなよ」
「………うん、行こう。岡野と、槇と佐藤と藤吉と、皆で、いっぱいいっぱい色々なところ、行こう。でも、遠出なんかしなくていいよ。ただ、遊ぶだけで、楽しい」
「金もないしね」
「うん」

一緒にいるだけで、いいんだ。
それだけでいい。
それだけで、すごく、嬉しくて、楽しいんだ。
幸せなんだ。

「………ありがと、岡野」

言いながら、急速に意識が眠りに引き込まれていく。
手に温かいものが触れた気がした。
岡野がいつもつけている香水か何かの匂いがする。
花のような、甘い匂い。
岡野の、匂いだ。

「また、いきたい、な」

その温もりと匂いに安心して、俺は意識を手放した。





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