「三薙お兄ちゃん」

あどけない声が、笑い交じりに俺を呼ぶ。
そう言えば、あの頃幼い弟は、俺のことをそう呼んでいた。
親しみを込めて呼んでくれて、後ろをついてきてくれた。
今よりも食が細くてガリガリで、力の扱いがうまくなくてよく倒れて、しょっちゅう邪に魅入られていた俺は、家から出ることが少なく、兄弟達が格好の遊び相手だった。

大好きな一兄は優しくて優しくて暇を見ては構ってくれたけれど、それでも忙しくて中々遊べない。
双兄はよく遊んでくれていたけれど、意地悪するしからかう。
それに友達が沢山いたから俺を置いて遊びに行くことも多かった。
学校に上がるぐらいまでの間、天はずっと一緒にいてくれる存在だった。
唯一俺が偉そうに出来る小さな存在は、とても楽しいものだった。
天も、俺を慕っていてくれたと、多分思う。
俺と天は、小さい頃は昔はとても仲がよかったはずだ。

「三薙お兄ちゃん」

そう呼ばれなくなったのは、いつからだっただろう。



***




「なぎ……、三薙」

遠くで誰かが呼んでいる。
体が揺すられて、ぼんやりと意識が戻ってくる。

「三薙、起きろ」

天かと思って目を開けて、そこにいたのは弟ではなく長兄の姿。
意味が分からなくて、つい呆けた声が出てしまう。

「あれ、いちにい?」

間抜けな声に、一兄がくすくすと笑って額をこつんと拳で叩く。
叩かれた額は痛くはない。
けれど、なぜか首とか体がみしみしして痛い。

「ほら、寝ぼけてないで起きろ」

もう一度叩かれて、ようやく意識が戻ってくる。
首とか背中が痛い理由が分かった。
ここは、自室のベッドではなく、車の助手席だからだ。

「あ、ごめん!俺寝ちゃってた!?」
「ぐっすりな」

慌てて体が起こすと、いつのまに高速を下りていて辺りは紅葉交じりの木々が立ち並ぶ森の景色。
そしてリゾートらしい小洒落た洋館の前に、停車している。
バックミラーの上の時計を見ると、すでにもう昼時。
どうやらすっかり寝入っていたようだ。
昨日は興奮しすぎてなかなか寝付けなくて、ようやく寝れたと思ったらもう朝だったのだ。
睡眠不足な上に、車の心地よい振動でついつい寝てしまった。

「ご、ごめん!!!」
「構わない。それよりほら、着いたぞ。昼飯食うぞ」
「あ、うん」

地元から約3時間ほどの避暑地として有名な高原リゾート。
ちょっと中心地から離れているらしいレストランは、それでも人が結構いる。
慌てて車から降りると、岡野と佐藤が笑いながら文句を言ってくる。

「宮守、遅い」
「おそーい」
「ご、ごめん」

寝入っていたのは俺だけだったらしく、別の車に乗っていた三人も下りていた。
申し訳なくてもう一回謝ると、双兄がにやにやとしながら近づいてきた。

「いけないなあ、三薙君。兄貴に運転任せてぐっすりとは」
「え、え、え」
「しかも友達を放っておくなんてなあ」

誰かが寝ていたのをばらしたのか、それとも涎でも付いていたのか。
慌てて口元を拭うが、涎が垂れている訳ではないようだ。
じゃあ、岡野や佐藤が俺がぐっすり寝ていたのをばらしたのかと辺りを見回すと皆が双兄と同じようににやにやと俺を見ている。

「な、なに?」

集中する視線に落ち着かなくてきょろきょろと見渡すが、誰も何も言ってくれない。

「双兄!?」

双兄に助けを求めるが双兄はにやにやと笑いながら、見下ろすだけ。
教えてくれそうな人を求めて、視線を巡らせる。

「………」

天と一瞬目が合う。
弟は相変わらず強い目で、しっかりと前を見据えている。
なんの悪意も穢れも感じない、真っ直ぐな視線。
いたたまれなくて逸らしたのは、俺の方だった。

「俺、なんか変!?」

不自然にならない程度に天から視線をそむけて、もう一度聞く。
助け船を出してくれたのは、栞ちゃんだった。

「三薙さん、はい、どうぞ」

古風な蒔絵の小さな鏡を差し出してくれる。
そして笑って、可愛らしく首を傾げる。

「よく似合ってますけどね」

嫌な予感がして、急いで借りた鏡を開く。

「………」

そこには、化け物がいた。
ほっぺたが赤く丸く塗られていて、唇もおちょぼに口紅が塗られていて、眉毛も麿眉にされている。
しかも通常の眉毛はそのままだから、眉毛が二つある状態。

「なんだよ、これ!!!」

どうやら寝ている間におかめにされたらしい。
ていうかどんだけ熟睡してたんだ、俺。

「岡野、佐藤!」
「なんで私ら限定なのよ」
「決めつけはんたーい」

犯人だろう魔女二人に詰め寄るが、魔女たちはそらっとぼけている。

「お前らしかいないだろう!」
「何それ、傷つく」
「ひどーい」
「藤吉と槇がこんなことするはずない!」

一兄はそもそも運転していたから無理だ。
しかし、横にいた藤吉が恐る恐る申し訳なさそうに入ってくる。

「………ごめん、宮守、なんか罪悪感で良心が疼くから白状する。俺も参加しました」

俺を拝むように謝罪しながら、へらっと笑う。
その言葉に、俺の心は絶望に染まった。

「………藤吉」
「いや、そんな風に信じられると、本当に心が痛みます。ごめんなさい」

いつのまにかエンジンを切って車から降りてきた一兄がいたので、詰め寄る。

「一兄も黙って見てたのかよ!」
「友達と戯れてる弟を邪魔する訳がないだろう」
「弄ばれてるんだよ!」
「助手席で寝てる弟がかわいくて、じっと見ていたくなったからな」
「う」

確かに助手席で無断で寝るのはマナー違反だ。
まあ、一兄のことだから本気で怒っている訳じゃないんだろうけど、そんな風に言われると何も言えなくなる。
それでも皆でよってたかってこんなことするのは、ひどい。

「………もう誰も信じない」

傷ついた心でつぶやくと、おっとりとした声が俺の腕をそっと抑える。
そしてにっこりと笑った。

「宮守君、私も?」

そのほんわかとした笑顔に、ささくれだった心が宥められていく。
そうだ、俺には槇がいた。

「俺が信じられるのは槇だけだ!」

そう言って槇の柔らかい手を掴むと、横からぼそっと岡野が言った。

「黙って見てたのも、チエだけどね」
「………槇」
「宮守君、似合ってるよ」

そうだ、そう言えばそうだ。
文化祭の悪夢の時も、槇は笑って見ているだけだった。
優しい子だけど、時には悪魔になるんだ。
女は魔物だ。

「大丈夫だ、三薙。お前には俺がついてる。ほら、それ落としてやるからおいで」

双兄がどこから出したのかマジックを手に、手招きする。
ろくでもない申し出に、俺は全身で拒否をした。

「双兄が一番信用できねーよ!」



***




化粧をなんか携帯用のメイク落としとやらで落としたり、文句を言ったり、逆に怒られたりしてから、おいしいフレンチを食べた。
一旦別荘に荷物を置いてから中心地を見に行こうということになり、本日の宿に到着する。

「うわ、超豪華」
「きゃー、素敵!」
「すごいねえ」

別荘は飾り窓が印象的なクラッシックな木造の洋館。
女の子たちがしきりに洋館を見ながら、歓声を上げる。
でかい家は見慣れてるのでそこまで感動はないが、洋館ってのは珍しくて俺も見上げてしまう。

「お疲れ様です。お帰りなさい」

お帰りなさい、なんて言葉で迎えてくれたのはふくよかな初老の女性だった。
優しそうに目を細めてにこにこしながら玄関先に来てくれた。
住み込みの夫婦がここを管理してくれているらしいので、この女性がそうなのだろう。

「何かお淹れしますので、とりあえず居間にお越しください。皆さんお茶とコーヒーどちらがいいですか?」

女性は、杉村サチさんと言うらしい。
サチさんの案内に従って俺達は荷物を持って、これぞ洋館という感じの居間まで向かう。
暖炉にふかふかの絨毯、座り心地のいいソファ。
絵に描いたような、洋室だ。

「こっちは寒いでしょう。どうぞお茶です。温まってください」

すぐにこちらも優しそうな初老の男性が現れ、お茶を振る舞ってくれる。
サチさんの旦那さんで、伸介さんと言うそうだ。
背が高くて白い髭が印象的な、森が似合う人だ。
お茶はオレンジの香りが僅かにして、爽やかな味がした。

「部屋割どうしようか」

手作りだというおいしいお茶うけの小さなクッキーを食べながら、部屋割の話になる。
部屋は沢山あって、二人づつ入れば余るぐらいらしい。

「俺と双馬、三薙と藤吉君。女の子たちはどうするかな」
「あ、俺、女の子と一緒がいいです。最近は物騒だから俺が責任もってガードします。ていうかどうでもいいけど兄貴と同じ部屋とか………ぐはっ」

またふざけたことを言っていた双兄が、一兄の拳一発で腹を抱えて黙りこむ。
隣で悶える双兄を気にすることなく、顔色一つ変えない一兄が女子達ににっこりと微笑みかける。

「二人部屋も一人部屋も、四人一緒も大丈夫だそうだ」

双兄を気にせず、一兄の笑顔に顔を赤らめる女子達。
なんか双兄が可哀そうになってきた。

「どうしよっか」
「四人一緒でもいいよね」
「ちょっと狭いかもね」

結構時間がかかるかと思ったが、岡野がさっさと話を打ち切る。

「じゃあ、チエとチズ。栞ちゃんは、私と一緒でいい?」
「はい、勿論です!ありがとうございます」

栞ちゃんはにっこりと笑って岡野に礼を言う。
岡野も優しく笑ってよろしくと返す。

そうか、栞ちゃんもいるから四人なんだ。
そうだよな、いくら恋人でも天と栞ちゃんが同じ部屋ってのはまずいよな。
まだ天は中学生なんだし。
中学生、なんだよな。
あんなことする奴だけど。
よく覚えてないけど、なんか無暗に慣れてなかったか。
ちらりと天を見ると、それに気付いたのがこちらに視線を向ける。

「………っ」

顔が一気に熱くなって、咄嗟に俯いた。
駄目だ。
まともに顔が見れない。
あいつ、何を考えて、あんなことしたんだ。
本当に、最低だ。

「じゃあ、四天はどうする?俺達の部屋にくるか?それとも三薙達のところに行くか?」
「まだ部屋空いてるでしょ?俺は一人でいいよ」
「そうか」

四天は俺の様子なんて気に留めもせず、あっさりと言った。
あいつにとっては本当にどうでもいい出来事で、俺だけがこんなに動揺しているのが、酷く悔しくて、ムカつく。

「じゃあ、部屋はそれで。荷物を置いてから出かけるか」

一兄の締めの言葉で、皆が荷物を持って立ち上がる。
伸介さんが食器を片づけながら聞いてくる。

「夕ご飯はどうしますか。夏ならバーベキューもよかったんですけどね」
「え、バーベキュー!」

伸介さんの言葉に、思わず反応してしまう。
大きな声をあげた俺に、皆の視線が集まる。
うわ、恥ずかしい。

「なんだ、みつ、バーベキューしたいのか」
「え、いや、そ、そう訳じゃなくて」

双兄がにやにやとしながらヘッドロックをかまして聞いてくる。
ああ、もう、本当に恥ずかしい。
どうしてこんな子供っぽい反応しちゃったんだろう。

「宮守、バーベキューしたいの?」

藤吉が特に笑うことなく、普通に聞いてくる。
本当にさりげなく自然に聞いてくれるから、俺は思わず本音を漏らしてしまう。

「ちょ、ちょっと、やってみたい。やったことないから。で、でもほら、寒いよな!」

冬にバーベキューとか、本当に色々な意味で寒そうだ。
特にここは高原だから、地元に比べて随分気温が低い。
下手したら風邪をひいてしまう。

「じゃあ、バーベキューでいいんじゃね?」
「ね。バーベキューできますか?」

けれど岡野がそう言って、槇が伸介さんに問いかける。
伸介さんは鷹揚に笑って頷く。

「ええ、大丈夫ですよ。おいしいお肉と野菜用意しておきましょう」
「冷えるから温かいものも用意しましょうね。そこ開け放してすぐに部屋に入れるようにしますし」

庭に面した大きなガラス張りの扉を指して、サチさんも笑ってくれる。
とんとん拍子に決まってしまう話に、逆に慌ててしまう。

「あ、で、でも」
「反対の人はいる?」

佐藤が皆に問いかけると、平気と口々に返ってくる。
天も特に何も言わなかった。

「じゃあ、バーベキューで!」
「さんせー!」

胸が詰まって、言葉が出てこない。
初めてのバーベキューは勿論嬉しい。

「………」
「ほら、三薙」

一兄が、肩を叩いて促す。
だから俺は、温かくなっている心から溢れた言葉を口にした。

「………あ、りがと」

初めてのバーベキューは勿論嬉しい。
けれどそれ以上に、優しい人達が傍にいるのが嬉しかった。





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