「志藤さん、調子はどうですか?」 「………大丈夫です」 力のある声でしっかりと頷く志藤さん。 けれどその顔色は先ほどよりもよくなっているが、やはり青い。 小さな電灯のオレンジ色の光に照らされていてなお、白さが際立つ。 強がってしまう気持ちは、よく分かる。 「嘘はつかないでくださいね。無理をしていざという時に何も出来なかったら、それこそ大変なことになります」 ああ、これもまた、天に言われたことだったっけ。 本当に何を偉そうに言っているんだろう、俺は。 強がることと、強いことは、違う。 無理をしても、いい結果を産む訳ではない。 分かっていた。 けれど、改めて思い知る。 「………」 「俺はそんなに力がありません。だから、出来ることと出来ないことをちゃんと見極めておきたいんです」 いざという時に、無理をする志藤さんを守りきれる力は、俺にはない。 俺は、兄達や弟ではないのだから。 そして志藤さんも俺ではない。 現状を理解して、悔しそうに、けれど正直に答えてくれた。 「………すいません、まだ少し調子が悪いです。三薙さんに代わって結界を維持することは難しいかもしれません」 「そうですか。分かりました。俺も後4時間ぐらいはもつとは思います。いざと言う時のために体力を温存しておいてください」 もつとは思うけれど、いつ力が尽きるか分からない。 それに夜明けになればおしまいとは、限らないのだ。 「俺に何かあった時、フォローしてもらえるのは、志藤さんだけです」 「………はい」 志藤さんは俺の言葉に、不安げに顔を曇らせながらも素直に頷いてくれた。 ここで天みたいに、俺が一人で片付ける、ぐらい言えるといいのだけれど。 でも俺も一緒に強がっていても、どうしようもないのだ。 協力してどうにかしなければ。 俺は弱いのだから。 「お願いします」 「すいません、ご迷惑をおかけして」 そんなことない、という言葉は何度言っても頷けないだろう。 自分の無力さに嘆く気持ちを誰よりも分かるのは俺だ。 だからそれには触れずに話を変える。 「志藤さん、こういう仕事は初めてなんですか?」 「私はまだ仕事に携わるようになったばかりで、簡単なものをやらせていただいていたんです」 「結界の張り直しとか?」 「ええ。後は簡単な土地の清めとか。今回も、そこまで難しいものではないということで、同行させていただいていたので………」 「そうですか。じゃあ、一緒に頑張りましょうね。俺も初仕事、ボロボロでした」 そんな笑いながら言えるほど、優しい思い出ではない。 痛みと切なさと後悔ばかりの初仕事。 思い出したくはない。 けれど、忘れてはいけない痛み。 「強くなりたいですね」 「………はい」 志藤さんが少し笑ってくれたから、俺も笑う。 俺も志藤さんも、同じものを求めている。 強くなって、誰にも迷惑をかけたくない。 志藤さんはとっつきにくい人だと思っていたけれど、なんだかとても親近感が沸く。 「あれ」 「電気?」 ふっと、辺りが暗くなる。 電気が切れたのかと思って上を向くが、剥き出しの電球は変わらずオレンジの光を放っている。 何が明りを遮ったのかと窓をの方を向くと、障子の向こうが黒く染まっていた。 どうやら何かが窓と玄関から入ってくる月明かりを遮ったらしい。 志藤さんの息を飲む音が聞こえる。 「………」 なんだか、不思議だ。 俺よりも焦っている人がいると、落ち着いてしまう。 いつもよりずっと冷静でいられる。 そういえば、岡野達みたいな力が使えない人達と一緒にいる時もそうだった。 今はその時よりも差し迫っていないせいか、もっと冷静でいられる気がする。 「なんだろう」 志藤さんと窓の間に体を挟むようにして、障子の向こうのものをじっと見つめる。 黒く大きなものが窓にへばりついているのかと思ったが、そうではないようだ。 カサカサカサカサカサカサカサ。 紙が擦れるような、微かな音がする。 黒い影は、ざわめく波のようにうごめいている。 どうやらそれは、小さな何かが沢山集まって、黒いカーテンのように窓を埋め尽くしているらしい。 カサカサカサカサカサカサカサ。 ぞわりと寒気が走り、全身に鳥肌がたった。 「………虫?」 「みたいな、ものですかね」 「う、わ」 気付いてしまうと、それはより鮮明に見えた。 小さな、俺の手の平よりも小さな虫のようなものが沢山集まりうごめいている。 曇り硝子と障子の向こうなのでソレが何かは分からないのがまだ救いだが、生理的な嫌悪感に腹の中が気持ち悪くなる。 「これは、嫌だな」 「は、い」 背中が引っ張られて飛び上がりそうになる。 けれどすぐにそれが志藤さんが俺のシャツを引っ張っているのだと分かった。 どうやら無意識に俺の背中に掴まっているようだ。 シャクシャクシャクシャクシャク。 カサカサカサカサカサカカサ。 「なんの、音ですか」 「………」 うごめく音と一緒に聞こえてくる、奇妙な音。 なにかの違和感を感じて、意識を張り巡らせる。 結界の隅に感じる、僅かな綻び。 「………結界を、食べてる?」 そうではないのかもしれないが、そうとしか感じられないような綻び。 隅の方から僅かづつ、食いちぎられているように結界が侵蝕されている。 「………」 「大丈夫、でしょうか」 不安そうな志藤さんの声。 結界を強くしてこいつらを跳ね返そうか。 けれど、それには力を多く消費する。 こいつらを対処するのはいいが、その後また来たら、その時は力が足りるか分からない。 それなら、どうしたらいいのか。 「………結界を補強しながら、維持します」 それが一番、力の消費が抑えられるだろう。 省エネでいかないと、俺の力は持たない。 こんな時、一兄や天だったらあっという間に祓うことが出来るんだろうな。 それこそ、ここを守るというよりも、打って出ることすらできるかもしれない。 そんなこと、考えても仕方ないんだけど。 俺は、俺の出来ることをやらなければいけない。 「………消耗戦だな」 「三薙さん?」 「いえ、なんでもありません」 最後まで、力が持てばいいのだけれど。 双兄と、この俺を頼りにしてくれる人を、守り切りたい。 いや、守ってみせる。 それは唐突な変化だった。 「あか、るい?」 食い荒らされては力を流し込み補強して。 どれくらいそんな不毛なことを繰り返しただろう。 じわりじわりと自分の力こそ食われていくような長い時間に、力と共に精神も消耗している。 「なんで」 さっと、波が引くようにあっという間に虫のようなものが消えた。 いきなり、窓から眩しいほどの明りが入り込む。 「あ、夜明け、ですか!」 志藤さんが表情を明るくして、立ち上がる。 結界を侵蝕しようとしていた力も、消えている。 印を解いて、一息つく。 「朝?」 もう何十時間も経った気がして、時間の感覚がない。 力は大分消耗していて、いつまで持つか分からない。 僅かだが飢えが始まっていて、喉が渇く。 「障子、開けてみましょうか」 志藤さんが、少しだけ弾んだ声で障子に近づく。 俺も外が見たい。 こんな薄暗い部屋、もういたくない。 太陽が見たい。 「………」 けれどなんか違和感がある。 玄関とその横にある障子に覆われた窓から差し込む光。 まばゆい、ほっとする光。 「あ」 けれど、なぜ部屋の右に面した窓からは光が入って来ていないんだ。 「駄目です!」 「え?」 慌てて立ち上がって、障子に手をかけていた志藤さんの背中を引っ張る。 志藤さんが驚いて手を止めるが、一歩遅かった。 僅かに5センチほど障子は開いてしまった。 「あ」 「う、わ!」 射抜くような視線に、体が硬直する。 血走った目が、俺達を見ていた。 「なっ」 いくつもいくつも、障子の隙間から、俺達を見ている。 窓に張り付いた沢山の眼球が、俺達を、見ていた。 眼球についているはずの体はない。 数えきれないほどの目だけが、俺を見ていた。 「っ」 なんとか手を動かして、障子を閉める。 いつのまにかまた窓は黒いもので埋め尽くされている。 かさかさと、何かが動いている。 「開けろ開けろ開けろ」 「開けろ」 「返せ返せ返せ」 あの気持ちの悪い声が聞こえる。 また結界の侵蝕が始まる。 「み、なぎさん」 「大丈夫、大丈夫です」 こんなのはこけおどしだ。 まだ結界は頑強にこの家を包んでいる。 破られる気配はない。 「大丈夫、です」 大丈夫、大丈夫大丈夫。 この人達を守ってみせる。 けれど、俺は、いつまで持つのだろう。 |