「………明るく、なった?」 また、いつのまにか、窓に張り付いていたものはいなくなっていた。 結界を侵蝕する力も、同時になくなっている。 けれどまたあの目がいるのではないかと思って、障子を開ける気にならない。 じわりじわりと力を喰われ続ける時間が続いていて、疲労しきっている。 札の力を借りているとは言え、きつい。 志藤さんの心配そうな表情にかける言葉も出てこなくなる。 黙って二人で、寄りそいながら結界を守る。 疲れた。 休みたい。 いつ終わるんだ。 これは、いつ終わるんだ。 苦しい。 力が、欲しい。 早く終わってくれ。 そんな弱音を、つい吐いてしまいそうになる。 でも隣に志藤さんがいるから、なんとか堪えることが出来る。 カチャカチャカチャカチャ。 「っ」 玄関から、音が聞こえる。 また始まったのかと思った。 今までに聞いたことのない新しい音だ。 視線を送ると、玄関の鍵が僅かに揺れている。 黒い人影が、曇りガラスの向こうにある。 「………」 志藤さんの手が、俺のシャツをぎゅっと握る。 弱音と悲鳴を唾と一緒に飲みこんで、身構える。 力は少なくなっている。 もう、出来ることは本当に少ない。 けれど、絶対に守って見せる。 ガシャ。 音を立てて、玄関が開く。 志藤さんが身を強張らせる。 「………三薙さん?」 聞きなれた明るい声。 真面目そうな外見、けれど浮かんでいるのはどこか胡散臭さを滲ませる飄々とした笑顔。 「………くま、さわさん」 明るい日差しと共に入ってきたのは、スーツ姿の長身の男性。 いつもと変わらずその人は、にっこりと笑った。 「お疲れ様です。6時です。ありがとうございました。よく、頑張りましたね」 その笑顔を見て、その声を聞いた途端、ほっとしすぎて涙が出てきそうになった。 膝から力が抜けて、ずるずるとその場に座りこむ。 「は、あああああ」 思わず出てきたため息とともに、俺は全身の力を抜いた。 もうこのまま畳に倒れ込んで眠ってしまいたい。 「だ、大丈夫ですか、三薙さん!?」 「あ、へ、平気です。気が抜けた、だけで」 志藤さんが慌てて俺の背中を支えた。 不安げに顔を曇らせる志藤さんに、気にしないようになんとか笑顔を作る。 「ん………」 その時、隣の部屋から布が擦れる音と、僅かな声が聞こえる。 身じろぎ一つしないで寝ていた人の、声だ。 「双兄!」 飛び跳ねて起き上がり、隣の部屋に駆けこむ。 うっすらと目を開いて、眩しそうに手をかざす次兄の姿にまた涙が出そうになる。 なんとか、守り切ったんだ、俺はこの人を、守り切った。 「双兄、大丈夫?」 隣に座りこんで、顔を覗き込む。 双兄は俺の顔を見て、むずがるように眉を顰めた。 「あー………後5分。起こすのは美女限定で」 「起きろ!」 寝起きからふざけている双兄の布団をはぎ取った。 「よく頑張ったな、三薙」 なんとか叩き起こした双兄はまず最初にそう言ってくれた。 珍しくふざける様子はなく、真面目な顔で肩を叩いてくれる。 めったに褒めてくれない次兄の労いの言葉に、胸がこそばゆくなる。 「あ、双兄は、平気?」 「俺はただかわいい女の子と遊んでただけだからなあ」 こきこきと首を鳴らし、肩をぐるぐると回す。 眠っていて、体が強張っているようだ。 「順子ちゃんは平気だった?」 「ああ、全然問題なし。お前がいなくなって寂しがってた。後でちょっと会ってやってくれ」 「うん」 いっぱい遊ぶって約束したのに、途中で挨拶もせずに別れてしまった。 俺としてももう一回彼女に会いたい。 「それで熊沢、状況はどうなってるんだ」 双兄は表情を改めて俺達の横で立っていた熊沢さんを見上げる。 熊沢さんは軽く肩をすくめる。 「悪いですねえ」 「悪いのか」 「結界の修復は今夜までってのは不可能です。応援を頼もうかと思ったんですが、使えるのが出払ってるみたいで。人手不足やっぱり深刻ですね」 「そうかあ。困ったわねえ」 結構大変なことを言っているのに、なぜか二人とも軽い。 聞いているこっちが気が抜けてしまいそうだ。 「双馬さんのお仕事もまだ済んでませんよね?」 「まだなのよ」 「では仕方ないですねえ。今夜もまた三薙さんに頑張ってもらわないといけませんね」 「え!?」 二人の力が抜ける会話を聞いていたら、いきなり話をふられて飛び上がる。 熊沢さんを見上げると、一見真面目に見える男性はにこにこと笑っていた。 「今日と同じです。この離れで双馬さんと順子ちゃんを守ってくれますか?」 「えっと」 「大丈夫ですよ。今日も立派にやってくれましたし」 それから俺の隣にいた志藤さんに視線を移す。 相変わらずにこにこと笑っているけれど、気のせいかどこか冷たい印象を受ける。 「志藤君。今夜までには少しは回復するんでしょう?」 「………はい」 志藤さんは俺に背中に隠れるようにして、小さく頷いた。 なんか、随分頼りなくなっているような気がする。 もっとしっかりした人だと思っていたのだが。 「あ、でも熊沢さん」 「はい?」 「………俺、もう力が残り少ないんです。このままだと維持は出来ません」 協力したいのはやまやまだがこのままでは足手まといになりかねない。 この体が本当に忌々しく感じるのはこんな時だ。 落ち込んでいても仕方ないとは、分かっているのだが。 「ああ、なるほど。じゃあ僭越ですが俺が供給しましょう」 熊沢さんは飄々として頷く。 俺より力を消耗しているだろう人の申し出に、慌てて首を横に振る。 「え!?でも、熊沢さんもお疲れでしょう!」 「大丈夫大丈夫。まだまだ俺は若いですよ!」 「いや、若いとか若くないとかの話じゃなくて!」 「少しくらい若いからっていばらないでください!」 「いや、そうじゃなくて!」 こんな時だけ真面目な顔をする熊沢さんと下らない言い合いをしていると、のんびりとした声が割って入った。 「仕方ないなあ。お兄ちゃんが供給してあげよう!」 「双兄も疲れてるし、今夜も仕事があるだろ!?」 「熊沢よりマシだろ。元々総量的にも俺のが上だし、そこまで力使ってないし、夜まで寝てれば回復する」 「………でも」 「なあに、お兄ちゃんの力は受け取れないっていうの!?」 こっちはこっちでふざけている。 思わず馬鹿なこと言うなと言い返しそうになる。 けれど、ちょっと冷静になって考えれば、それがきっとベストだ。 この中で力が一番強いのは双兄。 それは間違いないだろう。 どちらにせよ、供給を受けないと俺は使い物にならない。 夜も結局全員力を使うのだとしたら、双兄から供給を受けるのが一番いいことだろう。 双兄は俺よりもずっと経験も力もある。 不可能なことなら言わないはずだ。 「………うん。じゃあ、お願い」 「あら素直」 「だって、それが一番いいだろ?」 そう言うと、双兄はちょっと驚いた顔をしてから、顔に皺を作って笑った。 そしてぐしゃぐしゃと俺の頭を掻きまわす。 「ああ、それが一番だ。まだ我慢できるか?」 「あ、うん」 「じゃあ、メシ食ってからにしよう。その後、供給して寝てろ」 「………分かった」 そうだ、できる限り体力も力も温存しないといけない。 休んだ方がいいだろう。 「じゃあ母屋に行きましょうか。佐々木さんが朝食を用意してくれるそうです」 熊沢さんが纏めるようにぱんと手を叩く。 母屋と言う言葉で、唐突に思い出す。 「あ、母屋の方は大丈夫だったんですか!?」 熊沢さんがあまりにもいつも通りだったので、聞くのを忘れていた。 一人で母屋を守っていたのだから、きっと大変だっただろう。 度会さん達は大丈夫なのだろうか。 今まで自分にいっぱいいっぱいで度会さんまで気が回らなかった。 急に心配になって詰め寄る俺に、熊沢さんは笑顔のまま頷いた。 「ええ、母屋は問題ありませんでした。多分こっちの方が大変だったんじゃないですかね」 「そう、なんですか?」 「はい。本当にお疲れさまでした」 熊沢さんが俺の前に座りこみ、額を畳に擦りつけんばかりに深々と頭を下げる。 「足手まといを抱えながらも、三薙様におかれましては見事お役目果たされました。わたくしどもの力不足で大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。心よりお詫びいたします」 「い、いえ、こちらこそありがとうございます。って、顔を上げてください!」 熊沢さんにこんなことをされると落ち着かない。 慌てて顔を上げてもらう。 「こちらこそ、頼りなくてすいません。でもなんとか、志藤さんもいたし、頑張れました」 「ありがたいお言葉です。本日もそのお力をお借りする不甲斐なさをどうぞお許しください」 「い、いえ!」 「志藤君、三薙さんの期待に応えるよう、今日は頑張ってね」 熊沢さんの言葉に、志藤さんは沈痛な面持ちで頷いた。 「………はい」 なんだかやっぱり、熊沢さんは志藤さんに厳しい気がする。 朝食をとってから、離れの部屋に戻ってくる。 ここが一番清浄で心地が良い。 渡会さんとの打ち合わせはまた後にしてもらうことにした。 日が昇っている間は、とりあえず危険はないらしい。 「双兄、本当に大丈夫?」 「平気平気。お兄様を見くびるんじゃないわよ」 「………うん」 向かい合わせに座ると、双兄が小さく笑った。 「なんか、久しぶりだな」 「そういえば、双兄に供給してもらうのってどれくらいぶりだろ」 「基本的に四天か兄貴の役目だしなあ。俺も力は多い方だけど、やっぱあいつらのが多いし」 その言葉に、天との供給を思い出してしまう。 兄弟でおよそするはずのない、おぞましい行為。 そんな行為を受け入れて歓んでいた、自分。 「………」 あの時の恥辱と恐怖を思い出して、唇を噛む。 やっぱりあんなことを強いた天を許せそうにない。 他のことはともかくとして、あれだけは、許せない。 「何ぶーたれた顔してんだ」 双兄が俺の頬をつまんでひっぱる。 その感触と笑い交じりの言葉に、意識が引き戻される。 「別に、してないけど」 「してんだろ。なんだお前はこのフグみたいな顔が地顔なのか。そうなのか。このフグ男め。ほらもっと膨らめ」 「いたたたた、いたい!いだい!やめろよ!」 頬をぐいぐいと引っ張られて、その手を慌てて振り払う。 大きな手が離れた後も、頬はじんじんと痛んだ。 「もう、双兄はいっつもこんなんばっかり!」 「痛いぐらいが嬉しいくせにー」 「意味わかんねーし!」 どこまでもふざけている次兄を睨みつける。 するとにやにやとしていた双兄は急にふっと表情を改めた。 「四天が、嫌いか?」 思わぬ真面目な表情。 この前も、聞かれたっけ。 「………嫌い」 「そっか」 「あいつ、意味分からないし、性格悪いし、力が強いのも偉そうなのも、全部全部嫌い」 「うんうん、まあ根性ねじ曲がってるな。俺の弟だっていうのに、どうしてあんなになっちゃったんだか。なんで俺に似なかったんだろうなあ。可哀そうな奴だ」 双兄が冗談交じりに頷いて、同意してくれる。 その言葉に俺も小さく笑ってしまう。 双兄の言葉は苛立つことも腹立つこともあるけれど、心を軽くしてくれることも多い。 「四天なんか、嫌い、だ」 「うん」 「………でも、知りたいと、思う」 嫌いだ。 あいつは、嫌いだ。 許せない。 「知りたい?」 「俺と天、仲良かった、だろ。昔。普通の兄弟、だった」 だから、知りたかった。 一方的にあいつのことを嫌っていた。 でも、歩み寄りたいと思った。 だから知りたい。 俺を嫌う理由があるなら、知りたい。 どうして、こんな風になってしまったのか、知りたい。 「そうだな。昔はよく皆で一緒に遊んだな」 「うん、だから、どうしてこうなっちゃったのか、知りたい」 あいつが何を言っているのか、何を思っているのか、何を望んでいるのか、何もかもが分からない。 だから、知りたい 「ねえ、双兄は知ってる?昔、天が俺に酷いことしたって言ってたんだけど」 俺が天を嫌ったから、あいつが離れていったわけではない。 あいつが俺に酷いことをしたから、俺があいつを嫌った。 確かに、天はそう言った。 けれど、俺は何も覚えてない。 「双兄は、分からない?」 「さあて。お前がよく泣かされていたのは覚えてるけどな」 双兄がいやらしい感じににやりと笑う。 いつもの嫌な予感がする、笑い方。 「な、なんだよそれ」 「お前本当にぴーぴーぴーぴーよく泣いたからな」 「そ、そんな泣かされてない!」 「いや、お前昔からあいつに泣かされてたからな。ひっぱりまわされて転ぶわ、俺の真似してお兄ちゃんぶって木登りして落ちるわ、虫に追いかけまわされて逆に四天に追い払ってもらってるわ、その度にそりゃもうびーびー泣いて」 「う、嘘だ!」 「兄貴に聞いてみろ」 「………」 一兄に聞けってことは、それは確かに真実なのだろう。 一兄は嘘をつかない。 つまり、聞いてもいいってことは、それは真実ってことだ。 「お前は兄貴のこと、本当に好きだよなあ」 黙りこんだ俺に、双兄が呆れたように眉を吊り上げる。 ため息までつかれて、かっと顔が熱くなる。 「そ、そんなこと………」 「ないのか。兄貴が嫌いか。そうか嫌いなんだな。お兄ちゃんなんて大っ嫌い!この若禿げ!とか言っちゃうんだな!お兄ちゃん加齢臭くさいーとか言っちゃうんだな!」 「言わないし!臭くないし!禿げてないし!」 「お前が言ったんじゃないか!大っ嫌いって!嫌いなんだろ!好きじゃないんだろ!」 「好きだよ!」 しまった、と思った時には遅かった。 果たして双兄はにやりと笑う。 「ほーらな。このブラコンー」 本当にこの兄は、こういう風に人をからかうのがとてもうまい。 いっつもいつももう乗せられないと思っていても乗せられてしまう。 俺が馬鹿なこともあるんだろうけど。 「双兄が変なこと言うからだろ!そりゃ、兄弟だから好きだよ!」 「四天のことは嫌いなのに?」 「………っ」 だって、それは違う。 一兄と天は、全然、違う。 「なあ、兄貴と四天、どっちが好き?」 「はあ!?」 双兄は更に訳の分からないことを畳みかけてくる。 思いもよらぬ問いかけに、声が裏返る。 「ほら、どっちだ!」 「なんだよ、その質問!」 「さっさと答えろ!」 「なんで!」 「ほら、答えないとコブラツイスト。3、2」 「そ、そんなの一兄に決まってるだろ!」 「………そっか」 双兄が深く深く重いため息をつく。 そして真面目な顔で俺を見据えた。 「な、なんだよ」 何を言われるのかと身構えていると、双兄は真摯な顔で視線を逸らさず言った。 「どうしてそこで双馬お兄ちゃんが一番好き!って言わないんだよ!」 「選択肢にはいってねーし!意味わかんねーよ!本当に!」 「ああ、本当にかわいくない!」 「だから意味わからないから!」 「さて、さっさと供給して休まないとな。そんなに怒鳴るなよ」 「誰がさせてんだよ!」 「さっさとしなさい!」 どこまでも意味の分からない次兄に文句を言うが、帰ってくるのは更に理不尽な答え。 なんなんだ本当に。 「ほら、来い」 ぶちぶちと口の中で文句を言っているといきなり引き寄せられて、おでこがぶつかる。 すぐ間近に双兄の長い睫が見える。 「供給するぞ」 「………もう。分かった」 これ以上言っても無駄だろう。 目を瞑って、体の力を抜いてリラックスする。 双兄のオレンジ色の力を感じるように、意識を研ぎ澄ませる。 「宮守の血の絆に従いて我が力を絆深きものに恵むために………」 双兄の呪を唱えるテンポが、心地よい。 少し掠れた声を聞いていると、意識がとろとろとほどけていく。 ぐいっと引っ張られる感じがして、双兄と回路が繋がる。 「………んっ」 双兄と回路を繋げる時は、ちょっと乱暴に感じる。 無理矢理開かれて、力を強引に入れられる感じだ。 一兄はもっと柔らかくて自然で、天は力が多すぎるせいか圧倒的に感じる。 「んぅ」 額と背中を支える手から、オレンジ色の力が注ぎこまれる。 一兄と天よりも少ない力。 けれど与えられる力は気持ちがいい。 入ってくる時は強引だけれど、双兄の力が一番優しくて温かい。 一度注ぎ込まれ始めると、その穏やかさに体から力が抜けていく。 「は」 ゆったりとゆったりとゆりかごで揺られるように意識が薄らいでいく。 気持ちがいい。 眠くなってくる。 満たされていく。 まるで、陽射しが温かい縁側でまどろんでいるような気分。 「あ、はあ………」 たっぷりと満たされて、満足のため息が漏れる。 そっと双兄が額を離すと、骨がなくなってしまったようにぐにゃりと体が後ろに倒れる。 頭を打つ寸前で双兄が俺の体を抱えあげて、あらかじめ敷いてあった布団に運んでくれる。 「寝て、いい?」 布団の柔らかさと温かさと、供給後の心地よさで瞼はもう閉じ切っている。 それでも最後に一応聞くと、そっと頭を撫でられた。 「ああ、おやすみ、三薙」 その瞬間、ぷっつりと意識が途絶えた。 |