「がはっ」

熊沢さんがもう一度容赦なく度会さんを蹴り飛ばす。
その衝撃で度会さんが倒れ込む。
熊沢さんが、目に入ったのか顔を染める血をその手で拭った。
どうやら血は、頭から垂れてきているようだ。

「熊沢さん、大丈夫ですか!?」
「はい、大丈夫ですよ。不意打ちで頭に一発くらってちょっと昏倒してました。すいません。でも、俺また真打登場って感じで美味しいですね」

血を流しているし、こんな緊迫した状態なのに、やっぱり熊沢さんは変わらない。
にこにこと笑いながらそんな軽口を叩く。
だから俺もつい笑ってしまった。

「は、はは、本当においしいですね」
「でしょう?本当にすいませんでした、三薙さん、志藤君。今この人縛り上げるので、結界を強化してそこに立てこもりましょう」
「は、はい」
「朝までだったら持つはずです。ていうか持たせないと終わりですね」

そんな怖いことをあっさりと言い放つ。
でも、熊沢さんが現れたことで、心から安心していた。
この人の飄々とした雰囲気が、もう大丈夫なんだと思わせる。

「三薙さんも結界の中に入ってください」
「わ、分かりました」

慌てて結界の中に入る俺を見てから、熊沢さんが倒れ込む度会さんに近づいていく。
黒い獣はまだ命を守っているのか動かない。
だが毛を波打たせながら、その金色の目をうごめかしてこちらを見ている。

「くっ」

熊沢さんが度会さんに触れたその時、老人とも思えぬ動きで立ち上がり手を振り払い結界に突っ込んだ。
害意を持つ者をはじく結界は、焼くような痛みを与えているだろう。
けれどその痛みも気にせずに、その身を持って結界をほころばせる。

「度会さん!」
「三つ目神!夢食いもろとも、喰らいつくせ!お前の欲しいものを奪え!」

黒い獣が、その言葉をうけて動き出す。
綻びを更に広げて、中に入り込んでくる。

「駄目だ!」

ポケットに入っていた札をもう一枚取り出す。
後何枚ある。
間に合うのか。

「我が力、我が血、力となりて、闇を隔てよ!」

不安を振り払い、簡略化した呪を唱える。
精神統一もあまり出来てない。
更に力のない俺の簡略化した呪。
母さんの札の力を借りているとはいえ、中途半端な結界しかはれない。

「くっ」

黒い獣が結界を破ろうと、更に身を進めてくる。
力を何度も注ぎ込み保とうとするが、向こうの方が強い。
押し負けそうだ。

「ぐっ、かはっ」

その時、結界の向こうから呻き声が聞こえた。
そして何かがぶつかるような音が響いてくる。

「っ、つ、ぐっ」

そちらに視線を向けると、熊沢さんが無表情に倒れ込む度会さんを何度も蹴り飛ばしていた。
その様子には手加減などなく、力いっぱい身を丸める度会さんを痛めつけている。

「何、舐めたこと言ってるんですか、度会さん。せっかく穏便に済ませてあげようとしてるのに、そういう人の好意を無碍にする行動はよくないですね」
「かは、ぐ、くっ」

年にそぐわない身体能力を持っていたとはいえ、老人だ。
あんな容赦なく打ちすえられたら、ひとたまりもないだろう。
こんなことをしでかした人とはいえ、必要以上に痛めつける必要はない。

「だ、駄目です、熊沢さん!やめてください!熊沢さん!」

熊沢さんを止めたいが、ここからは離れられない。
今離れたら結界は崩れてしまう。
黒い獣はずっと俺の力を食らい続けている。

「っ、熊沢さん!」

熊沢さんは俺の言葉を聞かずに、ただ機械的に老人を痛めつけている。
いつも朗らかな人の表情を失った顔は、酷く恐ろしく感じる。

「やめてください!ていうか、結界の強化、手伝ってください、熊沢さん!」
「すいません、すぐそちらに行きますんで。志藤君、この人始末してる間、三薙さんの補助をお願いします」
「え、と」

なんか怖い単語が出てきている。
なんとかして止めないといけない。
でも、動けない。

「熊沢さん、やめてください!」
「少々お待ちくださいね」
「志藤さん、熊沢さんを止めてください!」
「え!」

結界の中で呆然と成り行きを見守っていた志藤さんを振り向く。
志藤さんは目を白黒させて俺と熊沢さんを交互に見る。

「志藤さん、お願いします!」

もう一度頼んで、また熊沢さんに向き合う。
度会さんは鼻血を出し、口の中を切ったのか口からも滲んでいる。
痛々しくて、目を逸らしたくなる。

「やめてください、熊沢さん!」

もう一度叫ぶと、俺の横から志藤さんが駆けだした。
そして後ろから駆け寄って、熊沢さんの腕を掴みその場に引き倒そうとする。
けれどすんでのところで熊沢さんはバランスを取り戻して、志藤さんの手を振り払った。
その間にも志藤さんは、熊沢さんと度会さんの間に入り込む。

「やめてください、熊沢さん」
「………どういうつもりだ、志藤」
「やめて、ください」
「どけ」
「………っ」

度会さんを庇うようにしゃがみこむ志藤さんを、熊沢さんが冷たく見下ろす。
少しだけ怯んだように言葉を失うが、志藤さんは懐剣を握り締めきっと睨みつける。

「どきません!」
「お前もお仕置きされたいの?」
「三薙さんのご命令です!私は、あなたの命令よりも、三薙さんの命令を聞きます」
「………」

その言葉に、熊沢さんから発せられていた殺気が弱くなる。
何度か瞬きをして、志藤さんを見下ろす。
志藤さんは唾を一つ飲みこんで、少し震えながら、けれどはっきりと言った。

「優先されるべきは、宗家の人間の身の安全。それと、仕事です」

そのまま数瞬黙りこみ、睨み合う。

「………そうですね。志藤君とやり合って痛い目合うのも嫌です」

沈黙を破ったのは、熊沢さんの飄々とした声だった。
くるりと振り返って、俺の向かって深く深く頭を下げる。

「命令に背き、申し訳ございません。ちょっと頭に血が上っちゃいました。恥ずかしいところをお見せしました。こちらの責任は後でとりますね」
「あ、いえ、それは、いいんですけど」

その時熊沢さんの後ろの影が動いた。

「志藤さん!」
「どけっ!」

散々痛めつけられ満身創痍になった度会さんがけれど素早い動きでこちらに向かってくる。
すぐに熊沢さんが追ってきて、その背中を蹴り倒した。

「しぶといなあ」

気を抜いたのは一瞬だった。
けれどその一瞬で十分だった。

「あ!」

力を注げなくなった結界の綻びから、黒い獣が入ってくる。
わずかな穴を広げるようにして、痛みを感じるだろうに入り込んでくる。

「とま、れ」

再度力を込めようとしても、もう遅かった。
黒い獣は結界を食い破り、今にも俺に向かってくる。

「三薙さん!」

志藤さんの声が響く。
けれど放り出されていた刀を手にした度会さんが熊沢さんと志藤さんを牽制している。
駄目だ、間に合わない。
どうすればいい。
出来ることは。

「く、そ!」

剣を投げ捨て、黒い獣に手を伸ばす。
堅く見えるその毛は、けれど堅さも柔らかさも感じずただ痛みを不快感が全身に走った。

「く、うううう、ぐう」

札はまだある。
両手でその大きな体を受け止める。
獣の黒い力が、俺を飲みこもうと広げられる。
全部を奪うのは無理でも、動きを止めることぐらいはできるはずだ。

「宮守の、血において、命ずる。闇の獣、闇の力、我に従い、我が力と、なれ」
「ぐ、がああああああ!」

襲ってくる力をはじき返すのではなく受け止めて、自分の力に変換する。
簡略化された呪と従わない力では、反発が大きい。
入り込んでくる黒い力に、体の中が食い荒らされる。

「ぐ、うううう」

痛い痛い痛い痛い。
でも、ここで押さえないと、双兄と順子ちゃんが危ない。
我慢しろ。
でも、痛い。

「三薙さん!」

志藤さんの声が響いて、圧迫感が消える。
どうやら俺から引きはがしてくれたらしい。
俺はその場に倒れ込んで、体の中を暴れまわる力を抑え込もうと身を丸くする。

「志藤君、そっちの部屋に入ります。三薙さん連れてきてください」
「は、はい!」

ちらりと目を開くと簡易に結界を張ったらしく、黒い獣はこちらに近づけないでいた。
けれどこれもすぐに破られるだろう。

「三薙さん三薙さん三薙さん!大丈夫ですか!」
「は、はい………、だいじょう、ぶ」

志藤さんが俺を抱えてくれたようで、宙を浮く感触がした。
目を閉じているので周りが良く分からない。
襖が開く音。
濃厚な、古い結界の気配。
ああ、ここは、双兄が寝ていた部屋よりもさらに奥。

順子ちゃんが寝ていた部屋。

「閉めますよ」

熊沢さんの声が響く。
そして襖が閉まる音。
横たえられると、頬に畳の感触がした。

「三薙さん三薙さん、大丈夫ですか?」
「はい、へい、き」

目を開くと、そこには心配そうに俺の顔を覗き込む志藤さん。
横を向くと、すぐ傍に布団と、なにやら色々な配線が見える。
そして布団の上には一人の人間が寝ていた。
まっすぐに上を向き、色々なチューブを取りつけられ、静かに目を瞑っている。

「………順子」

隣で熊沢さんに抑えつけられた度会さんがその女性を見て呻く。
ああ、やっぱり、この人がそう、なのか。

「………順子、ちゃん」

布団の上で眠る女性は、真っ白な髪をした綺麗な老女だった。





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