それは、道だった。 真っ暗な、道。 「お兄ちゃん」 高く澄んだ子供の声が、俺を呼ぶ。 その小さな手が俺の手を引き、どこかへ誘おうとする。 「お兄ちゃん、こっちだよ」 白い狩衣を身につけた、幼い少年。 くすくすと笑いながら、柔らかく小さな手で、俺を導く。 いつもと同じ、純粋な声と笑顔。 「こっちこっち」 それなのに、俺はなぜかそれが怖いと思った。 その先に行きたくないと思った。 「ね、こっちだよ」 幼い子供の手が、俺を引っ張る。 奥へ続く、暗闇へと。 「………」 目を開いて飛び込んできたのは、自室とは違う天井の木目。 何度か見たことのある、景色。 のそのそと起き上がれば、そこは落ち着いた色合いと整然とした乱雑が一緒に存在する部屋。 そうだ、ここは天の部屋。 そして、ベッドの隣には、穏やかな顔で眠る天がいた。 「………っ」 その顔を見て、昨日何があったかを瞬時に思い出す。 羞恥と屈辱への怒りで、頭の中が真っ赤に染まる。 衝動的にその綺麗な白い顔を殴りつけようと拳を振り上げる。 「物騒な挨拶だね。おはよう、兄さん」 けれどその手は、寝起きなんてことを感じさせないぐらい自然に目を開いた天に掴まれた。 天はいつも通り、人形じみた顔に冷たい笑顔を浮かべる。 「ふ、ざけんな、ふざけんな!」 この前の時も、最低だと思った。 これ以上にないほどの屈辱だと思った。 それなのに、昨日のあれは、今まで受けた様々な仕打ちとは比べ物にならないほどの屈辱。 「最低だ、最低だ、最低だ!」 天が俺の腕を放してゆっくり起き上がる。 その顔に、思い切り平手を叩きつけた。 天は避ける様子もなく、わずかに眉を潜めただけ。 「………つっ、この前より力が入ってるね」 そして赤くなった頬をなぞって、笑う。 人を馬鹿にしたその様子に、余計に怒りが沸いてくる。 「ふざけんな!」 もう一度、今度は拳でその肩を叩くが、今度も四天は避けようとはしなかった。 ただ、黙って激昂する俺を冷たく見据えるだけ。 その俺の感情なんて全く意に介さない様子に余計に苛立ちを覚える。 せめて怒るなり焦るなり言い訳するなり、してくれればいいのに。 そうすれば、せめて対等な存在だと、思うことが出来る。 「なんで、あんなっ、あんなこと、したんだよ!」 「あんなこと?」 天が僅かに唇を持ち上げて首を傾げる。 「あんなっ」 天にきついことを言われる時は、自分に非があることも多かった。 供給だって、合理的だと言われれば納得も出来た。 でも、この前の時と、昨夜のことは、違う。 俺に非はないし、合理的な理由は、一切ない。 ただ、俺を馬鹿にして貶める目的しか、ない。 「どんなこと?」 「………っ」 嘲笑を浮かべて聞いてくる天に、脳みそが焼き切れそうになる。 まるで夢の中のようにも感じるが、それでも酷く生々しく脳に刻みこまれた記憶。 供給の時に理性が吹っ飛ぶのはいつものこととはいえ、それでも、あんな自分を認められる訳がない。 どんなに嫌がっていたとしても、昨日の俺は最後の最後には受け入れていた。 むしろ、屈辱的な行為を積極的に求めていた。 あんなみっともない格好で、あんな最低な行為を、歓んでいた。 そんな自分が惨めで、汚くて、消し去りたくなる。 「兄さんが俺のものにしゃぶりついて、俺の精液飲んでイっちゃったこと?」 天が黙りこんだ俺の記憶を読むように、耳元に囁きこむ。 顔がカッと熱くなって、震える体を抑えるように布団を握りしめる。 「それともその後にイけないって泣いて強請って、俺の手で射精したこと?」 我慢出来なかった。 もう一度振りあげた拳を、今度はその綺麗な顔を叩きつける。 天は避けようとはしなかったけれど、僅かに体をひいて力を逃した。 だから、大してダメージは与えられなかっただろう。 「ひどいな。すごい気持ちよさそうだったのに」 天は殴られた頬を撫でながら、喉を振わせて笑う。 そのさも楽しそうな様子が、酷く気味悪く感じた。 まるで話が通じない、人間以外のものと話しているかのようだ。 神や鬼なんかと言われるような、あの存在を話している時のような、噛み合わなさともどかしさ。 「お前、おかしい!変態だ!こんな、こんなの、おかしい!おかしい!なんで、なんで、なんで!」 今までの嫌みも文句も態度も、それには理由があったと、思えた。 でも、こんなの何もない。 ただ、俺を馬鹿にしているだけだ。 俺を、嬲って遊んでいるだけだ。 「………」 悔しさで感情が昂ぶって、涙が滲んでくる。 哀しみでも悔しさでも喜びでも、全てで涙が滲んでしまう、この体が大嫌いだ。 こんなことで、泣きたくなんてない。 「唾液も精液も、そう変わらないでしょ」 「………っ」 天のため息交じりの、声。 分からない。 こいつの考えてることが、何一つ分からない。 「なんで、こんなことするんだよ!お前、そんなに俺のこと、嫌いなのかよ!そんな、そんなにっ、俺のこと、憎いのかよ!」 こんな、兄弟で、男同士で、狂っているとしか思えない。 そこまでするほど、俺のことが憎いのだろうか。 俺の血を吐くような叫び声に、返されたのは天の呆れたようなため息。 「だから、嫌いではないよ。兄さんを嫌ったことなんて、これまで一切ない」 「それなら、なんで!これも、こんなのも、気まぐれだって、言うのかよ!」 顔を上げると、天はやっぱり静かに俺を見据えていた。 まるで観察するように、人形のように整った顔に、作り物めいた表情を浮かべている。 昨日の生々しい雄の表情が嘘のようだ。 あの時は、血の通った人間のように、見えたのに。 「気まぐれ、か。そういえばそう言ったね。そうだなあ、じゃあ今回のこれは、実験」 「………まともに、理由を話す気も、ないのか」 「話してるのに」 「どこまで、お前は俺を馬鹿にするんだよ!」 力がなくて、人の手を借りないと、生きてはいけないもの。 誰かに迷惑をかけないと、ただ生活することもままらないもの。 つまらない、ちっぽけな、くだらないもの。 だからと言って、感情がない訳じゃない。 迷惑をかけているからと言って、馬鹿にされることを受け入れられる訳じゃない。 「お前は、どこまで、俺を物扱いするんだよっ」 俺は、物じゃない。 俺は、感情のある、人間だ。 感情を無視されて、好きにされるなんて、嫌だ。 ただでさえ、自分の体さえ自由に出来ないのに。 それなのに意志すらも自由にできないのなら、俺は一体なんなんだ。 人に弄ばれてよしとする、人形になんてなんて、なれやしない。 「お前、最低だっ」 もう天の顔も見たくないし、言葉も聞きたくない。 どうせ俺を馬鹿にする表情と、追い詰める言葉しか持ち合わせていない。 もう嫌だ。 四天に、これ以上貶められるのは、嫌だ。 ベッドから飛び降りて、部屋から飛び出す。 そして俯いたまま廊下を駆け出したところで、何かにぶつかった。 「わっ」 「………とっ、三薙?」 「一兄っ」 ぶつかったものは、長兄の体だった。 ものすごい勢いで走っていた俺に驚いているようで、目を丸くしている。 一兄の顔を見た途端、安堵の気持ちが一気に膨れ上がる。 「う」 「どうした、三薙、なんで走って………」 その大きな手が、広い胸が、優しい声が、気遣う表情が、強張った心を溶き解していく。 怖いものから逃げて萎縮していた心が溶けて、涙が溢れていく。 「三薙?」 「一兄、いちにいっ」 「三薙」 泣きながらその胸にしがみつくと、一兄が困惑した声で、それでも背中を引き寄せてくれる。 小さい頃と同じように、優しく宥めるように、背中を撫でてくれる。 強く抱きしめられると、涙が止められなくなってしまう。 「兄さん、ドアぐらい閉めて、と、一矢兄さん」 後ろから聞こえてきた声に、思わずびくりと震えてしまう。 一兄がそれに気づいたのか、背中に回る手に力を込めてくれる。 「ちょうどよかった。一矢兄さん、兄さんをよろしくね」 「四天」 どこか咎めるように尖った一兄の声。 後ろにいる存在が怖くて、更に一兄にしがみつく。 一兄だったら、絶対に俺を、守ってくれるから。 傷つけたりなんか、しないから。 「また喧嘩でもしたのか?」 「そんなところ」 あれを喧嘩、というのか。 喧嘩にすらならなかった。 俺が一方的に天を詰って、天は嘲笑いながら受け流すだけ。 それこそ人形に話しかけているように、返ってくるものがなかった。 水に石を投げかけるような、無駄な時間だった。 「俺を最低だって言ったね、兄さん」 話しかけられて、また体が震えてしまう。 一兄に変に思われるかもしれないけれど、我慢出来なかった。 後ろを振り向かない俺に、天が笑い混じりに言う。 「そうだね、俺も最低だ」 謝罪もなく、ただそう言った。 |