ずるずると地べたを這いずり、赤い道筋を作りながらそいつは近づいてくる。
足も腕も引き千切れかけているのに、痛みも何も感じないように。
もう女性、というのも難しい、人間離れした異形の姿。

「縁、縁、縁、この化け物、縁を返して、縁、この化け物」

けれど声だけは相変わらず澄んでいて、ひたすらに同じ言葉を繰り返す。
志藤さんを化け物と呼びながら、志藤さんを返してと言う。
その矛盾に胸が締め付けられる。
顔も血で真っ赤に染まり、けれど目だけが爛々と光り、俺たちを見つめている。

「………っ」

志藤さんの手が、ぎゅっと俺の手を握る。
その手は冷たく、汗を掻いている。
そして、急にそいつが、片手の力を使い、飛び上がった。

「あっ」

力で振り払う暇もなかった。
そいつは志藤さんの首に掴みかかり、そのまま圧し掛かるように地面に押し倒す。
俺と志藤さんの手が、はずみで離れる。
どさりと、重い音を立てて、志藤さんとそいつが倒れ込む。

「くっ」
「縁、縁、縁、化け物化け物化け物」

引き千切れかけた腕で、けれどしっかりと両手で志藤さんの首を掴む。
真っ赤に染まった手が、喉に食い込んでいる。
苦しげに、志藤さんの顔が歪む。

「志藤さんを、放せ!」

勢いでたたらを踏んだ体を立て直し、急いでそいつをどかそうとする。
掴むとべちゃりとした感触とむせかえるような血の匂いがして、吐き気がこみ上げる。
血の匂いは、嫌いだ。

「志藤さんっ、くっ」

吐き気を堪えてどかそうとしたが、その手は女性とは思えない力で振り払われた。
俺はまるで紙か何かのように、あっさりと傍にあった住宅の塀に叩きつけられる。

「ぐ、はっ」

背中を強かに打ちつけ、衝撃に息が一瞬止まる。
目の前が一瞬真っ白に染まる。

「出てけ、出てけ、出てけ、この化け物!縁から出ていけ!」
「お、かあ、さん、ごめ、ん、なさ、おか」
「返してよぉ!縁を返してよ!」

泣き叫ぶような女性の声。
志藤さんが苦しそうに喘ぎながらも、謝罪の言葉を繰り返す。
もがくように自分の喉にかかる手を引っ掻くが、皮膚を削り肉を抉っても力が弱まる気配はない。
ただ悪戯に、赤い筋をその小さな薄い手に作るだけだ。

「かはっ、は、く、しとう、さんっ」

胸を抑えて、何度も深呼吸して呼吸を整え、精神を集中させる。
落ち着け落ち着け落ち着け。
青い青い海。
凪いだ、澄み渡った、青い空を映して輝く海。

「宮守の血において命ずる、闇よりいでし人ならずもの………」

なるべくすばやく呪を唱え、術を組み立てていく。
その間にも志藤さんの口からは呼吸が細くなり、顔色がどす黒く染まって行く。
早く、早く、焦るな、でも早く。

「闇より出でしもの、闇に返れ!」

術を組み立て、発動の呪を唱え、そいつに放つ。

パシ!

けれど、渇いた音を立てて、力が弾かれる。
そいつはビクともせずに、変わらず志藤さんに圧し掛かり、首を絞め続けている。

「きえ、ない。なんで」

力はちゃんと載せた。
呪もちゃんと組み立てた。
でも、消えない。
さっきは四天の力で、簡単に消え失せたのに。
なんでなんでなんで。
やっぱり俺は力不足なのか。
弟じゃなきゃ、駄目なのか。
いや、でもさっきは俺の力も効いていた。
でも。

「ごめ、ん、なさ、ごめんなさい、おかあさん」
「し、とう、さん!」

けれどそんなことは、今気にしている場合じゃない。
力が通用しないなら、物理的に引き離すだけだ。
志藤さんをこれ以上、苦しめたりしちゃいけない。

「どけ!どけよ、どけ!」

その腕にしがみついて、引き離そうとする。
けれど見た目は女性の華奢な腕なのに、その指は万力のように志藤さんの喉に食い込み、ビクともしない。
でも、諦める訳にはいかない。

「放せ!志藤さん、志藤さん!」

志藤さんの首に食い込む手を引っ掻いて、肉を爪で削ると皮膚が爪の間に入り込む。
血が更に溢れて来て、俺の手も赤く染める。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
けれど、放す訳にはいかない。

「放せ!」

肩から離れかけた左手を更に力を込めていっそ引き千切るように引っ張る。
ぶちぶちと音がする。
肉が千切れる感触と、音がする。
骨からずるりと肉が滑る感触がして、鳥肌が立つ。
溢れる血と、鉄の匂い。
こみ上げてくる胃液に、喉の奥が酸っぱい。

「っ、放せ、よ!」

志藤さんの喉に食い込む手から、少し力が抜けたように見えた。
ほっとすると同時に、いきなり手は俺の喉に向かった。
抵抗する間もなく、その指は喰いこんでくる。

「ぐっ」

そのまま俺も道路に引き倒され、頭を打ちつける。
また目の前に火花が散って、痛みに反射的に目を瞑る。

「あんたも、化け物の仲間なの?あんたが縁を食べちゃったの?あんたがいけないの?」

ぐいぐいと喉笛を圧迫されて、呼吸がどんどん苦しくなる。
溢れ返った唾液が飲み込むことが出来ずに、口から溢れる。

「………あ、くっ」
「消えろ消えろ消えろ消えろ」

腹の上に座られ、内臓が圧迫される。
胃の中のものが逆流するのに、喉が押さえられているから吐くことも出来ない。
ただ、苦しい。
酸素が行き渡らない脳みそが、靄がかっていく。
喉に食い込む手を離そうとしても、ただ悪戯に爪に挟まる皮膚が溜まって行くだけだ。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしね」
「ぐ、う、くっ」

苦しい苦しい苦しい。
助けて助けて助けて。
どうにかしないと。
誰か助けて。
力込めて逃げなきゃ。
天、助けて。
頼ってばかりじゃ駄目だ、逃げなきゃ。

「やめ、て、ください」

薄れかけていた意識のどこかで、声が聞こえた。
その瞬間、少しだけ喉にかかる力が弱まった気がした。

「くうっ」

それでもやっぱり手は離れることなく、俺の喉を絞め続ける。
このままだと窒息する前に、首が折られてしまいそうだ。

「やめて、ください!」

先ほどの声がもう一度、声が聞こえる。
震えていて小さい、けれどしっかりとした声が。

「やめてください、お母さん、やめてくださいっ」

血を吐くような、聞いているこっちが苦しくなるような悲痛な声。
また手から少しだけ力が抜けた、気がした。

「あなたが、憎いのは私でしょう!やめてください!」

また手に力が少しだけこもる。
ぐいっと喉笛を潰すように、親指がそこを抑えつける。

「ぐっぅ」

みっともない声が漏れて、唾液が溢れ、舌が伸びる。
苦しい苦しい苦しい。

「は、なせ!」

喉の圧迫が、緩められる。
少しだけ酸素が、肺の中に入ってくる。

「やめろ、三薙さんを放せ!どけ!」

腕が引きはがされて、呼吸が急に出来るようになった。
唾液と酸素と胃液と喉につまっていた吐瀉物が、器官に溢れる。

「かはっ、は、けほっ、がはっ、かは!」
「どけ!」

器官の異物を取り出そうと、体が咳き込み続ける。
けれどまだ上にあいつが乗っているせいで、肺が圧迫されていて苦しい。
うまく呼吸することが、出来ない。

「どけ!三薙さんを、放せ!」

ふっと、体が軽くなる。
今度こそ、重みも圧迫も、すべて無くなる。

「お前なんて、いらない!」

喉に入っているものを取り出したくて、うつ伏せになる。
そのまま唾液と胃液と胃からこみあげた吐瀉物を、地面に吐きだす。

「げほっ、けほ、かは!うげっ、げほっ」

何度も何度も咳き込んで吐きだす。
喉を抑えてうずくまりながら、なんとか顔を上げる。
涙で滲んだ視界に、ようやく周りの景色が戻ってくる。

「僕はお前なんていらない!いらない!消えろ」

志藤さんが、あいつに圧し掛かり、殴りつけている。
その拳は真っ赤に染まり、血が辺りに飛び散っている。
むせ返る、血の匂い。

「私には、あなたなんていらない!」

志藤さんの袖口から短刀が滑り落ち、真っ赤な手の中に収まる。
それを両手でしっかりと掴み、振りかぶる。

「………お母さん」

志藤さんの顔がくしゃりと、泣きそうに歪む。
唇をきゅっと、噛む。

「し、とうさん」

そんな顔をするなら、そんなことしなくていい。
それは、俺がすればいい。
人を傷つけることなんて、したくない。
けれど、志藤さんが傷つく姿は、見たくない。
志藤さんが傷つく姿を見るぐらいなら、自分の手を汚す方がいい。

「ま、って」

なんとから体を起こして、掠れた声で呼ぶ。
志藤さんはちらりとこちらを見て優しく微笑んだ。
それから自分の体の下にある存在に視線を戻す。

「あなたは、もう、いらないんです」

ゆっくりと、その手を振り下ろす。
最後に告げた言葉は、静かで、どこか優しくすら聞こえた。

「さようなら」

ぐしゃっと、何かがつぶれる音がした。





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