その瞬間、俺は反射的に目を瞑っていた。

一人だけずるいとは思いつつも、見ることが、出来なかった。
再び目を開けた時、そこには、ただ志藤さんが座り込んでいるだけだった。
もう、志藤さんの下にいたあいつは、いない。

「しとう、さん」

志藤さんが短剣を握りしめ、ただ座り込んでいた。
俺は痛む喉と軋む体をなんとか起こして、志藤さんの元へと急ぐ。
喉の奥にまだ吐瀉物が残っているようでいがらっぽく違和感があって、気持ちが悪い。
酸素が息届いてなかったせいか、手足が痺れて足元がふらつく。

「………志藤さん」

それでもなんとか近くに行き、名前を呼ぶ。
志藤さんはその声に、顔を上げる。

「………三薙さん」

そして、俺の顔を認めて、穏やかに笑った。
その手はもう、赤く染まっていない。
地面を染めていた血の痕も、全てなくなっていた。
あいつがいた痕跡なんて、もはや何もない。
まるでさっきまでのことは、幻だったかのようだ。
ただ、志藤さんが握りしめた短剣だけが、先ほどの光景の名残を残している。

「………志藤さん、その」
「三薙さん、大丈夫ですか?お怪我は」

志藤さんが危なげなく立ち上がり、微笑みながら俺の顔を覗き込む。
確かめるように、そっと俺の頬に触れて、眉を潜める。

「首に怪我が………」

そういえば、喉がひりひりとしていた。
あいつの痕跡は何もかもなくなったのに、何度も引っ掻いた爪の痛みや、喉の痛みだけは、そのままだ。
きっと、血も滲んでいるのだろう。

「大丈夫ですか。深くはないようですが、とりあえず止血しますね」
「………志藤さん」

何事もなかったかのように、自分の方が辛いだろうに、俺のことを心配する人に、胸がキリキリと締め付けられる。
なんて言ったらいいのか分からなくて、俺の首に伸ばされた腕を掴む。

「志藤さん………」
「大丈夫です。私は、平気です。ありがとうございます、三薙さん」

見上げると、志藤さんは困ったように笑う。
その笑顔が、痛々しく感じて、息が苦しくなる。

「志藤さんっ」

俺のせいで、お母さんに手をかけさせてしまった。
あれが本物じゃないのは確かだけれど、でも、その姿は確かに志藤さんのお母さんのものだった。
それなのに、あんなひどいことをさせてしまった。

「ごめんなさい!ごめんなさいごめんなさい!」
「なぜ謝るんですか」
「だって!」

志藤さんが苦笑しながら、首を傾げる。
笑わないでほしい、俺を気遣わないでほしい、俺に怒ってくれればいいのに。
俺が弱かったから、ドジだったから、頼りにならないから、志藤さんに苦しい思いをさせた。

「俺、俺がやれば、俺がやればよかったのに!ごめんなさいっ」
「三薙さん」

志藤さんにやらせなければ、よかった。
俺がやれば、まだ、辛い思いはしなかったのに。
また俺は、自分の手を汚さなかった。
一人だけ、綺麗な場所にいようとした。

「大丈夫です。私は、平気ですから」
「あ………」

あくまで穏やかに笑う志藤さんに、胸が熱くて、痛くて、涙が溢れてきた。
慌てて手で頬を拭うが、後から後から溢れてきて、止められない。
俺が泣く権利なんて、ないのに。
辛いのは、志藤さんなのに。
感情が昂ぶると緩んでしまう涙腺が、本当に嫌いだ。
俺が、辛い訳じゃないのだ。

「ごめ、ごめんなさい、なんで、こんな俺がっ、ごめんなさい」

目をぎゅっと瞑ってこらえようとしても、それでも涙は止まらない。
胸が痛い、熱い、息が苦しい。

「………すいません、失礼します」

そんな声が聞こえて、目を開ける。
それと同時に感じたのは、優しい温もり。
目の前にあるのは、志藤さんのコートの布。
背中に感じるのは、温かい手。

「しとう、さん」
「すいません、少しだけこうしていて、いいですか」

そうやって頼む人は、けれど泣く俺を宥めるためか、優しく背中を撫でてくれる。
これでは俺が慰められているようだ。
実際、そうなんだろうけど。
俺がこの人を、労わりたいのに。

「う………」

温もりを感じると、余計に涙が溢れてきてしまう。
この優しい人を、俺が傷つけたのだ。

「ごめん、なさい」
「謝らないでください」
「でも………、でもっ」

志藤さんの手に、少しだけ力がこもる。
胸に押し付けられるようにされて、俺の涙で志藤さんのコートが濡れる。

「本当に、気にしないでください」
「………」
「三薙さんを気遣っているとかじゃ、ないんです」

押し付けられた顔をなんとか上に向けて、志藤さんを見上げる。
睫の先までよく見えるほどの距離、志藤さんは俺をまっすぐに見ていた。
そして、少しだけ躊躇ってから、口を開く。

「………今はすっきりしているんです」
「………」
「私はずっと、母に囚われていたから」

静かに話す志藤さんの顔は、確かにどこか憑きものが落ちたように穏やかだった。
その声も穏やかで、安らいでいるように感じる。

「母を哀れだと思い、申し訳ないと思い、私がいなければよかったと何度も思いました」
「そんな!」
「でも、それと同時に、きっとずっと、恨み、憎んでいました。私を理解してくれなくて、全てを私のせいにして、現状の不満と憤りを全て私にぶつける、母を」

志藤さんが、家でどんな辛い思いをしたのか、分からない。
けれど先ほどまでの悲痛な謝罪の声が、耳にこびりついて離れない。
幼い志藤さんにもしも出会っていたなら、守って、君は悪くないって何度も言ってあげられたのに。

「でも、それは自分の、この力がいけないのだと思っていました。だから母への恨みは、押し殺してきました。ずっと見ないようにしてきました。母を愛しているのだと、可哀そうな人なのだとずっと思っていた」
「志藤さんは悪くないです!何も悪くないです!悪くなんかない!」

志藤さんは何も悪くないのだ。
俺は、力がなくて、力に焦がれた。
この力のせいで周りの人間に厭われながらも、力を欲した。
でもそれは、無条件に愛してくれる家族に、囲まれていたからだ。
理解のない人間しかいなかったなら、どれだけ苦しんだのだろう。

「………ありがとうございます」
「あ」

志藤さんが俺の濡れた頬を、そっとその冷たい手で拭う。
それから、目を瞑った。

「………」

密やかに息を吐いてから、目を開く。
眼鏡の奥の目は、ただ穏やかだった。

「私は、さっき、母に刃を向けた時、どこかで喜んでいました」
「………志藤さん」
「ずっと私を縛り、嬲り、追い詰めてきた母に手をかけることに、喜びを覚えてしまいました」

振りあげた刃。
優しく微笑む志藤さん。
振り下ろされた腕。

「あの時、分かりました。私は、母を、憎んでいました。きっとずっと憎んでいました」

それからまた目を閉じる。
どこか苦しそうに、眉を寄せる。
ああ、そんな顔をしないでほしい。
胸が締め付けられて、痛い。

「三薙さん」

志藤さんが、怯えを潜ませた目で俺を見る。
それから、小さな声で言った。

「………私を、軽蔑しますか」
「いいえ!」

答えは、すぐに出てきた。
考える暇もなかった。

「いいえ、いいえ、いいえ、あれは志藤さんのお母さんじゃないし、志藤さんは俺を守ってくれた。俺を助けようとしてくれた!それだけです!」
「………三薙さん」

俺の言葉に、志藤さんが、苦しそうな顔のまま、笑う。

「………ありがとうございます。けれど私は確かにあの時、喜んでいた。母の残滓をこの手で消すことが出来て、嬉しかったのです」
「でもっ」
「ありがとうございます、三薙さん」

自嘲して笑い、自分を責める志藤さんに、あなたは悪くないのだと伝えたい。
この人は、何も悪くないのだ。
そんな風に笑うことは、ないのだ。

「………すいません」
「志藤、さん?」

志藤さんの顔が近づいてきて、そっとその唇が額に寄せられる。
触れるか触れないかの距離で止められると、産毛がなぞられて熱を感じた。

「………あ」

それから志藤さんが、手を放し、一歩体を引く。
何がなんだか分からなくて、熱が残る自分の額を抑える。

「失礼いたしました」

志藤さんが深々と、腰から頭を下げる。
そして反応できないでいる俺の前で、ポケットから何かを取り出す。

「早く、ここから出ましょう」
「え」

その顔は冷静さを取り戻し、厳しくなっていた。
手に持っていたのは、天から貰った水晶だ。

「黒輝さんを呼ぼうと思うのですが、よろしいでしょうか」
「えっと」
「四天さんと早く合流して、ここから抜けだしましょう」

唐突な変化に、何を言われたのか分からなくて、反応することができない。
俺はただ今言われた言葉を頭の中で反芻するだけだ。

「早い方がいい」

志藤さんが、きゅっと唇を噛みしめる。
そして、もう一度、重ねて聞いてきた。

「ご許可をいただけますか」
「は、はい」

気押されるように、頷いていた。
本当なら黒輝は、志藤さんのために取っておこうと思っていた。
天は俺の居場所なら分かる。
だから、待っていればいいのだ。
けれど、志藤さんの自信に満ちた態度に、気が付いたら承諾してしまっていた。

「黒輝。名を持ち、形持つ、宮守の血に囚われし獣、その姿を」

許可をするとすぐに志藤さんが水晶を一つ地面に置き、呪を唱え始める。
そして、解除の呪を唱えるとともに、地に伏せた黒い獣が姿を現す。

「………黒輝」

そして黒い毛並みを持つ狼は、その姿をすぐに変化させた。
長い手足を持つ黒衣の男性に、またたく間に姿を変えすっと立ち上がる。
その長身は、志藤さんよりも高くて、首を伸ばして見上げる方だ。
クセのある悪役俳優のような、けれど人の目を惹きつける美しい青年。

「え、と、なんで人型?」
「元の姿では言葉が交わせないだろう」
「あ、なるほど」

黒輝は俺を冷たい目で見下ろしながら、
確かに、天ほど黒輝と意志疎通が出来る訳ではない。
こういうところ、黒輝は本当に気が利くと思う。
白峰だったらこんな気遣いはしないだろう。

「あ、えっと、俺たち」
「四天はすぐそこまで来ている。この姿は消費が激しい。急ぐぞ」
「う、うん!」

説明をするまでもなく、黒輝はすたすたと歩きはじめる。
気が利くとは言っても、天以外の人間には気を許している訳ではない。
基本的に人間にはぞんざいな態度だ。
俺と志藤さんは、一瞬顔を見合わせる。
一つ頷いてから、その自信に満ちた後ろ姿に付いていく。

「………」

黒輝はどこへ行けばいいのか分かっているように、歩いていく。
俺と志藤さんは、離れないように手を繋ぎながらその後ろをついていく。

「なあ、黒輝、この世界って、なんなのかな」

天も白峰も分からなかったのだから、黒輝が分かるはずもないだろう。
でも、もしかしたらと思って、聞いてみる。
知るか、とか言われるかと思ったが、黒輝は返事をしてくれた。

「歪みを感じる」
「歪み?」
「多分、術者も予測しえない出来事だったのだろう。二つの意志で、この世界は成り立っている」
「ふたつ?」

二つの意志で、歪んでいる。
意味が分からなくて首を傾げるが、黒輝はすげない態度だ。

「それ以上は儂には分からない。興味もない」
「どういうこと、二つって、二つの意志って、二人って、こと?」
「………」

もう、黒輝は答えてくれなかった。
さっき答えてくれたのは、どうやら気まぐれだったようだ。
でも気になって、もう一度問いかける。

「なあ、黒輝」
「………」

けれどやっぱり答えてはくれない。
その時、隣にいる志藤さんが控え目に手をひいた。

「三薙さん、原因を探るのは、後にしましょう」
「………はい、そうですね」

渋々頷いて、また歩きだす。
早く、この世界から、抜けだしたい。
赤い赤い世界は、まるで血の海の中にいるようで気分が悪い。
早く天に会って、志藤さんと三人で、この世界から出たい。

「………遅かったか」
「志藤さん?」

志藤さんの足が止まり、俺もつられて足を止める。
志藤さんは黒輝の前、ずっと前方を見ている。
黒輝も、いつのまにか立ち止っている。

「黒輝?」

黒輝も前方をじっと、見ていた。
また、何かが現れたのかと全身に緊張が走る。
黒輝の背中に隠れた何ものかを見ようと、身をひねる。

「お兄ちゃん、待ってたよ」

高く澄んだ声が、響く。
喜びを含んだ、無邪気な声。

「お兄ちゃん、ほら、こっちにおいでよ」

道の向こうには、先ほど会った小さな少年の姿があった。
袴姿で、にこにこと愛らしく笑っている。

「………天」

赤い世界の中、その笑顔が逆に恐ろしく感じた。





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