「しっ」 志藤さんが小さく呼気を吐いて、構えた短刀で力を放った。 呪を唱えずに術の形はしていなかったが、それでも鋭く強い力の放出。 それは真っ直ぐに天に向かっていた。 「し、志藤さん!?」 幼い天は小さな手を軽く払って、その力をはじいた。 ばしりと、音のない空間に何かが破裂するような衝撃が響く。 相変わらず無邪気に、四天がけれど顔を歪めて笑う。 「危ないなあ、お兄さん、何?」 「失礼します、四天さん」 志藤さんは小さく言うと同時にすでに走り出していた。 黒輝の横を通って天に向かって刃を振りかざす。 無駄のない小さく静かな動きで、天の首を薙ぎ払う。 「あはは、お兄さん、僕と遊ぶの?いいよ、遊ぼう?」 小さな弟は、楽しそうに声を上げて笑いながら、ひらりと身を翻した。 いつのまにかその手には、小さな体には不釣り合いな短刀が握られている。 再度、今度は顔を狙った志藤さんの短剣を、その短刀で受け止め、流す。 キィンと、金属同士が触れ合う音が、響く。 「ほらほら、早く僕を殺さなきゃ。三薙お兄ちゃんが怪我をするよ?」 右手で志藤さんの剣をあしらいながら、左手をひらりと閃かす。 するとアスファルトの上に黒く落ちていた天の影が、不自然に伸びていき、こちらに向かってくる。 その影がどういう働きをするのかは分からない。 けれど明らかに悪意を持ったものだということは分かった。 慌てて自分の鈷を構えて、その影が自分に届く前に振り払おうとする。 けれど、影が俺の足元に来る前に、前に黒い長身が立ちはだかった。 「黒輝!」 天の影がアスファルトから離れ、立体となり、こちらに襲いかかってこようとする。 黒輝が手をはらい、その影を断ち切る。 「油断するな」 「わ、分かった」 断ち切られた影は元に戻ることなく、小さな影となり、小さなままこちらに向かって来ようとする。 俺は鈷に力を込めて、小さな影を振り払う。 じゅっと音と立てて、まるで蒸発するように影が消える。 黒輝はその間にも、天の影の大本を何度何度も断ち切ろうとする。 その度に小さな影が生まれ、振り払われ、消え、そしてまた生まれる。 「あはっ、黒輝も強い強い。お兄さんも強いね」 天が余裕に満ちた態度で志藤さんを相手取りながら、もう一度左手を閃かす。 すると黒輝が相手にしていた天の影が二つに裂けて、勢いよくこちらに向かってくる。 「う、わ!」 焦りながらもなんとかその影を何度も薙ぎ払うが、何しろ影だ。 次から次へと生まれ、増えることはあっても減ることはない。 「ほらほら、三薙お兄ちゃん、頑張って」 「く、そ」 その影に触れたらどうなるかなんて分からない。 けれど触れたらまずいということだけは、伝わってくる。 一歩下がって、距離を取ろうとすると、影がいきなりスピードを増した。 「逃げちゃ駄目だよ」 「痛っ」 足首にその影が触れると、じわりと焼けつくような痛みを感じた。 ぐるりと俺の足首に巻きついて、そのまま引っ張られる。 「あ!」 片足を取られ、バランスを崩して倒れ込みそうになる。 足首の痛みも酷いが、ここで倒れたら駄目だ。 力を込めた鈷を振り払い、なんとか足に巻き付いた影を断ち切り、踏みとどまる。 けれど、その隙にまた影は大きく伸びあがり、今度は俺の首を狙っていた。 「く、そ!」 目をつぶりそうになるのをこらえて、首を庇うために腕を前に出す。 首をやられるよりは、腕をもっていかれたほうがいい。 じゅっ。 何かが蒸発するような音。 痛みに備えて全身に力が入っていて、その音に驚きびくりと震えてしまった。 けれど予想していた痛みは、こない。 すぐ傍まで近づいていた影が、目の前で蒸発した。 「大丈夫ですか、三薙さん!?」 天の元から走り寄ってきた、志藤さんが短剣を地面に突き立てて、影を断ち切っていた。 呼吸が苦しそうで、肩で息をしている。 急いでここまで走ってきてくれたのだろう。 「す、すいません」 「いえ、お怪我はありませんか」 「大丈夫です。ありがとうございます」 僅かにもらった時間を無駄にしないように俺も体制を立て直して、呼吸を整える。 志藤さんが俺を庇うように、前に立つ。 黒輝もいつの間にか、すぐ傍まで来ていた。 天の影は、するするとひいて、本体のいる場所へと戻っていく。 小さな幼い少年は、くすくすと楽しそうに笑っている。 「三薙お兄ちゃんは弱いなあ。でもね、いいんだよ、お兄ちゃんは強くなる必要なんてないんだから」 無邪気に笑う少年は、天使のように愛らしいのに、感じるのは違和感しかない。 そしてその言葉に感じるのは、痛みと嫉妬。 「………天」 天が、よく言う言葉。 俺は仕事なんてする必要がない。 俺は強くなる必要なんてない。 自分の分を弁えて生活すればいいのに。 「耳を貸さないでください」 「え」 志藤さんが、静かな声で、天を見据えたまま言う。 全身に力を保ち、隙を見せる様子はない。 「先ほどの母で、感じました。あれは恐らく、私達の恐れの形なのだと思います」 「………恐れ?」 「ええ、先ほどの母は、私の中の恐怖、です」 天は、にこにこと笑っている。 けれどやっぱりその印象は、いうなれば邪悪、だろうか。 昔の弟はあんな笑い方をしていただろうか。 優しくて可愛くて愛しかった、小さな天。 「私が母を恐れれば恐れるほど、母の力は増した」 志藤さんのお母さんの姿をしたあれは、最初よりも次に会った時の方が力を増していた。 そういえば、志藤さんが怯えれば怯えるほどに、力を増していただろうか。 志藤さんが相変わらず天から目を離さないまま、ぎゅっと短剣を握り直す。 「三薙さんを傷つける母を、排除したいと思い、恐れに怒りが上回った時、母の力が、弱まりました」 力を放っても、傷つけることが出来なかった志藤さんのお母さん。 けれど、志藤さんはその後、その手であれを、消滅させた。 「恐らくはあの四天さんも、三薙さんの恐れの形なのだと思います」 ちらりと一瞬だけ、志藤さんがこちらに視線を送る。 志藤さんの言葉を咀嚼していると、志藤さんの隣にいた黒輝も口を開く。 「そいつの言うとおりだ。あの四天はお前の中で形作られている四天だ。あの四天の強さは、お前の中の四天への恐れ、強さの認識そのものだ」 黒輝も前にいる天から、目を逸らさない。 自然体で立っているものの、触れたら切れそうなほどの殺気を放っている。 「お前が四天を恐れ、その強さを信じれば信じるほど、力を増す。四天を弱いと思えば、あいつは弱体化する」 それは、どこかで聞いた言葉だ。 俺が天を信じているからこそ、天は強くなる。 ああ、そうだ。 そう言ったのは、双姉だったっけ。 「前の、夢の、中のみたいなものなのか」 でも、そうは言っても、どうしたらいいか分からない。 あの四天は弱いと思いこめばいいのだろうか。 夢の中でもそうだったが、無意識のことをどう変えたらいいのか分からない。 俺は天を信じてなんか、いないのだから。 「あっはははは、ほらおいでよ。遊ぼうよ。三薙お兄ちゃんも遊ぼう!よく一緒に遊んだでしょう?」 天が無邪気に笑うと、再度影がこちらに伸びてきた。 三人でそれぞれに構えて、襲い来る影を薙ぎ払う。 けれどやっぱり、影は次から次へと蘇り、消えることはない。 何度も何度もそれを繰り返した後、一人息を乱すこともしない黒輝が静かに言った。 「キリがないな。しばし堪えろ」 「黒輝!?」 「待ってろ」 黒輝がすっと姿を変えて、黒い毛並みを持つ狼に戻る。 そしてそのまま影を身軽に避けながら、道の先に佇む天へと向かっていく。 「駄目だよ黒輝、遊んでる最中でしょ」 天が手にした短刀を振りかぶり、素早く走り黒輝を狙う。 けれど黒い狼は地面を蹴り飛び上がりその刃を避け、住宅の塀に足を付き、もう一度跳ね、天を横をすり抜ける。 そのまま天の後ろへと降りると、振り返ることなく走り去っていく。 「あーあ、黒輝行っちゃった」 その姿を見送って、天は大して悔しくもなさそうに、肩をすくめる。 それから俺たちの方に振り返って、にっこりと笑う。 「まあいっか。お兄さんと、三薙お兄ちゃんがいるもんね」 力を使い、剣を振って、志藤さんも俺も息が上がっている。 あれが俺の恐れの形だとするのなら、俺がどうにかしなければいけないのだろう。 さっきの志藤さんのように、立ち向かえばいいのだろうか。 「三薙さん、なるべくあいつの言葉に耳を傾けないで。心を強く持ってください」 「そんな、こと言われても」 「あなたの中の四天さんへの恐れが、あの四天さんになっている」 そう言われても、どうしたらいいのか分からないのだ。 確かにあの天は不気味だ。 恐ろしい。 でも。 「今はともかく、小さい頃は、四天のことを怖いなんて思ったこと、ない」 あの天の姿は、おそらく小学校に上がるか上がらないかの頃だっただろう。 天が小学校に上がってしばらくした頃には、俺たちはすでにぎくしゃくしていた。 あの姿は、まだ俺たちが仲良かった頃の、はずだ。 だから、どうしてあの姿をしているのか、分からない。 今の姿なら、まだ分かる。 俺の中の恐れだというのなら、なぜあの小さな天なのか。 それが分からないのに、どうしたら、俺の中の恐れを、消すことが出来るのか。 「本当?」 「え」 力を振いながら考え込んでいた俺の耳に、可愛らしい声が響く。 影の攻撃が一旦止み、するするとまたひいていく。 道の向こうの天が、唇を持ち上げる。 綺麗な形をした唇が、夕暮れの街の中、嫌に赤く感じた。 「僕を、怖いと思ったことがない?」 愛らしく首を傾げる。 天が俺にその小さな手を差し伸べる。 誘うように。 「お兄ちゃん、こっちだよ。行こう?」 怖いなんて、思ったことはない。 小さな頃の天は、かわいい弟だった。 愛おしかった。 今でもよく覚えている。 つないだ温かい手、後ろを付いてくる小さな足音。 「三薙お兄ちゃんにも見せてあげる」 それなのに、今感じた、この悪寒はなんだ。 知らない。 こんなの知らない。 俺は、小さい天を怖いと思ったことなんて、ない。 「ほら、こっちだよ」 「あ………」 ざわざわと、背筋に寒気が走る。 全身に鳥肌が立っている。 「な、んで………」 「三薙さん、大丈夫ですか?」 天が怖いと思った記憶はない。 今の天は怖いと思ったことはある。 でもあの頃はない。 「ちが、う」 それなのに体が勝手に震え、足から力が抜けていく。 その場に崩れ落ちそうになるほどの、寒気。 「こっちだよ」 「いや、だ」 これは、恐怖なのか。 恐れ。 天への、恐れ。 「三薙お兄ちゃんは、僕を怖がってる。ずっと怖がってる」 ざざっと、脳内にノイズが走る。 テレビの砂嵐のような耳障りな音が脳内に響く。 「三薙お兄ちゃんは、だって………」 天が笑う。 ノイズがうるさい。 頭が割れそうに痛い。 「嫌だっ!」 ノイズがうるさい。 何も聞こえない。 天の言葉を聞くことを、全身が拒否している。 |