耳を塞いで、目を瞑って、天の言葉から逃げようとする。
けれど、震える手は中々上がらず、耳を塞ぐことすらままならない。

なんで、こんなに怖い。
なんで、こんなに怯えている。
分からない分からない分からない。

頭の中に鳴り響くノイズの音が、煩い。
頭が割れそうだ。

「お兄ちゃんは………」

分からないのに、ただ怖い。
足の力が抜けその場にしゃがみこんで、なんとか耳を塞ぐ。
けれど、天の声はなぜか耳に入ってくる。

「三薙お兄ちゃんは………」

怖いものから、痛いものから逃げるように身を竦め、怯え縮こまる。
なんてみっともない、情けない姿。
見えない化け物から隠れて押し入れにこもる子供のようだ。
どうにかしたいのに、震える体は、自分ではどうすることもできない。

「………」

聞きたくない言葉は、俺を弄ぶように中々先が続かない。
その沈黙が余計に怖くて、顔を上げることができない。
天の言葉を待つだけの時間は、気が遠くなるほど長く感じた。
けれど聞こえてきたのは、小さなため息。

「あーあ、駄目か」

幼く澄んだ声が、落胆した声で、そう言った。
ゲームが最後の最後で失敗してクリアできなかったかのような、そんな微笑ましいとすら思えるようながっかりとした声だった。

「し、てん?」

顔を恐る恐るあげると、3メートルほど先にいる天が子供らしくない仕草で肩をすくめた。
そしてもう一度ため息をつく。

「やっぱり、これ以上は言えないみたい」
「………え」
「残念。後少しだったんだけどね」

言えない、というのはどういうことなのだ。
言う気がないのではなく、言えない、のか。
それともこれも何かの意図があるのだろうか。
言わないことすらも俺を惑わし苦しませるためなのだろうか。

「どういう、ことだ」
「どういうことって、そのままだよ。これ以上は、僕には言えない」

だからなぜ言えないのか、と聞こうとして口を開く。
その前に、天が愛らしくにっこりと笑った。

「まあ、いいや。力も十分蓄えられたしね」
「え」

言うと同時に、天の影が大きく広がり、辺りを覆った。
夕暮れに染まっていた赤い街が、闇に覆われる。
そしてその影は、口を広げた肉食獣のように立ち上がり、俺に襲いかかる。

「う、わ!」

逃げようにも、みっともなく座り込んでいた俺は立ち上がるのも出遅れた。
それに影の範囲が広すぎて、どこに逃げればいいのかも分からない。

「三薙さん!」

駆け寄ってこようとした志藤さんの、焦った声が聞こえる。
けれどその間にも、天の影は俺の四肢を縛り、地面に縫い付けた。
熱なんて持っていないはずなのに、じゅっと音を立て、制服が焦げ、皮膚が焼け、痛みが走る。

「う、ああ!」
「三薙さん!」
「お兄さんも、静かにしていてね」

志藤さんが俺の元へと辿りつく前に、天の影が更に割れて、今度は志藤さんに向かう。
みっともなく捕まった俺とは違い、志藤さんは手にした短剣でその影を振り払った。

「………っ」

襲いかかろうとする影をあるいは剣で切り落とし、あるいは力で振り払い、なんとか捌く。
けれど後から後から沸いて出る影は、志藤さんをそれ以上先に進ませることを許さない。

「く、そ………」

志藤さんが俺を見て、苦しそうに眉を潜める。
なんて情けないんだろう。
早く抜けださなきゃ。
早く、志藤さんの力にならなきゃ。
志藤さんを守るって、決めたんだから。
しかし、影は手足だけではなく全身に絡みつき絞め上げる。
骨が軋み、内臓が圧迫され、目の前が真っ赤になる。

「ぐ、あ、ああ、あ」

天がすたすたと影の中を歩いてくる。
真っ暗な世界の中、ただ天の周りだけが白い。
そして無邪気に笑いながら俺の顔を覗き込む。
わくわくとした、カブトムシでも見つけたような子供の表情。

「苦しい?痛い?」
「くぅ」

影が喉に巻き付き、気道を閉め上げる。
呼吸が塞がれ、顔が膨れ上がって眼球が飛び出そうになり、唾液が口の中に溢れる。
ギシギシと、体中が軋む音がする。
痛い、苦しい、痛い。

「みなぎ、さん!」
「あ、あ、あ………っ」

涙が溢れて、視界がぼやける。
くすくすと、天の可愛らしい笑い声が聞こえる。

「痛そうだね。三薙お兄ちゃんは痛そうな顔、よく似合う」
「ぐぅ、くっ」

意識が遠ざかって行きそうだ。
でも、駄目だ。
こんなの、駄目だ。
志藤さんが心配している。
俺を助けようとしてくれている。
だったら、俺もそれに応えなきゃいけない。
抗え。
負けるな。

影が触れているところになんとか意識を集中させる。
先ほど志藤さんのお母さんの姿をしたあれは、力を跳ね返した。
だったら攻撃しても効かないかもしれない。
それなら、飲みこんでみる。

「………っ」

呪は唱えられない、痛みで集中できない。
けれど、力を飲みこむことには、大分慣れた。
あの痛みには、慣れることはできないけれど。
けれど、逃げなければ、いけない。
力を発動させ、影を力へと変換させ、自分の中へ飲み込む。

「っ、かは、はあ」

体に巻きついていた天の影の大部分を飲みこんで、喉が解放される。
早く逃げなきゃと思うのに、痛みと苦しさに、すぐに反応することが出来ない。
自分の中に取り込んだ力も、中々飲み込むことが出来ずに、暴れまわっている。

「あ、すごいすごい。随分飲みこんだね。でも無駄だよ。さっきお兄さんも黒輝も言ってたけど、僕はお兄ちゃんの怖いもの、なんだもの」
「………て、ん、………っ」

また影が俺の喉に絡みつき、地面に押さえつける。
駄目だ、逃げなきゃ。
早く。
けれど、力も大分減ってきた。
腹の中の、天の力が、痛い。

「三薙お兄ちゃんが、僕を怖くないって思わなければ、僕の力は消えないんだよ」

天が地面に縫い付けられたままの俺の顔を覗き込んで嗤う。
怖いなんて、思ってない。
思ったことなんてない。
そのはずなのに。
どうして。

「なんでって、聞きたい?そうだよね?」

聞きたい。
どうして、俺はお前が怖いのか。
俺は、何も覚えてない。

『俺が兄さんに酷いことを言って、酷いことした。兄さんはそのことは忘れてしまったけれど、それ以来俺の事を避けるようになった』

そういえば、前に、天が言っていたっけ。
俺が悪いのではなく、天に原因があるのだと。

「なんで、僕が怖いのか、知りたいよね」

そのせいなのか。
何があったんだ。
昔、天は俺に、何をしたんだ。

「でもね、僕も教えてあげられないんだ。ごめんね。教えたいんだけどね」

喉に絡みつく天の影の力が、また増して行く。
駄目だ。
今度は絞め上げられる前に、飲みこまなきゃ。

「答えは、三薙お兄ちゃんが知ってるんだけどね」

でも苦しい。
痛い。
痛い痛い痛い。

「でもね、大丈夫だよ。何があっても大丈夫。三薙お兄ちゃんは僕が、っと」

その時、急に体に巻き付いた影が霧散した。
再度、体が解放される。

「お兄さん、すごいね。結構強いんだ」
「三薙さんを傷つけることは、許しません」

志藤さんがいつのまにか天の影を切り裂いて、俺の傍らまで来ていた。
俺に絡みつく影を、その力で消滅させる。
肩で息をして、顔を顰め、大分辛そうだ。
けれどそれでも、俺を庇うように前に立ちふさがる。

「ひどい、僕も宗家の人間なのに」
「あなたはただの偽物だ」

天の影は、志藤さんを飲みこもうと、その手を広げる。
志藤さんは短剣でその影をなんとかしのぐが、やはり多勢に無勢だ。

「あはは、強いね。でもまだまだ」
「く」

苦しそうな顔をして汗で額を濡らす志藤さんと打って変わって、天は余裕の表情で志藤さんをその影で襲う。
俺は痛む体でなんとか立ち上がり、呼吸を整える。
まだ頭は痛くて、全身が火傷したように痛み、圧迫された内臓が吐き気を訴え、骨が軋みうまく動かすことができない。

「三薙さん、これはあなたなんです。あなたの、恐れです」
「しどう、さん」
「あなたは、強いです。あなた弱くなんてないっ」

志藤さんの短剣が、弾かれる。
その影が、志藤さんの腕に絡みつき、折ろうとするように閉め上げる。

「………っ」
「志藤さん!」

志藤さんは苦しげに顔を顰めるが、声を上げたりはしない。
どうしたらいいかなんて、分からない。
でも、何かしなきゃいけない。

「怖くない怖くない怖くない怖くない」

怖くなんてない。
四天なんて、怖くない。

「俺は弱くなんて、ない」

だって、志藤さんが強いって言ってくれた。
前に岡野も言ってくれた。
俺は強い。
弱くない。
だから、怖くなんてない。

「四天なんて、怖くないっ」

地面に滑り落ちていた短剣を拾い上げ、影を切り裂く。
体中が痛んで、なかなかうまく動かすことは出来ない。
それでも、志藤さんに絡みつく影から解放する。
志藤さんが、痛みに一旦地面に膝をつく。

「ほらほらそんなんじゃ駄目だよ。早く、鬼さんこちら」
「くそ、早く、消えろ!」
「ひどいなあ」

天にも刃を向けようとするが、影は後から後から俺たちに襲いかかってきて、近づくことすらできない。
天は相変わらず楽しそうに笑って、俺たちを嬲っている。
こんなの、怖くない。
何も怖くない。
怖いなら、今の天の方がずっと怖い。

「あはは、早く僕を消しなよ。そうしたら、怖いもの、無くなるよ?」

朗らかな笑い声に、頭痛がする。
天なんて、怖くない。
怖くない、はずなのに。

「だったら、さっさと消えてくれる?」

その時、静かな声が、暗闇の空間に響いた。
ざくっと、果物を切るような音がする。

「あ」

小さな天の首が、何かの玩具のように跳ねあがり、宙を飛ぶ。
そして、ボールのように地面に落ち、一旦小さく跳ね上がってごろりと転がる。
俺と志藤さんを包み込んでいた天の影が、急速失われ、小さくなっていく。
朱色の世界が、浮かびあがってくる。

「本当に、黒歴史って最悪」
「て、ん」

うんざりとしたような声の元を辿ると、首をなくした小さな天の体の後ろには、その10年後の姿があった。
ぽたぽたと血が滴る懐剣を手にして、その白い頬を赤く染めている。

「またボロボロになってるし。汚い」

そして俺の顔を見て、その綺麗な形の眉を潜めた。





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