明りがかすかに漏れている長兄の部屋の扉を軽くノックする。 「一兄、いい?」 「三薙か?入っていいぞ」 快く許可されることは分かってたが、もう夜中ということもあったから嫌そうな声でないことにほっとする。 一兄の部屋はいつも上品なお香の匂いが漂っている。 安心して眠くなる懐かしい匂い。 部屋の主は寝巻用の浴衣に着替えて、いつも整えている髪も無造作に下ろされている。 けれど、文机の前でなにやら書類を見ていた。 「夜遅くにごめんね。仕事してた?」 「いや、もう寝るところだ。どうした?」 一兄は書類をまとめて文机の脇に避ける。 そして穏やかな顔で俺を振り返った。 毎日忙しいだろうに疲れた様子なんかは見せることがない。 「その、問題なければ供給してほしいな、って」 それでも、疲れているだろう一兄に頼むのは申し訳なくて恐る恐ると告げる。 「あの、双兄に頼もうと思ったんだけど、今日駄目だったからさ、その、えっと疲れてなければでいいんだけど」 なんだか言い訳がましくなって、しどろもどろに話していると一兄が立ちあがった。 そして俺の前までやってきて、大きな手でぽんぽんと頭を優しく撫でてくれる。 「いつでもいいと言っているだろう。大丈夫だ」 そう言ってくれるとは思ったものの、やっぱり悪い気がする。 一兄が迷惑だなんて言うはずはないと分かってはいるのだが。 「疲れてない?」 「まあ、仕事疲れはしてるが力の方は平気だ。心配するな。そんなヤワな鍛え方はしていない」 「はは、父さんと同じこと言ってる」 さっき言われたことを、そのまま本人にも言われたでつい笑ってしまった。 一兄が不思議そうに首を傾げる。 「父さん?」 「うん、一兄にさっさと供給してもらえって。一兄はそんなので負担になるような鍛え方はしてないってさ」 「そうか。まあ、管理者としての仕事の後とかはさすがに辛いかもしれないが、それ以外だったらいつでも平気だ。遠慮なんてするな」 頼れる長兄は、目を細めて優しく笑う。 その笑顔に、ようやく素直に頷くことが出来る。 「ありがと」 一兄はもう一度ぽんぽんと頭を撫でてくれる。 それから今日はここで眠っていくといいと言って、布団をもう一組敷いてくれる。 客用の布団に一緒にシーツをかぶせていると、なんだかワクワクしてくる。 小さい頃はよくこんな風に一兄の隣に布団を敷いて、寝つくまでずっとおしゃべりをしていた。 「父さんに会ったのか」 「うん。さっき廊下でばったり」 「なんかいいことがあったのか」 「え」 なんのことか分からなくて、一兄の顔を見上げる。 一兄は悪戯ぽく片眉をあげる。 「すごく嬉しそうな顔をしてたからな」 そんな分かりやすく喜んでいたのか。 感情だだもれの自分が恥ずかしい。 もう少しポーカーフェイスを身につけた方がいいのかもしれない。 「父さんがね、このままでいいから、頑張れって」 いつも中々褒めてくれたりしない父の言葉。 前にも同じようなことを言われたが、あの時よりずっと嬉しいのは俺の心境が変わったからだろうか。 少しは、自分に自信を持つことができるように、なったのだろうか。 「そうか。俺もそう思う」 一兄が枕を置いてさらりとなんでもないように言う。 その特に気負うこともない何気ない言い方に、胸がぎゅーっと熱くなった。 俺は頑張れているだろうか。 少しは強くなっているだろうか。 「ありがと、一兄」 「なんで礼なんだ」 「………でも、ありがと」 一兄が変な奴だといいたげにおかしそうに笑う。 それでも、その言葉が、嬉しかったのだ。 一兄は本当に、どこまでも俺を喜ばせてくれる。 「それにしても、双馬はまたいないのか」 「あ、部屋にいるよ」 「それなら、どうしたんだ?」 「えっと、酔い潰れちゃってさ。あ、怒らないでね。最近双兄なんか悩んでるみたいだったし」 父さんの時は誤魔化したが、一兄には誤魔化せる気がしない。 つい正直に吐いてしまった。 でも、それによって双兄が怒られるのは嬉しいことではない。 「双兄、大丈夫かな。なんか、本当に元気ないよね」 さっきまで一緒だった次兄は、酔っていたことを別としても様子がおかしかった。 いつも明るく自信に満ちた姿しか知らないから、酷く心配になる。 俺にはきっと何もできないことなのだろうけど、何かできないだろうか。 双兄に元気がなくて静かだと、調子が出ない。 「お前は優しいな」 俯いて考え込んでしまうと、そんな声が響いた。 なんか、さっきも聞いた言葉だ。 「………別に俺、優しかったりいい子だったりする訳じゃないんだけど」 聞きわけよくないし、意地っ張りだし、馬鹿だからすぐ暴走するし。 これくらい心配するのは、普通だろうし。 そんな風に言われるのは、すごく居心地が悪い。 一兄はただ笑って、一つだけ頷いた。 「じゃあ、供給して寝るか」 「あ、うん。あのさ」 「どうした」 供給したら俺は眠ってしまうだろう。 せっかく一兄といれる機会なのだ。 今のうちに聞いてしまいたかったことを聞いてしまおう。 「あのさ、この前の侵入者がいた時、あっただろ?」 「ああ」 一兄が俺の言葉に顔を引き締める。 聞いていいことなのか分からなくて、少しだけ怯む。 けれど、聞きたい。 「………ああいうのって、たまにあるの?」 「どうかしたか?」 「たまにあるらしいのに、俺、全然知らなかったから」 俺は、何も知らなった。 そんなことがあるなんて、気付きもしなかった。 一兄が眉を潜める。 「双馬か四天にでも聞いたのか?」 「………うん」 「四天か」 それには頷くことはしなかった。 何でもないことのように天は言っていたから別に悪いことではないのだろうけど、なんだか告げ口したようで居心地が悪くなる。 一兄はふっと息を吐きだした。 怒っているのかとびくりとしてしまう。 「黙っていて悪かったな」 けれど一兄は表情を和らげてそう言ってくれた。 そしてそっと俺の頬に触れて顔を持ち上げて、じっと目を見つめる。 「お前は闇に付け込まれやすい。下手に知ることでお前に危険が及ぶことを避けたかったんだ」 「………」 知る、ということは確かにそれ自体危険に近づくことだ。 何も知らず意識を向けなければ、あちらもスルーしてくれることが多い。 下手に気付いてしまうと、気付かない時より事態が悪化することもある。 それは、分かる。 分かるけれど、もやもやとした気持ちが消えない。 「悪かった。そろそろお前も身が守れるようになってきたし、今後は家の事情も徐々に教えていく」 「………本当?」 「ああ」 俺は今まで仕事のことや家の事情のことをほとんど教えられてこなかった。 それもまた、みそっかすだということを思い知らされて、疎外感をずっと味わっていた。 俺は家の人間ではないのだと感じられて、寂しかった。 知ったところでどうすることもできないのだけれど。 「………ありがとう」 でも、これからは教えてもらえるのだろうか。 それなら、嬉しい。 「ああいうのって、誰が、うちの中を探ろうとしてるの?」 「親戚筋か、神祇省か、最近うちに出入りしているのはその辺だな。他家の人間は内部に入るのも容易ではないからな」 さっそく聞いてみると、一兄は本当に答えてくれた。 今までそういうことも、教えてくれることはなかった。 「………どうして、うちを探ろうとするの」 「宮守はこの辺では特に強い力を持つ。管理者としても権力者としてもな。内情を知りたい人間がそれなりにいるようだ」 「………」 確かに、宮守の家はでかく、強いらしい。 管理者同士、仲がいいところばかりではない。 より強い権力を持とうと足をひっぱりあったりすることもあるらしい。 神祇省もあまり強い力を持ちすぎる家を好まない。 そういったことがあるのは知っていたが、うちもそういうのに巻き込まれていたのか。 「そんな顔をするな。大丈夫だ。家の中にいたら危害を加えられることはない。外ではおおっぴらに行動する奴らもいないだろうしな。うちに手を出したらただでは済まないことぐらい、分かっている」 「………」 「それに、お前は俺が守る」 一兄の大きくて堅い親指が、安心させるように俺の頬を擦る。 その言葉は、嬉しい。 「………そういうんじゃ、なくて」 とても嬉しい。 でも。 「俺も、一兄達を、守りたい。一人何も知らないで守られるのは、嫌だ」 守られるのは嬉しいけれど。 守られるだけなのは、嫌だ。 「何か危険があるなら、一緒に立ち向かいたい。そんな、力ないかもしれないけど。でも、足手まといにならないぐらいには、出来れば、手伝うくらいは、したい。何も知らないのは、嫌だ」 生意気なことを言ってしまっただろうか。 少し後悔するが、けれど一兄は優しい表情を浮かべて俺を見ている。 頬に触れていた手で、今度は頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。 「分かった。これからはこき使うから、頼む」 「うんっ」 頭を撫でられるのは子供扱いのようで恥ずかしいが、その言葉は嬉しい。 守るというより、手伝えとか言われる方が嬉しい。 一兄に何かを頼まれるのは、体に力が沸いてくる。 「ほら、来い。もう遅いさっさと寝よう」 「うん!」 一兄の手に引き寄せられて、長い腕の中に収まる。 幼い頃から変わらない、広くて大きな胸。 大きな手が俺のうなじを包み、じんわりと熱が伝わってくる。 目を瞑ると、一兄の匂いと鼓動を強く感じた。 「宮守の血の絆に従いて約定を果たし、末永き安寧のため我が力を礎に、恵みを与えるべく………」 低く通りのいい声が、一定のリズムで呪を紡ぐ。 一兄の呼吸と、俺の呼吸が一つになっていく。 天にやってもらう時とは違い、穏やかに力が体の中に入り込んでくる。 一兄を表わすように優しくゆったりとした力が俺を包み込む。 「あ………」 一兄の深い深い青色と、俺の薄い青が、一つになっていく。 体の力が抜けていき、大きくたくましい体に寄りかかってしまう。 「ん」 一兄の匂い。 一兄の呼吸。 一兄の力。 それら全てが、俺を安心させて穏やかな気持ちになっていく。 このままずっと、こうしていたいとすら思う。 「は」 時間をかけて力をたっぷりと受け取った後は、心地よい眠気に襲われていた。 一兄の体にもたれかかったまま、意識が闇に落ちていく。 瞼を持ち上げられずにいると、そのまま体が横たえられた。 一兄が布団に寝かせてくれたようだ。 「おやすみ、三薙」 「おやす、み、いちに」 温かい手が俺の頭を撫でるのを感じながら、就寝の挨拶だけ告げる。 手の感触とは違う温かいものを、額に感じた気がした。 カタカタと音がして、意識が現実に引き戻される。 目を開けて音の出所を探ると、そこには文机でノートパソコンに向き合う長兄の姿があった。 そうか、昨日は一兄に供給してもらって、そのまま眠ったのだ。 「………」 一兄の横顔は真剣で、男らしい容貌がよりシャープに見える。 仕事をしていると本当に大人の男って感じだ。 やっぱり一兄はかっこいいなあ。 あんな風になれたら、いいのにな。 いつか、少しくらい近づくことが出来るだろうか。 頭が良くて運動が出来て自分にも他人にも厳しくて、でも優しくて頼りになって。 一兄のいいところを上げると両手の指では足りないかもしれない。 「三薙、起こしたか?」 俺がじっと見ているのに気付いたのか、一兄がふいに振り返る。 まだ髪をセットしていないから普段より若く感じる。 そんな様子もかっこいいなあと思ってしまう。 一兄はずるい。 「ううん。平気。おはよう」 「ああ、おはよう」 自分の考えに苦笑しながら、もそもそと起き上がる。 暖房をいれてくれていたのだろう、部屋はほどよく暖かくなっている。 「忙しいんだね」 「そこそこな。家のことは把握しておきたいから仕方ない」 「次期当主だもんね」 管理者としての仕事は勿論、一統のやっている副業のほうも仕切るのは当主の役割だ。 父さんもそちらの方でよく出かけているし、とても忙しそうだ。 一兄はまだ仕事を覚えている最中だから余計に忙しいらしい。 「まだ俺がなると決まった訳じゃないがな」 「………」 自分の失言に気付いて、言葉を失う。 次期当主と目されて名前が挙がっている人間が、一兄の他にもう一人いるのは知っている。 けれど一兄は気にした様子はなくパソコンをカタカタと打っている。 「ふさわしい人間がなるべきだろう。宮守一統を守るだけの力がある人間が」 「一兄以外に、そんな人いないよ」 本業の方も副業の方も、すべて出来るのは一兄だろう。 あいつは力が強いのは確かだが、当主と言われるとやっぱり一兄しか浮かばない。 一兄がパタンとノートパソコンを閉じて、振り返った。 「ま、それは後々先宮が考えるだろう。そろそろ朝飯にいくか」 「うん」 その話がそこで終わって、ほっとする。 一兄は、このことについてどう思っているのだろう。 少しだけ、それが気になった。 |