家には、一兄も天もまだ帰っていなかった。 二人と少し話したかったんだけど。 この前二人が何を話したのかとか気になった。 仕事の話って言ってたけど、本当にそうなんだろうか。 本当にあの時話していたのが仕事の話だとしても、その他のことは、話してないだろうか。 二人と儀式をしてしまったというのは、この先、俺たちにどういう影響をもらたすんだろう。 一兄と天は、いつも通りだったから、きっと何も変わらないんだろうけど。 一兄も変わらないって言ってくれたし。 でも、変わってしまいそうで怖い。 二人と話して、変わらないという確証が欲しい。 大切な兄と弟を、失いたくない。 「雨、か」 窓をかすかに叩く音がしてカーテンを開くと、外はしとしとと雨が降っていた。 春の雨らしい、静かな雨。 まだ日が落ちるのは早いから、もう外は真っ暗だ。 庭の木々が、大人しい雨に打たれてうなだれている。 生まれた時から住んでいる家だけど、昼と違って夜は少し怖い。 トントン。 ドアがノックされて、振り返る。 「はい。います。ちょっとお待ちください」 駆け寄ってドアを開ける前に、ガチャっとドアが開かれた。 驚く前に現れたのは長身の次兄。 双兄が勝手にドアを開けるのはいつものことだから、慣れてしまった。 「双兄、どうしたの?」 「よお、こんばんは」 「………また飲んでる」 吹きつけられた息に漂う甘い臭気に、さすがに非難めいた声が出てしまう。 いくら悩みがあっても、こんなに飲んだら体に毒だ。 一見いい加減でふらふらしていても、決してやりすぎることも、自制を忘れることもなかったのに。 「………」 またふざけて返されるかと思ったが、双兄はじっと俺の顔を据わった目でじっと見ている。 いつもと違う様子に、不思議に思う。 「………どうしたの、双兄?」 「兄貴とも、儀式、したんだってな」 そういえば、儀式が決まった時、双兄はいなかった。 それからもずっとふらふら歩きまわっていたし、話をしていなかった。 熊沢さんも知らなかったし、双兄も、知らなかったんだろうか。 「………うん」 戸惑いながら、小さく頷く。 どういう儀式か双兄が知っている以上、頷くのは恥ずかしくて気まずい。 弟だけではなく兄とも儀式をした俺を、双兄はどういう目で見るだろう。 「………」 双兄はからかうことも軽蔑することもしなかった。 ずるずるとその場に座りこんで頭を抱える。 「双兄!?」 慌ててしゃがみこんで、顔を覗き込む。 双兄は頭を抱え込みながら、何かをぶつぶつと言っていた。 「………駄目だ、嫌だ。うるさい、俺が、やる。このままじゃ、駄目だ」 「………双兄?」 「うるさい、うるさい、うるさい!」 「っ」 急に声を荒げた双兄に、驚いて息を飲む。 こんな風に声を荒げる次兄なんて、子供の頃以来、見ていない。 「………三薙、来い」 「え」 ふらついた様子を見せずに、すっと立ち上がった双兄が、俺の腕を掴み、立ち上がらせる。 そして、そのまま手を引いて、歩きはじめた。 「双兄、どこ行くの」 「静かにしてろ」 「………」 いつもと全く様子の違う次兄に、不安がじわじわと沸いてくる。 でも、声をかけても返事はなく、ただ歩く。 振り払って逃げようかとも思ったが、まだ何をされたという訳じゃない。 でも、怖い。 いつもと違い張りつめた空気を纏う双兄が怖い。 「………双兄」 「………」 双兄は意地悪はするけど、本当に酷いことはしない。 だから、大丈夫だとは思うけど、どこへ、行くのだろう。 「え、外?」 「………」 黙ったまま廊下を歩いていた双兄が縁側のガラス戸を開く。 風がそこまでないから雨が強く吹き込むことはないが、廊下を僅かに濡らす。 「雨、降ってるよ」 「気にすんな」 応えてくれたことに、少しだけほっとする。 このまま、外に出たら濡れてしまうが、双兄はさっさと庭に下りてしまう。 手を引かれた俺も、仕方なく縁側にあったサンダルを履いて降りる。 「………どこ、行くの?」 「すぐだ」 「寒いよ」 「………」 訴えても、双兄は黙って俺の手を引いて歩く。 雨に打たれて、冷たい。 夜の庭は、木が襲いかかってきそうで、ちょっと怖い。 空を覆うように生える木々は、まるで森のようだ。 「舞殿に行くの?」 双兄が向かう方向が、何となくわかった。 宮守の家の奥に位置する、正月に謳宮祭を行った舞殿だ。 舞殿に何があるんだろう。 双兄は応えてくれなくて、ため息をつく。 いつもなら双兄がいれば夜の森なんて怖くないのに、今は不安で仕方ない。 双兄が、まるで別人のようだ。 「………森」 そこで、不意に、天の言葉が蘇った。 『その森は、どこなんだろうね。小さい俺たちはどこにいるんだろう』 小さい俺たちがいる森。 最近夢でよく蘇る、天が俺を誘う、夢。 あの森は、どこなのだろう。 「うるさい、黙れ。お前だって、このままじゃいけないと思ってるんだろ」 そこでいきなり双兄が口を開いた。 こちらは見ずに前を向いたまま、喧嘩するようにきつい口調だ。 「な、なに、双兄?」 「お前は何も出来ないんだから黙ってろ!」 双兄が一人声を荒げて、身が竦み上がる。 いつもいい加減だけれど明るい双兄の低く大きな声は、怖い。 「うるさいうるさいうるさい、お前も亮平もうるさい!」 びくびくとしていたが、双兄が怒鳴りつけているのが、俺ではないと気付いた。 俺は何も話しかけていない。 独り言を言っているように見えるが、双兄と話せる人間は、今この場にもう一人いる。 「………双兄、双姉が何か言ってるの?」 「お前も、亮平も、じゃあ、どうしろって言うんだよ!」 「双兄………」 「俺がやらなきゃ、何も知らないままだろ!」 双兄はこちらを見ないで、ただ双姉と話し続けている。 いや、喧嘩をしている。 俺の存在を無視されて、そして双姉と喧嘩している様子なのが、寂しくて怖い。 それに、どうやら双姉は、双兄を止めているようだ。 「ねえ、双兄、双姉、なんて言ってるの?双兄を止めてるの?双兄、もう舞殿だよ」 もう、髪も服もびしょびしょだ。 寒くて、指先も足先も冷たくなってきた。 「こっちだ」 「………そっちは」 双兄はけれど、舞殿を通り過ぎて、更に奥へ進む。 注連縄で仕切られたその先は、俺が入ることは許されていない。 いや、俺だけではなく、双兄も許されていないはずだ。 そちらは、先宮に許可を得た限られた人間だけが入れる空間。 一兄や天ですら、自由に立ち入ることは許されない。 「奥宮」 その先には宮守家が守り祀る、奥宮がある。 そこに何があるか、立ち入ることが許されていない俺は知らない。 一兄や天は、知っているようだけど。 「………双兄、駄目だ、そっちは駄目だ」 「いいから来い」 「双兄!」 双兄が細い腕からは想像できない力で、抵抗する俺の腕を引っ張る。 殴りつけたりすることは躊躇してしまい、そのまま引きずられるように注連縄の先に入ってしまう。 ぞわり。 その瞬間、全身に鳥肌が立った。 ねっとりとしたものが俺を捉え絡みつくような、言いようのない不快感。 邪気がある訳ではない。 けれど、空気が重く、棘があるように、肌がピリピリと刺激される。 「………なに、これ」 「………」 注連縄の先は、ただ真っ直ぐに暗い道が続いていた。 暗い暗い、道。 「………こっちだ」 双兄が、俺の腕をぐいっと引っ張って更に足を進める。 一歩進むごとに、不快感が増し、吐き気がこみあげてくる。 『こっちだよ』 幼い声が、どこからか響く。 俺を誘う、声。 「………やだ、双兄、やだ」 無理矢理、心の中を開き、掻きまわされるような、痛みと屈辱感。 この先には進みたくない。 『お兄ちゃん、こっちだよ。お兄ちゃんにも見せてあげる』 幼い天、暗い森、続く道。 あの森はどこだったか。 そんなの、少し考えれば分かるじゃないか。 幼い俺と天が自由に行ける森なんて、この家の中にしかないんだ。 「やだ、双兄、そっちには行きたくない!やだ!」 手をなんとか振り払おうと暴れると、双兄がぴたりと足を止める。 そして振り返って、俺をじっと見つめる。 どこか苦しげに眉を寄せて、泣きそうな顔だった。 こんな表情の次兄を見たことはない。 「………俺は、兄貴の立場も、天の気持ちも、分かるんだ。どっちも分かる」 自分に言い聞かせるように、つぶやく。 何を言っているか分からない。 でも、これ以上は聞きたくない、行きたくない、怖い。 「双兄嫌だ、嫌だ、怖い。こっちは怖い」 なんで今まで、忘れていたんだ。 記憶が唐突に溢れかえっていく。 天の声が聞こえる。 この先には行きたくない。 怖い怖い怖い怖い。 「どうしたらいいか、分からない。どうしたらいいんだ。でも、お前が何も知らないままなんて、嫌だ。そんなの、嫌だ」 双兄が駄々をこねる子供のように首を横に振る。 でも、怖い。 何を言っているのか分からない。 怖い。 この先には行きたくない。 「お前が知らないなんて、卑怯だ」 「双兄、でも、嫌だ、怖い、怖い」 「お前は、知るべきなんだ」 双兄はまた俺の手を引いて、歩きはじめる。 その手には嫌になるほど力が込められていて、振りほどけない。 それに恐怖で、足が竦んでいる。 今すぐにでも座り込んでしまいそうだ。 足をもつれさせるように、つんのめりながら、引きずられる。 「あいつも、亮平も、余計なことはするなって言うけど、そんなの、駄目だ」 「双兄、嫌だ!待って、双兄!」 この先には、怖いものがいる。 怖い。 怖い怖いものがいる。 「あ………」 その瞬間、空気が、揺れた。 音ではない、けれど叫び声のような不快な音が辺りにこだまする。 空気を直接引っ掻かれ汚されたような、胃の中が重くなるような不快な感触。 「っ」 思わず足の力が抜けて、雨で濡れてぬかるんでいる地面に座りこむ。 ぐちゃりとした感触が気持ち悪かったが、それ以上に脳内や体内を掻きまわされるような叫び声が不快だった。 この声は、聞いたことがある。 そうだ、あれは、度会の家から帰って来た後、そして謳宮祭の時。 それ以外でも、俺は、あの声を聞いたことがあったはずだ。 「行くぞ」 「や、だ」 双兄は真っ白な顔に表情を浮かべないまま、俺を抱えあげるようにして先に進む。 力の入らない足は中々動かず、サンダルで剥き出しになっている足がドロドロに汚れていく。 雨に濡れてぽたぽたと垂れて来る水で、視界も悪くなっている。 足が痛い、水滴が入って目が痛い、引っ張られる腕が痛い。 体温を奪っていく雨が冷たくて、寒い。 怖い。 「お前は、知らなきゃいけないんだ。その方がいいんだ」 双兄が何度も何度も一人で呟いている。 その言葉の意味を考える余裕なんてない。 この場から逃げ出したい。 でも、体が動かない。 「………っ」 小さな、でも重厚な作りの社のようなものが見えてくる。 注連縄と札を幾重にもまかれたその姿は禍々しい。 まるで口を開いて待っている獣のようだ。 宮守の家の奥深くにある、奥宮。 触れてはいけないと言われている神域。 宮守の祀る神がおわすところ。 当主しか立ち入りの許されない場所。 それ以上に、俺はそこに立ち入ることすら思いつかなかった。 宮守の庭で遊ばなくなったのはいつだったっけ。 天が怖くなったのはいつだった。 ぎくしゃくし始めたのは、いつだった。 『四天、どこに、行くの?』 『こっちだよ。いいもの、見せてあげる』 小さな天が、俺の手を引いて笑う。 今俺の手を引いてるのは、あの小さな手じゃない。 「開くぞ」 双兄が乱暴に封印していた札を剥がし、一枚板の両開きの扉に手をかけて、押す。 ぎぎっと音を立てて、扉が開く。 『お兄ちゃんは、強くなんて、ならなくていいんだよ』 叫び声が大きくなる。 不快感が強くなる。 俺という存在を中から変質させるような、不快な感触。 怖い怖い怖い怖い。 怖い。 |