支度を終え、さっさと玄関から出ていこうとする弟を慌てて呼びとめる。 「天、一緒に行こう」 「………いいけど」 振り返った弟は一瞬怪訝そうな顔をしてから、それでも頷いてくれた。 天と一緒に登校なんて、どれくらいぶりだろう。 ずっと、俺の方から避けていた。 この優秀で人の注目を集める弟と、一緒に歩きたくなかった。 今は少し緊張するけど、前ほどの拒否感はない。 コンプレックスを刺激されることは、減った。 今は別の感情が、あるけれど。 玄関を出ると、春の温かい日差しが舞い込んでくる。 いい天気だ。 二人並んで、学校までの道を歩く。 「入学式どうだった?」 「どうって言われても。眠かった」 「はは、校長、話長いよな」 「どうして長ってつく人は話が長くなるんだろうね」 しばらくギスギスしていたりもしたから、普通の会話が出来るのは嬉しい。 でもなんだか、薄氷を踏む思いというのは、こういうことなのだろうか。 「友達出来そう?」 「どうだろう。とりあえず席の周辺の人とは話してるけど」 「………そっか」 まあ、こいつならすぐにそつなく友達もできるのだろう。 本当に要領のいい奴だから、人に好かれて囲まれるのだろう。、 やっぱりコンプレックスが刺激される。 自分の鬱屈した思いを振り払うように上を見上げる。 学校へ向かう道沿いは桜並木があって、そろそろ盛りの桜がはらはらと散っている。 「桜、綺麗だな。家の桜はまだ咲き初めだけど」 「そうだね。綺麗だ」 やっぱりピンクの花びらは、とても美しい。 見ていると少しだけ気分が向上する。 「お前と同じ学校っていうのも久しぶりだな」 「そりゃ二年離れてるからね」 「うん。制服、なんか変な感じ」 「まだ俺も慣れない」 四天は俺と同じブレザーを着ている。 まだ真新しく糊の効いた制服を着ている様子は、天らしくなく初々しい感じだ。 少しだけ大きめに作られていることも起因しているだろう。 天はやや不満げに袖を引っ張っている。 「中学の制服もブレザーだったから、似たようなもんなんだけどな」 「こっちのが仕立てはまだいいかな」 「中学の奴、そういえば冬服肩痛かったしな。でも、やっぱ、変な感じ………」 高校の制服を着ている天はまるで別人のようだ。 酷く大人びているようにも感じるし、酷く幼くも感じる。 じわりと、緊張がさざ波のように押し寄せる。 「………」 「兄さん?」 「あ、何?」 「そっちがどうしたの?急に黙り込んで」 「いや、なんでもない」 慌てて首を横に振った。 一か月前から考えないようにしていたことが、まだ頭をもたげてしまった。 気にしないようにずっとしてるのに、 「今週末らしいよ」 「え」 校門がそろそろ見えてきた頃、不意に天が言った。 なんのことか分からず顔をあげて隣を見る。 「儀式の一回目」 天はちらりとこちらを見ると、皮肉げに笑った。 心臓が、どきりと、跳ね上がる。 「………」 考えないようにしていた。 あれから天も周りの人も変わらない態度だった。 だから、なかったことのように振る舞っていた。 でも、事態はやっぱり進んでいる。 天は手を握りしめて黙りこんだ俺に小さく笑う。 「一月近くあったけど、覚悟は決まった?」 「………う、ん」 「まあ、決まってても決まってなくても、時間は待ってくれないけど」 その通りだ。 着実に時は進んでいた。 あの時決心はしたけれど、いまだに心は揺れている。 あんなこと、男の、しかも兄弟でするべきことじゃない。 それに、天に迷惑をかける。 怖い。 でも、死ぬのは嫌だ。 ぐるぐるぐるぐる、いまだに俺は迷い続ける。 「せいぜい痛くないように頑張るよ」 「天っ!」 下卑たことを言う弟を怒鳴りつけると、天はくすくすと笑った。 それから少しだけ駆けて、校門の前で振り返る。 「それじゃまたね、兄さん」 綺麗に笑って、そのままするりと校門に滑り込んでしまった。 「また暗い顔してるのかよ、お前」 「あいた。岡野」 席に座って悶々と考えこんでいたら、岡野に頭をひっぱたかれた。 見上げると、今日もメイクと髪型がばっちりな岡野が俺を見下ろしていた。 そして目を細めて睨みつけてくる。 「今度は何?」 「あ、いや、大したことじゃないから」 「………」 首を横に振って笑うが、岡野はますます目を細める。 だめだ、疑われている。 「いや、本当に大したことじゃないから!」 でも、これは誤魔化すしかない。 こんなこと、言えるはずがない。 誰よりも、岡野にだけは、知られたくない。 「うん、大したことじゃないんだ」 大したことじゃない。 天だって、どうでもよさそうだった。 そうだ、大したことじゃないんだ。 仕方のないことなんだ。 「じゃあ、何考えてたの?」 「えっと、温かくなってきたな。夏になったら、海行きたいなって」 咄嗟に口から出まかせを言う。 失敗したかと思ったが、岡野は間抜けな答えに、でも、やっと笑ってくれた。 その笑顔に、ふわりと、心が温かくなる。 「受験生のくせに」 「岡野が行こうって言ったんだろ」 「仕方ないな、ま、あんたの成績ならそこまで焦ることもないだろ。私はこれから灰色の受験生活だけど」 「はは」 俺も進路、そろそろ考えないといけない。 遠くの大学になんて行けないと思っていた。 でも、儀式を終えたら、行けるようになるのだろうか。 行けるといいな。 そうだ、きっと海にだって行ける。 「岡野と、海、行けたらいいな」 そうだ、それなら、耐えられる。 岡野と一緒にいられるならいい。 いつまで岡野と一緒にいられるかは、分からない。 いつか岡野は誰かと恋をして、恋人を作るだろう。 想像すると、胸がズキズキと痛んで血が溢れかえるようだ。 でも、いつかは距離が遠くなる。 それは、仕方ない。 そうしたら、俺と一緒になんて、いてくれない。 それなら、今だけでも一緒にいたい。 少しでも長く一緒にいて、少しでも多く思い出を作りたい。 「行きたいな」 それなら、儀式を、受け入れよう。 天には勿論迷惑をかけるから、謝らなきゃ。 俺以上にあいつの方が嫌なはずだ。 あいつも、とんだとばっちりだ。 「お、何それ、岡野の水着が見たいアピール?」 「うわああ!」 いきなり後ろから圧し掛かられた。 慌てて後ろを振り返ると、そこには眼鏡の真面目そうな男が楽しそうに笑っていた。 「せ、誠司!」 「もー、三薙君たらだいたーん。いいのよ、分かるわ。青少年よ!大志をいだけ!!」 「ち、違う!」 いや、見たくないか見たいかと言われたら見たいけど。 でもそういうことじゃなくて、それだけじゃなくて。 思い出を作りたいのは、岡野とだけじゃない。 「岡野もだけど、皆でいきたいんだよ!」 「お、それは佐藤や槇の水着も見たいということか!」 「ち、ちが!」 いや、それも見たいけど。 でも、そうじゃない。 「え、三薙私の水着見たいの?仕方ないなー」 「うわああ」 「私は着ないよ。ごめんね。彩で我慢してね」 「ま、槇まで!」 ぞろぞろと佐藤と槇まで集まってきた。 そして口々に俺をからかい始める。 からかわれてると分かっても、顔が熱くなってつい、ムキになってしまう。 「ち、違う、違くて、誠司とも行きたくて」 「え、俺の水着が見たいの?」 「水着から離れろ!」 藤吉の水着は特に見たくない。 後ろにいた友人をついはたいてしまう。 それを受け止めて、藤吉は朗らかに笑う。 「まあ、一日ぐらいは息抜きしたよなあ。行けたらいいな」 「………うん」 「楽しみだな」 「一緒に、行ってくれる?あ、受験だし、来年とかでも」 言ってから、そっちの方が大それた望みだと気づく。 一緒に、いってくれるだろうか。 皆、一緒にいてくれるだろうか。 少しでも長く、少しでも多く、一緒にいてくれるだろうか。 来年も、一緒にいてくれるだろうか。 「まっかせなさーい」 藤吉が、笑いながら俺の肩を叩く。 「私は絶対行くよ!海ー!」 「お弁当作って行こうか?」 佐藤がいつだっていきたいよと握りこぶしを作る。 槇がおっとりを笑う。 「ばーか」 そして岡野が俺の頭を軽くはたく。 それは、岡野の照れ隠しだって、今は知っている。 これまで一緒にいて、知った。 これからももっと、皆のことが、岡野の事が知りたい。 「ありがとう!」 だったら、受け入れる。 俺は、皆とこれからも一緒にいたい。 いたいんだ。 |