スーパーで三人で買い物を済ませて岡野の家に訪れる。
玄関を開けると同時に、部屋の奥からトタトタと足音が響いてきた。

「お帰り、おねーちゃん、お腹すいた!」
「帰ってくるなりそれかよ」

出てきたのは初めて見る女の子。
大きな吊り気味の目は猫のようで、岡野とよく似ているけれど、まだ幼さを残している。
そういえば妹がいるって言ってたっけ。
表情がくるくるとよく変わる、愛らしい子だ。
大きな目で俺の方を見て首を傾げる。

「あれ、何々、お姉ちゃん、彼氏?だから昨日から張り切ってたの?」
「ちげーよ」

岡野はばっさりと冷たい声で切り捨てて、さっさと玄関に上がる。
そんなにきっぱり否定しなくても。
いや、違うんだけどさ。
その時、奥からもう一つ軽やかな足音が響く。
こちらは一度会ったことがある、まだ小さな少年。

「あれ、また宮守来たの?」

竜君が俺の顔を見て生意気そうに顎を上げる。
この前ちょっと話しただけなのだが、すぐに呼び捨てにされてしまった。
俺ってそんなに年上の威厳的なものがないのだろうか。

「年上呼び捨てにすんな、竜」
「いてえ!」

岡野がそんな弟に鉄拳制裁をくらわす。

「こんにちは、咲ちゃん、竜君」
「あ、千絵ちゃん!」
「チエさんだ!」

槇が俺の後ろから顔をひょこりと出すと、二人は目に見えて顔を輝かせる。
この扱いの差。
どうやら二人は、槇のことが大好きなようだ。

「ほら、咲。スリッパだせ」
「はーい、えっと、それで、どなたですっけ」

岡野の命令に咲ちゃんがスリッパを俺と槇に出してくれる。
そういえばまだ挨拶もしてなかった。
スリッパを履く前に頭を一つ下げる。

「こんにちは、宮守です。初めまして、本日はお邪魔します。えっと、咲、ちゃん?」
「うん、それでいいよ。お姉ちゃんの彼氏だし」
「違うつってんだろ、この馬鹿」
「痛い!」

そして妹にも鉄拳制裁が下される。
中々にバイオレンスな指導だ。
なんだかよその家庭の兄弟って、面白い。
一兄にはこんな風にされたことないな。
双兄にはよくされるけど。

「えっと、竜君は久しぶり」
「こんにちはー」

竜君は今度は元気よく挨拶をしてくれる。
気が強そうな感じだけど、岡野に礼儀は叩きこまれているらしい。
しかし、姉たちによく似た大きな吊り気味の目は俺の手元をじっと見ている。
その熱い視線に思わず苦笑してしまう。

「はい、どうぞ、お土産。槇が選んだから絶対おいしいよ」

手に持ったケーキの箱を差し出すと、竜君だけでなく咲ちゃんも飛び上がった。

「やったー!」
「やったー!」

本当に元気な姉弟だ。
全身で喜びを表現する弟妹を呆れた目で見下ろして、岡野は小さくため息をつく。

「夕飯食べてからだからね。ほら、手伝え」
「はーい」
「はーい」

そしてさっさと二人を引き連れて奥に行ってしまう。
俺たちは玄関先に置いてけぼりだ。
まるで嵐のようなやりとりに、けれど温かい気持ちでいっぱいになる。

「明るくて、仲のいい姉弟だな」
「いいお姉ちゃんでしょ」
「うん」

学校とは違う、岡野の新たな一面。
いつもよりお姉さんの顔をして大人びて、でもリラックスしていて幼くも感じる。
槇に案内されて俺たちもリビングに行くと奥のキッチンではもう準備が始まっていた。

「竜、そこ片付けろ」
「えー」
「夕飯いらないの?」
「はあい………」

岡野は制服のままエプロンをつけて、食材を手にしている。
竜君と咲ちゃんもそれぞれエプロンをつけて、姉の指示を待っている。

「咲、そっち切って」
「はーい」

よく統制のとれたその様子に、つい頬が緩んでしまう。
お姉さんをしている岡野が、しっかりしてるのに、なんだか可愛い。
なんて、俺も見てる場合じゃないか。

「えっと、岡野、俺もなんか、手伝うことある?」
「あんた料理出来るの?」
「………家庭科で作ったことはある」
「チエと座ってろ」
「………はい」

家で料理の手伝いなんてしたことはない。
お茶を淹れるぐらいならできるけど、余計に邪魔になりそうだ。
槇は最初から手伝う気はないようで、リビングのカーペットに座っていた。
俺も居場所がないのでその隣に座り込む。

テーブルの周りには竜君のものらしきボールや、咲ちゃんか岡野のものらしい女性向けの雑誌などが隅に置かれている。
すごく片付いているという訳ではないが、皆の生き生きとした生活の様子が伝わってきてにやにやしてしまう。
ああ、俺キモいな。
でも、そういえば友達の家に来るって、前にクリスマスパーティーで槇の家に行ったきりだ。
この前の岡野のお見舞いは一瞬だったし。
なんだか、緊張してきたかも。
親御さんに挨拶とかも、したことがない。

「あ、そういえば、岡野のご両親は?」
「お母さんは今は入院中。もともと体が弱い人だから」

槇がテレビをつけながら、あっさりとそう言う。
予想外の言葉になんて答えたらいいか分からなくて、間抜けに頷くことしかできなかった。

「………そう、なんだ」
「うん、お父さんは出張中かな。忙しい人だから。二人ともすごい楽しくていい人だよ。お母さんは気が強くて彩にそっくり。お父さんは穏やかで優しい人」

あんまり、二人とも家にいないのだろうか。
だから、岡野はあんなにしっかりしてるのだろうか。
一番上のお姉ちゃんだし。
一兄も、うちで一番しっかりしている。
岡野も大変なのかな。
でも、大変って思うのも失礼だろうか。

「………」
「彩は別に隠してないから、後で本人にも聞くといいよ」
「………うん」

聞いてみたい。
岡野は何を思って、どんな日常を過ごしているのか、知りたい。
でも、聞いてもいいのだろうか。

「友達って、どこまで、聞いていいのかな」

槇はこちらを見て、悪戯っぽく笑う。

「それは、難しいね。人それぞれだから」
「好奇心で聞かれるのは、嫌だよな。でも、知りたい。知らないで無神経なこと言っちゃいそうだし。でも聞くのも無神経かな」

どうしたらいいんだろう。
友達とは、どこまで踏み込んでいいんだろう。
人との距離の取り方は分からない。
今まで、嫌われてしまうばかりだった。
こんなに仲良くなれたのは、初めてだ。
だから、嫌われたくない
だから、知りたい。

「ぐるぐるしてるね」

槇が俺の様子をみてくすくすと笑う。
他のみんなは、簡単に出来ているように見える。
みんな、どうやったらそんな上手に人と付き合えるのだろう。

「友達って、難しいな」
「そうだね。友達じゃなくても、人と接するって難しい。踏み込みすぎるのも怖いし、でも踏み込まないと近づけないし」

そうだ。
近づきたい、でも近づきすぎて嫌われるのは怖い。
どうしたら、いいんだろう。

「相手を思って、自分がされたら嫌なことをしなければ、最低限大丈夫だと思うけど、人によって感じ方違うしねえ」
「うう………」

俺がされて嫌なこと、俺がしてもらって嬉しいこと。
でもそれが、他の人が嫌とか嬉しいとか一緒だとは限らない。
今までも人と付き合うのは難しいって感じてたけど、友達になった後も、人と接するのは難しい。

「大丈夫だよ、宮守君。人付き合い初心者の宮守君に、私たちはぴったり」
「え」

槇がぽんと俺の腕を軽く叩く。
悩みこんで下がっていた頭を上げて、槇を見る。
槇はにこにこと朗らかに笑っていた。

「私たちは誰も我慢しないし、嫌なことは嫌っていうから、気が付いたら嫌われてるってことはないよ。大丈夫。安心して踏み込んで」

その言葉に一瞬虚を突かれ、黙る。
でもすぐに、吹き出してしまった。

「あ、はは」

そうだ、俺が何かして、嫌だったら、藤吉も岡野も槇も佐藤もみんな言ってくれるだろう。
俺が間違ったことをしたら、叱ってくれる。

「そうだな。うん、俺、よかった。友達になれたのが、槇達でよかった」
「ね?」
「うん」

本当にみんなと仲良くなれてよかった。
友達になってくれたのが、槇達でよかった。
今まで友達が出来なくて辛くて悲しかったけど、槇達と友達になれるためだったのなら、それでよかった。

「でも、不思議だね。こんなに仲良くなれるとは思わなかった」
「うん、俺も」

2年の初めのころは、仲良くなれるなんて、思ってなかった。
こんなに心を許せる友達になれるなんて、思ってなかった。

「あのお化け屋敷で知り合って、文化祭の日に助けてもらって」

槇が思い返して、そこで小さく首を傾げる。

「そういえば、お化けがらみだね。仲良くなったのって」
「………うん」
「それがなければ宮守君と仲良くなれてなかったかも」
「う………」

確かにあの出来事がなければ、いまだに楽しそうにクラスで笑っている皆を遠巻きに見ていたかもしれない。
その輪の中に自分が入れるなんて、思ってもみなかっただろう。

「まさかねえ、宮守君とねえ」
「何だよ」

意味ありげに笑いながら言う槇に、思わず責めるような声が出てしまう。
どうせ、友達なんてできない人間だよ。
でも、そこで槇が小さく吹き出す。

「ふふふ。仲良くなれてよかったって思ってるの」
「………別に、いいよ」
「まあまあ。そう思えば、お化けも、悪いばかりじゃなかったかな。悲しい思いはしたくないけどね」
「うん………」

哀しい思いも辛い思いも、もうしたくない。
あの出来事があってよかった、なんて言えない。
とても、言えない。
でも、皆と出会えたことは、仲良くなれたことは、嬉しい。
ごめんなさい。
あの時のことを思うと、罪悪感で押しつぶされそうになる。
でも、やっぱり、仲良くなれて嬉しいって思ってしまう。

「ねえ、宮守君。ああいうお化けが出てくるのってよくあるの?」

思い出して暗い気持ちが溢れそうになったところで、槇が不思議そうに聞いてきた。
飲まれそうになった意識を頭をふって振り払い、槇の質問について考える。
俺はそれなりに見えるし引き寄せるので、よく影響を受けたり追いかけられては倒れたり寝込んだりしていた。
時にはクラスメイトが邪気をまとわせていることもあった。
でも、あんな風に複数の人を巻き込むようなことに出会ったのはあれが初めてだった。

「……それは、邪はそこら中にはいるけど、そこまで騒ぎになることは、そんなには、ない、と思う」
「だよねえ。私も初めてだったし」
「うん。俺もよく追われたりしてたけど、あんな大きなトラブルになるようなことは、あんまりなかったな」

俺がもっとしっかりしていれば、大きなトラブルになんて、ならなかったかもしれない。
もっと助けられたかもしれない。

「………」
「だよねえ」

また俯きそうになった顔を上げると、槇が頬に手をあてて、何かしら考えている。

「うーんと、あのお化け屋敷、行こうって言ったのは誰だったっけ」
「え、俺は佐藤や、その、阿部とかに、誘われたけど。佐藤は藤吉に教えてもらったって、言ってた」

藤吉に聞いた、か。
ちらりと、何か嫌なものが胸を過ぎったような気がした。
違う、気のせいだ。
そう、そして、あの時、阿部もいた。
阿部。
意識はまだ、はっきりしないらしい。
早く、元に戻ってくれると、いいんだけど。

「そっか」
「うん」

槇は一人考え込むように、ふっくらとした頬に手を当てている。

「あの文化祭の日は、あの、キガミ様って、誰がやってたんだっけ」
「えっと、それは………」

田代という、一度見ただけの、少年。
言っても、いいのだろうか。
でも、もう終わったことだ。
これ以上、彼を苦しめる必要はあるのだろうか。
言いよどむが、けれど槇は答えは期待してなかったように、眉を少し顰める。

「そもそも、あの噂って、いつから流行ってたんだっけ」
「えっと」

俺はそういう噂には詳しくないから、分からない。
でも槇は、聞いてはみたもののやっぱり俺の答えは気にしていないようで、自分の思考に入り込んでいる。

「槇?」
「うーん」

どうかしたのかと聞こうとしたその時、キッチンの方から声が響いた。

「出来たよ!あんたたちも運んで!」

元気な声に、俺と槇は顔を見合わせる。
それから同じタイミングで、笑ってしまう。

「早く!」
「あ、はい!」
「はあい。さ、怒られちゃうから行こう」
「うん」

お互い苦笑しながら立ち上がる。
そういえばさっきからいい匂いが部屋に立ち込めていて、胃袋がきゅうっと鳴いた。
朝も昼もあまり食べられなかった。
それが、今ようやく空腹を感じてきた。
俺って、現金だ。

「宮守君は、もっと彩のこと、見てあげてね」
「え、うん?」
「そうすればきっと、もっと仲良くなれるよ」

槇はそっと小さな声で俺に囁いて、キッチンに向かう。
もっと見るって、どういうことだろう。
俺は岡野を、すごく見ている気がする。
若干、キモいぐらいに。
もっと見たら、それこそ嫌われてしまうんじゃないだろうか。

「わあ、豪華だねえ、彩、すっごーい頑張ったね」
「うるさい」
「統一感ないともいうけど」
「嫌なら食うな」
「嫌だよ。彩のロールキャベツ好きなんだから」

槇と岡野の声に誘われてキッチンに足を踏み入れると、そこには所狭しと料理が並べられていた
目玉焼きが乗ったハンバーグ、トマトソースらしいロールキャベツ、それと焼き魚、サラダに、ポタージュぽいスープ。
確かに、ちょっと統一感はないが、湯気が立っているそれは見た目も匂いもとても食欲をそそる。
唾液が口に広がって、慌てて飲み込む。

「ご馳走だ!」
「目玉のハンバーグだ!」

咲ちゃんと竜君が、横でまた飛び跳ねて喜んでいる。
二人にしてもご馳走なようだ。
はしゃぐ様子が微笑ましい。
皆でリビングに料理を運んで、その周りを取り囲むように並ぶ。
料理がこぼれそうなほどのテーブルは、見ているだけで心が温かくなっていく。
特にハンバーグがおいしそうで、目が釘付けになってしまう。

「俺、あんまりこういうメシって食わないから、嬉しいな」
「何だよ。貧乏くさいっていいたいの?」
「なんでだよ!いってねーよ!」

なんか最近、岡野の天邪鬼がひどくなっている気がする。
たまに俺ってそんな風に思われてるのかとびくびくしてしまう。
照れ隠し的なものだというのは分かっているのだが。

「こういう、ほら絵本に出てくるようなご飯、いいな。すっごいおいしそう」

和食が中心の俺の家には、ハンバーグもロールキャベツもあまり出てこない。
目玉焼きが乗ったハンバーグなんて、初めて食べる。
いつかなんかの本で見ておいしそうだなって思ったことは覚えてる。

「………いいから冷めないうちに食え」
「うん、いただきます!」

岡野がちょっと目を逸らして促すので、お言葉に甘えてまずハンバーグを口に運ぶ。
ソースとケチャップでできているらしいソースと、肉汁と目玉焼きが、口の中で絶妙にマッチする。

「おいしい!」

心から、素直に言葉が出てきた。
まだ熱いハンバーグは、予想以上に目玉焼きとよく合う。

「うまいよ、岡野!」
「そう」

岡野はそっけなくそれだけ言ったが、頬は緩んで耳がちょっと赤くなっている。
怒ってはいない。
たぶん、きっと、喜んでくれてる。
うん、そうだな、槇。
俺は岡野のこと、まだまだ全然知らない。

「何、宮守、ハンバーグ食べたことないの?」
「いや、さすがにあるけど、なんか、その、ふわっとした味がする」

竜君が不思議そうに見上げてくる。
ハンバーグはさすがに食べたことはある。
家でも以前出たことはあるし、一兄が連れて行ってくれた店とかで食べたことはある。
あれはデミグラスで煮込んだハンバーグだったっけ。
あれはあれでおいしいけれど、岡野のハンバーグもすごくおいしい。

「おいしいな。料理うまい姉ちゃんでいいな、竜君」
「うるさいけどなー。乱暴だし」
「おい、竜」
「ほら、すぐ殴る!」

生意気な口をたたく弟に、岡野は鉄拳制裁をくらわす。
頭を押さえて口をとがらせる竜君。

「お姉ちゃんいいお嫁さんになるよー。家事得意だしー。乱暴だけど」
「咲」
「ほら、乱暴」

そして今度は妹も茶々をいれるから、岡野は妹も軽くはたく。
見ていてつい笑ってしまう。
本当に仲がいい。

「もっとおしとやかになればいいのにね。ね?」

いきなり同意を求められて、魚を取りこぼしそうになった。
慌てて首を横にふる。

「え、いや、岡野は今のままでも、十分優しくて、女性らしいし」
「へー!」
「へー」
「え、え?」

咲ちゃんと槇が、なんだかにこにこと俺を見つめてくる。
なんだ、なんか変なことを言ったか。
きょろきょろとあたりを見渡すと、仏頂面をした岡野がもう一度咲ちゃんをはたいた。

「咲、いい加減にしろ。さっさと食え」
「はーい。そういえば宮守さん、食べ方すっごい綺麗だね。お魚そんな綺麗に食べる人はじめて見た」
「え?そう?」
「うん。すごーい」
「そ、そっか。いち、えっと、兄がすごいそういうことには厳しかったから。叩きこまれた」
「そうなんだ。うちはお姉ちゃんが食べ方うまくないからなー」
「おい」

一兄、教えてくれてありがとう。
一つでも褒められることがあるって、嬉しい。
竜君がその話を聞いていたのか、自分の魚の皿を差し出してくる。

「なあ、宮守。どうやって取るの」
「えっと、これはね」

一兄、本当に教えてくれてありがとう。
教えられることがあるって、嬉しい。

「チエ、さりげなく私のロールキャベツとるなよ!」
「あ、ばれた?」
「ばれるわ!」

そんなことをしていると、横ではまた別の攻防があったらしい。
岡野にガードされた槇がこちらを見てにっこりと笑う。

「じゃあ、宮守君ちょうだい?」
「え、やだよ!俺も食いたい!」

いくら槇の頼みでも、これは聞けない。
岡野のメシは俺が食う。

「チエさん、俺の食べる?」
「へー、竜、お前いつもは人の取るくせに」
「うっさいな」

なんだろう。
急に泣きそうだ。
胸がいっぱいになって、涙が触れてきそうだ。
苦しい。
食べたいのに、うまく飲み込めない。
なんで、こんなに苦しいんだろう。

「ありがとう、竜君。さすがに竜君から取ろうとは思わないよ。これで十分」
「だったら私からも取るな」
「それはまた別の話」

二人のやりとりを見ていたら、自然と笑いが溢れてくる。
楽しくて、仕方ない。
楽しいのに、切なくて、苦しい。

「あは!はははは!ははっ」

一粒だけ涙がこぼれたけれど、きっと誰も見なかった。
楽しい。

とても、楽しい。



***




「じゃあ、チエのことよろしくね」
「うん、責任もって送り届けます」

夕食は、あっという間に終わってしまった。
楽しい時間は、過ぎるのが本当に早い。
もう辺りは真っ暗で、初夏に近づいたとはいえ少し肌寒い。

「ま、あんた意外と強かったりするし、大丈夫か」
「意外とは余計だ」

岡野が槇と俺を玄関先まで見送ってくれる。
部屋着に着替えた岡野は、やっぱり少しだけリラックスしてゆるい感じで、いつもとは違う雰囲気にドキドキする。
こんな岡野を見れて嬉しい。
岡野のメシを食えて、本当に嬉しい。

「ありがとう、岡野。すごい美味しかった。本当に本当に、美味しかった。それに、楽しかった」
「おおげさ」
「でも、本当に、すごい、楽しかった。ありがとう」

嬉しかった嬉しかった嬉しかった。
絶対忘れない。
こんな日があったこと、忘れない。

「………」

岡野は俺の顔をじっと見て、眉を顰める。

「岡野?」
「………ううん」

けれどどうしたのかと問うと、首を横にふった。
それからいつものように不敵に笑う。

「どうしてもっていうなら、また、呼んでやる」
「うん!ありがとう!」

後、何度こうやって過ごせるだろう。
もう一回だけでもいい。
またこんな風に過ごせたら、それはどんなに楽しいだろう。
色々な表情を見せる岡野を、もっと見たい。
全て覚えていたい。

「ったく」

これは呆れているのかな。
照れているのかもしれない。
岡野のことずっと見ていたけれど、まだ知らないことがいっぱいある。
まだ、分からないことがいっぱいある。

「わ」

その時突風がふいて、岡野の髪が巻き上げられる。
長い髪は顔にまとわりついて、大変そうだ。
俺もとっさに、岡野の髪を抑えてしまう。

「大丈夫?」
「あ………」

すぐに手を離すと、岡野は俺が抑えていた髪を自分で抑えた。

「………っ」

思わず、息を飲む。
頭を横殴りにされたような、衝撃を受ける。
心臓が跳ね上がる。

「………」
「宮守?」

黙り込んだ俺を、岡野が不思議そうに見上げる。
その大きな目にも、首を傾げる仕草にも、心臓が締め付けられる。

「あ、ううん。なんでもない!」

でも、その痛みをなんとか追いやって、首を横に振る。
そして後ろで待っていた槇に振り返る。

「じゃあ、行こうか、槇」
「大丈夫なんだけどな」
「駄目。行くぞ」

栞ちゃんも槇も、なんで断るんだろう。
こんな夜遅くに女の子ひとり歩かせるわけにはいかないだろう。
槇は俺の言葉に、苦笑する。

「はい、ありがとう。じゃあね、彩」
「うん。気を付けてね」

岡野も手をふり、俺と槇は二人で歩き出す。
電灯が道を白く照らす。
そういえば前、こんな風に岡野とも一緒に歩いた。
あれは、クリスマスだった。
岡野がとても尊く大事なものだと、再認識した日だった。

「………」
「宮守君、どうしたの?」
「あ、ううん」

槇が横でにこにこと笑っている。
駄目だ、考えるな。
そんなこと、考えるな。

「彩って、いい子でしょう」
「うん、すごい、いいやつだよな」

優しくて強くて、凛としている。
憧れてしまう、真っ直ぐさ。
槇は嬉しそうに目を細めて、くすくすと笑う。

「でしょう。私ねえ、彩が大好きなんだ。あんな真っ直ぐないい子、中々いないよ」
「槇は、本当に岡野が好きなんだな」
「うん」

ためらいなく頷く槇が、なんだか羨ましくなってしまう。
二人の絆に憧れる。
岡野を好きだと言える槇が羨ましい。
そこまで槇に思われる岡野が羨ましい。

「だからね、彩には笑っていてほしいんだ」
「うん。俺も笑っててほしい」

岡野には笑っていてほしい。
ずっとずっと、温かいもので包まれていてほしい。
辛い思いなんて、してほしくない。
それは、俺も同じ気持ちだ。

「だから、宮守君にも笑っていてほしいんだ」
「え」

けれど、槇はにこにこと笑いながら、そう続けた。
文脈がよくわからなくて、まじまじと槇を見つめてしまう。
槇は俺を見上げて、優しい柔らかい声で言った。

「宮守君も、いっぱい笑っててね。いっぱい幸せになってね」

また、泣きそうになってしまう。
槇は岡野も藤吉も佐藤もみんな、どうしてこんなに俺を泣かせるのだろう。

「俺、今でもすごい、幸せだよ」

幸せなんて、今もう、手に入れてる。
そう、俺は今とても幸せだ。
こんなにも、温かい気持ちでいっぱいだ。

「俺、槇にも笑っててほしいよ」
「うん。ありがとう」

にっこりと笑う槇が、とても優しくて、苦しい。
幸せだ。
幸せだ幸せだ幸せだ。

だから、そんな勘違い、するな。
これ以上を望むな。

あの時。

あの時、俺が触れた髪を、優しく確かめるように髪を撫でる仕草。
蕩けそうなはにかむような、伏し目がちの笑顔。

そんなものは、ただの気のせいだ。





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