夜になって、部屋に宮城さんが訪れた。 気配を感じない小柄な老人は、いつもの通り生気がない様子でひっそりと話す。 「三薙様、お体の調子はいかがでしょう。もし大丈夫でしたら先宮がお話をしたいとお呼びです」 「父さん、が?」 「はい。お加減が悪いならまた後でも問題ないそうですが」 まだ微熱が残っていて、体はだるい。 でも、父さんには、会いたかった。 会うのは怖い。 何を言われるのか分からない。 でも、それ以上に、父さんが、先宮が、俺のことをどう思っているのか知りたかった。 怖いけれど、逃げていたら、駄目だ。 「いき、ます」 「かしこまりました。広間でお待ちです。お手をお貸しください」 強くなりたい。 強くなりたいよ、岡野。 後悔しない選択って、なんだろう。 宮城さんの手を借りて、いつもの広間になんとか訪れる。 だいぶ楽にはなったが、やっぱり体が重い。 「三薙が参りました」 「ああ、入れ」 外から声をかけると、中から厳しい声が入室を許可する。 宮城さんはそっと足音一つしない足取りで、去って行った。 陰鬱な気分をため息で吐き出して、ふすまに手をかける。 「失礼いたします」 父さんは真ん中で姿勢よく座っていた。 俺の方に視線を向けて、この部屋にいる時はいつも厳しい声を少しだけ和らげてくれる。 「体は大丈夫か?」 「はい、まだ、少し熱っぽいですけど」 「そうか。呼び出して悪かった。すぐに済む。そこに座ってくれ。楽にしてくれていい」 「………ありがとうございます」 体を引きずるようにして、先宮の前に座る。 楽にしていいと許可をもらったが、この部屋で足を崩す気にはなれない。 「お前を呼び出した理由は、他でもない、奥宮のことだ」 「は、い」 父さんは表情を変えないまま、静かな声でためらいもなく切り出した。 言いよどむ様子も、迷う様子もない。 いつも通りの冷静な態度だ。 「一矢に、一通りのことは聞いたな」 その冷静な態度に、恐れを感じる。 いつも威圧感を感じる、偉大な父。 まとう空気に圧倒されて、つい俯いてしまう。 「………はい。あれ、あの方は二葉叔母さんで、生きた捨邪地で」 思い出すだけで、体が震えてくる。 黒い黒い黒い、化け物。 人間の形をした、邪気の入れ物。 壊れてしまった、叔母さん。 いつか、俺がなる姿。 「そして、俺が、次代の奥宮になる、可能性があると」 「その通りだ」 「………っ」 父さんはやはり冷静に、あっさりと頷いた。 悲しみとも怒りとも恐怖ともいえない感情が、胸に溢れて息を飲む。 「何も言わず、すまなかった」 「………」 俯いて、畳をかきむしるように爪を立てる。 謝罪は、何に対しての謝罪なのだろう。 俺を騙していたこと? 俺を生贄にすること? 「お前にいらぬ心労をかけたくなかった。ただでさえお前は体のこともある。健やかに過ごしてほしかった」 「………」 健やかに過ごす。 そんなことは、もう不可能だ。 知らなかったら、幸せでいられたのだろうか。 「………でも、でも」 「なんだ。なんでも言ってくれ」 「………っ」 「三薙。構わない」 確かに、知ったことで、俺の日常は一変してしまった。 いずれくる終末におびえて生きるしかなくなった。 そう、終末だ。 いずれ、終わりがくる。 でも、それは真実を知っても知らなくても、来た終焉だった。 知らなくても、俺はいずれ、破滅を迎えた。 「でも、いずれは俺を、奥宮に、するつもり、だったんですよね!」 「………」 「俺を、生贄にして、何も知らないまま、アレにっ」 俺を騙して、俺を生贄にしようとしたのではないか。 あの、怖い生き物に。 雛子ちゃんに、祐樹さんに、順子ちゃんに。 「お前が候補の一人だということは、真実だ」 畳に立てた爪を、より食い込ませる。 叫びだしてしまいそうだ。 怖くて、逃げ出してしまいたい。 父さんが好きだった。 尊敬していた。 今だって敬愛している。 でも、父さんは俺のことを生贄だと思っていたのか。 母さんも一兄も双兄も天も、みんなみんなみんな。 「それはっ」 思わず顔を上げて、息を飲む。 父さんは眉を小さく顰め、めったに見ない表情をしていた。 苦しそうな、切なそうな、苦悩の表情。 「だが、お前に奥宮の座についてもらうことになったとしたら、全てを明かし、意思を問うつもりだった」 「とうさん………」 「それは今も変わらない。その時が来たら、お前が奥宮になるかならないか、問うつもりだ」 全てを言ってくれるつもりだったのだろうか。 意思を聞いてくれるはずだったのか。 俺は、ただ生贄になるためだけに、いたわけじゃないのか。 「選択肢は、あるんですか………?」 「奥宮の資質は、受け入れること。身を捧げる覚悟を持ち、全てを受け入れなければ奥宮とはなれない」 「………」 受け入れること。 身を捧げる覚悟を持つこと。 そんなの無理だ。 俺には、奥宮になる資質なんてない。 今だって、逃げ出してしまいたい。 「良くも悪くも、お前には、その覚悟を持つ強さも、受け入れる力も、備えている。だからこその、奥宮の候補だ」 そんなの、嘘だ。 俺には強さも、力もない。 嘘だ。 「俺、が………」 でも、父さんの目は真摯にまっすぐ俺を見ている。 俺には、その力があるのだろうか。 何も持たない俺が、本当に力なんて、あるのだろうか。 父さんや一兄や双兄や天のために、力になれるのだろうか。 「………」 でも、怖い。 アレになるのは怖い。 逃げ出したい。 でも、俺が、逃げ出したら、どうなる。 「………他の、候補って、誰なんですか」 「言えばお前は気にするだろう。知らずにいたほうがいい」 そんなの、当たり前だ。 俺が逃げ出したら、他の候補者がアレになる。 その人は、そのことを知っているのだろうか。 俺と同じように、何も知らないのだろうか。 その人を犠牲にして、俺は、逃げるのか。 「宮守の血に、連なる人間、なんですよね」 「ああ」 「………」 近い血を持つ、人。 きっと、俺の知っている人だ。 俺はその人を犠牲にするのか。 「他の候補者も、その覚悟を持てなければ………」 「少なくとも、候補の一人は納得はしている」 候補の一人、ということは候補者は複数いるのか。 その人が納得してくれている。 だったら、俺は、奥宮にならなくていいんじゃないか。 その人が、犠牲になってくれるなら、俺は助かる。 それなら、それがいい。 「だが資質の面で言えば、その候補では不安が残る」 「………っ」 資質が、不安。 じゃあ、俺は。 俺はどうなんだ。 俺は、奥宮にこそふさわしいのか。 「まだ時間はある。まだ、その時ではない。無理だとは思うが、必要以上に気に病むな」 頭がぐちゃぐちゃになって、ガンガンと頭痛がしてきた。 考えがまとまらない。 どうしたらいいか分からない。 もうずっと、頭が痛い。 「………」 「そんなわけにも、いかないがな」 気に病むな、なんて無理だ。 自分が犠牲になるか、誰かを犠牲にするか。 そんなのどうしたらいいか、分からない。 「だからこそ、お前にはまだ伏せておきたかった」 父さんがそっと立ち上る。 衣擦れの音がして、びくりと体が震えた。 「すまなかった」 立ち上がった父さんが、近づいてきて俺の頭に大きな手を置く。 思わず怖くて、身を竦めてしまう。 そんな失礼な態度の俺を気にすることなく、父さんは頭をゆっくりと撫でてくれる。 「お前が嫌なら、逃げてもいい。お前を苦しめたくなかった」 「父さん………」 見上げると、父さんは静かな、けれど悲しい光を宿す目で俺を見ていた。 胸が、痛くなる。 「まだ熱があるんだろう。もう休め。悪かった」 逃げてもいい。 でも、逃げたらどうなる。 分からない分からない分からない。 父さんの手は、温かくて、優しい。 部屋に帰ろうとして、ふと思い立って、弟の部屋に向かう。 ノックをしようとすると、その前に中から声がかかった。 「兄さん?」 相変わらず怖くなるほどに鋭い弟が、的確に俺の存在に気づく。 でも、今はそんなこと、どうでもよかった。 「入っても、いいか」 「どうぞ」 許可を得て入ると、天はベッドに転がって本を読んでいるところだった。 俺を顔を見て、小さく笑う。 「短い間で随分とやつれちゃったね」 あの日から二日経ったが、熱で食欲もなく、飯を全然食えていない。 空腹を感じる暇もなかった。 「座れば?具合悪いんでしょ」 天は起き上がり、自分のベッドの横を指さした。 実際まだまだ体はだるいので、お言葉に甘えて腰かける。 「………ありがと」 「どういたしまして。お茶でも飲もうか」 天はそのままベッドから降り電話に向かうと、内線でお茶を頼む。 そしてこちらを振り返った天を見上げる。 「聞いても、いいか?」 「俺で答えられることだったらなんなりと」 天はいつものようにどこか馬鹿にしたような態度で笑う。 何から、聞けばいいのだろう。 とりあえず今は、みんなの話を聞きたい。 「………」 立ったままの天は何も言わずにじっと俺を面白そうに見ている。 はぐらかされないように、しなければ。 知りたいことは、いっぱいある。 「………お前は、知ってたんだよな」 「何を?」 分かっているだろうに、まるで言葉遊びのように問い返す弟に少し苛立つ。 でもこんなことでイライラしていたら、話は進まない。 「俺が、奥宮の、候補だってことを」 「うん」 天はあっさりと頷いた。 まるで他愛のない世間話のように。 「ずっと、か?」 「そうだね、ずっと」 予想していた答えに、けれど落胆と怒りが沸いてくる。 みんなみんなみんな、やっぱり知っていたんだ。 父や兄たちだけではなく、弟ですら、知っていたのだ。 「俺が、いつか、生贄になるってことを、知ってたんだな」 「必ずなる訳じゃなかった。候補の一人だったからね」 そんなことは、関係ない。 候補だったことすら、俺は知らなかった。 「他の候補は誰か、知ってるのか?」 「知ってるよ」 「だれ、なんだ」 知らない方がいいとは言われた。 でも、やっぱり知りたい。 その人たちも何も知らないのだろうか。 俺は、知って、どうしようというんだろう。 「先宮か一矢兄さんに聞いて。俺は答えられない」 けれど天はあっさりと首を横に振った。 憤りを感じて、つい睨みつけてしまう。 「父さんは、教えてくれなかったっ」 「だったらそれが答えだ。先宮のご決断を、俺が覆すわけにはいかない」 いつもいつもこうだ。 大事なことは、何も答えてくれない。 「どうして、いつも俺のことなのに、俺が何も知らないんだよ!」 「なんでだろうね?」 馬鹿にされているようなやりとりに、唇を噛みしめ、布団を握り締める。 悔しい。 どうして、俺はいつだって蚊帳の外なんだ。 天は勉強机に背を預けて立ちながら、じっと俺を見ている。 「先宮と一矢兄さんはなんと?」 「………俺のために、教えないって」 「そう。それならそうなのかもね」 でも、確かに、父さんが決めたことなら、一兄も天も、それに従うしかないのだろう。 こいつを責めても、どうにも、ならないのだ。 何をしても、どうにもならないのだ。 「俺には、また、分からないことばっかりだ」 ようやく色々知って、手に入ったと思ったのに、そんなものはすぐに失われてしまった。 無力感と絶望感、諦観が身を包む。 トントン。 その時、天の部屋のドアが軽くノックされた。 お手伝いさんがお茶を持ってきたと告げる。 天が出てお盆を持ち運びながら、乗っている二つのカップのうち、ひとつを差し出す。 「はい、お茶」 反射的に受け取ると、それは爽やかなリンゴのような匂いがした。 いつものカモミールティーだ。 疲れ切った心に、じんわりとその匂いが沁みこむ。 「飲んで」 「………」 「喉渇いたでしょ?」 促されるままにお茶を二人で黙って啜る。 カップを半分ぐらいまで飲み干して一息つくと、カップが取り上げられ、ベッドサイドのテーブルに置かれた。 温かいお茶は、少しだけ心を休めてくれた。 「顔が赤いよ」 天が、俺の額に手を当てる。 その手は冷たくて、ひやりとして気持ちがよかった。 「少し落ち着いて。熱もある。体を休めないと、いい考えなんて浮かぶはずもない」 「いい考えなんて………」 何を指して、いい考えなんていうんだろう。 そんなものはない。 選択肢は、二つだけだ。 逃げてほかの候補者を犠牲にするか、それとも受け入れて化け物になるか。 そんなの、嫌だ。 「………俺は、奥宮になんて、なりたくない」 「だろうね。当然だ」 温まった体が、まだ冷えていく。 指先まで冷たくなって、体が震える。 「他の候補が、なればいいって、思ってしまう!」 「うん」 「怖い、逃げたい………っ」 天の手が俺の額を抑えて、俯こうとした顔を持ち上げる。 じっと、面白がるように見ている。 「逃げないの?」 「お前が、逃げられないって言ったんだろ!」 どこにも行けないと言った。 俺が知っているのは、この家の中だけだと言った。 それは、事実だ。 俺はどこにも逃げられない。 天が小さく声を立てて笑う。 「そうだね、兄さんは箱入り息子だから。世間知らずだ」 「………」 「逃げるのは、諦めた?」 逃げたい。 逃げたい逃げたい。 でも。 「俺が、逃げたら、他の候補が、奥宮に、なるんだろっ」 「そうなるね」 「………」 そんなの、嫌だ。 俺の知ってる誰かが、アレになるのだ。 そんなの、知りたくない。 そんなの、見たくない。 罪悪感を感じたくない。 「他の候補者のために、自分を犠牲にする?」 「………」 いっそ、それが楽なんじゃないかとすら思ってしまう。 誰からも責められない。 誰も犠牲にならない。 そして俺の力が、皆の役に立てる。 俺が、必要とされる。 「怖くて逃げ出してなりたくないって言ってるのに、すごいなあ」 「天!」 「こんなにすぐに、なろうかって思えてしまうんだから」 揶揄するようにくすくすと笑う。 怒りで天を殴りつけようとするが、その手は冷たい手で包み込まれた。 そして弟は手を握ったまま、俺を見下ろし顔を近づけてくる。 「落ち着いて考えて。兄さんが何を求めてるのか。何を知りたいのか」 額がぶつかってしまいそうな距離。 天の目は、吸い込まれそうなほどに黒く輝いている。 「どうして、奥宮になるのか。考えて」 「………天」 天が、にっこりと笑う。 「俺は、兄さんが求める答えは持ってない。でも兄さんの決断を尊重するよ」 「………何を、考えればいいのか、分からない」 もう、何を考えればいいのか、分からない。 みんな、何を言っているのか分からない。 勝手にごちゃごちゃ言うな。 もう、嫌だ。 「あんまり考えすぎると頭痛くなっちゃうよ」 天の冷たい手が、今度は俺の目を覆った。 視界が閉ざされ、真っ暗になる。 「ああ、でも、もう一つまた頭が痛くなることを言わなきゃいけないんだ」 「え」 これ以上、頭が痛くなるようなことなんてあるのか。 もうこれ以上は、受け止めきれない。 「次の儀式の日取りが決まったよ」 「あ………」 「一週間後だよ。後でまた宮城辺りから話があると思うけどね」 儀式。 俺が生きていくための儀式。 これで、一人で生きていけるかもって、思っていたのに。 あんな思いまでして、一兄と天に迷惑をかけて、力を得たのに。 「もう、疲れた………」 嫌だ。 疲れた。 何も考えたくない。 「目を閉じて」 目を覆っているのとは違うもう一つの手が、そっと俺の背を抱き込む。 言われるがままに目を閉じて、そっと息を吐く。 「とりあえず今は休んで。頭も体もゆっくり休めて。答えはきっと見つかるよ。たぶんね」 「………」 体が倒され、ベッドに沈み込む。 目をふさぐ手から、白い力をじんわりと感じる。 「俺は兄さんに嘘をついたことはないよ。隠し事はするけどね」 最後にそれだけ言って、天は眠りの呪を唱え始めた。 |