目を開けると、自分の部屋のものではない天井が広がっていた。
一瞬混乱して何度か瞬きする。
自分の部屋ではないが、この天井には、見覚えがある。

「………あれ、ここ、天の部屋?」

この天井は、あの棚は、そうだ、弟の部屋だ。
ようやく覚醒してきたところで、隣から声が聞こえた。

「おはよう」

声につられて隣を見ると、弟がちょうど身を起こしてあくびをしているところだった。
その姿に、癇癪を起して、天に眠らされたのを思い出した。
窓からはすでに朝日が忍び込んでいる。
また、そのまま寝てしまったのか。

「よく眠れた?」
「あ、うん………」

天が見下ろしてくるのに頷いて、自分もゆっくりと体を起こす。
まだ体は少しだるくて、頭が少しぼうっとする。
けれど、喉や関節の痛みがすっきりとしている。
よく眠ったのがよかったのだろうか。

「ごめん、風邪、うつってないかな。大丈夫か」
「まあ、大丈夫じゃないかな」

しかし一緒に寝てしまった弟にうつってないだろうか。
心配になるが、弟はなんでもないように首を横に振る。

「兄さんこそ熱は下がった?」
「………うん、たぶん」

そう言うと天は額を俺の額に合わせてきた。
ひやりとした感触が気持ちよくて、目をつむる。
汗を掻いてしまったようで、髪がしっとりと濡れていた。
ていうか風呂も入ってないし、汚いな、俺。

「まだちょっと熱いかな」
「そうか?」
「うん。今日は寝ておいた方がいいね」

天がのんびりと伸びをして、ベッドから足を下す。
そしてシーツを引っ張った。

「シーツとりかえよっか。汚れただろうし」
「ご、ごめん、俺がやる!」

そういえばシーツもベッドカバーもだいぶ汚してしまっただろう。
着ていた浴衣もしっとりと濡れている。
申し訳ないことをしてしまった。

「うーん、そうだな」

天は俺の提案に、首を少しだけ傾げる。
それから床に下り立ち、にこりと笑った。

「うん。じゃあ、今から替えを持ってきてもらうから、兄さん替えておいて」
「分かった」

慌てて何度も頷くと、天はどうもといって笑った。
棚の上にある時計に視線を送る。

「朝食までちょっと時間があるね。俺は道場に少し行ってくるから、待っててくれる?」
「え、へ?」
「俺が帰ってくるまで、待ってて」

待ってるって、なんでそんな必要があるのだろう。
この浴衣を着替えてしまいたいのだが。

「なんで?」
「たまには一緒に食事に行くのもいいでしょう?」
「ええ?」
「シーツはすぐ持ってきてくれると思うから、俺が帰ってくるまで、待っててね」

そう言いおいて、天はさっさと部屋を出て行ってしまった。
仕方なく、俺は替えのシーツがやってくるまで、ベッドで座ったまま待つ。
やっぱり少し体が熱を帯びて、頭がぼうっとする。
今日一日寝ていたら、きっとよくなるだろう。
そうだ、考えるのは、その後にしよう。
こんな状態で何かを考えても、何も浮かびやしない。
体を、休めないと。
体も頭も休めよう。
じゃなきゃ、何も考えられない。

トントン。

ドアが軽くノックされる。
お手伝いさんが、シーツの替えを持ってきてくれたのだろう。

「失礼します。シーツをお持ちしました」
「あ、どうぞ、ってあれ?」

聞こえてきたのは、男性の声で、しかも聴き覚えがある。
その名前を呼ぶ前に、ドアはカチャリと開いた。
そして現れたのは、予想通りの人の顔。
今日はスーツではなく、少しラフな格好をしている。
けれどまだ朝も早いというのに、髪も身なりも整っていた。
フレームの細い眼鏡は、神経質な印象を与える。

「あ、志藤さん」
「三薙さん!?」

志藤さんはここに俺がいるとは思ってなかったらしく、目を見開く。
俺も十分驚いてるのだが、その志藤さんの飛び上がらんばかりの驚きっぷりに、なんだか逆に落ち着いてしまう。

「ど、どうされたんですか?」
「志藤さんこそ」
「わ、私は、四天さんに頼まれて、シーツとベッドカバーを………」

確かに志藤さんの手には、天のベッドカバーとシーツがある。
しかし、そんなの、志藤さんの仕事ではないはずだ。

「ええ!?なんで志藤さんに。志藤さんの仕事じゃないでしょうに」
「ああ、なんか、たまにこういう雑用もついでに頼まれるようになりまして」
「あいつ………」

人使いが荒いにもほどがある。
一兄や双兄ですら、使用人にそんな扱いしない。
いや、双兄は熊沢さんにしているか。
でも、本来俺たちにそんな風に彼らを使うことは許されていない。

「すいません。今度言っておきます」
「あ、いいえ、いいんですよ。こういう機会でもなければ普段は四天さんとお話しすることも難しいですから。お話をする機会を作るために、呼んでいただける感じです」
「………お話」

まただ。
俺の方が志藤さんの友達になったのに、志藤さんは天とばかり仲がいい。
俺の知らないところで、二人は仲がよくなっていく。
いつも俺はなにも知らない。
何も知らないところで、事態は進んでいく。

「天、志藤さんのこと、本当に気に入ってますよね」
「え、え?」
「………ずるい」

誰も、俺に教えてくれない。
皆、俺を置いていく。
俺を置いて、全ては回り、進んでいく。
俺だけ、取り残される。

「俺だって、志藤さんと話したいのに」
「え、え、え!?泣かれてますか!?」

熱がまだあるせいか、感情の抑えが利かない。
何かすごく悲しくて悲しくて悲しくて、苦しい。
涙がぼろぼろと溢れてくる。

「う、くっ」

どうして皆、俺をのけ者にするんだろう。
俺のことなのに、なんで俺を、いれてくれないんだ。
どうせ、俺はやっぱり役立たずのみそっかすだ。
役に立つのは、奥宮に立つときだけだ。

「わ、私とでしたらいつだってお話していただいて構いませんよ!?あ、でも、先宮や宮城さんに見つかるとお叱りを受けるかもしれませんが………」
「四天とは、話してるのに………」
「そ、それは、三薙さんとは特に話すなと、えっと」
「う、ひっく」

ああ、志藤さんを困らせている。
こんな駄々をこねても仕方ないのに。
志藤さんには、なんの原因もないのに。
志藤さんは何もわからないのに。

「し、失礼します」

志藤さんが慌てて近寄ってきて、シーツをベッドに放り投げる。
驚いて顔を上げたところで、温かな手が俺の頬を両手で挟み込む。
そしてベッドの端に腰かけた志藤さんが、そっと優しい声で囁くように言う。

「そんなに悲しまないでください。あなたが悲しむと、私の胸は締め付けられます。いつも言っています。私はあなたと話したい。いつだって、一緒にいたい。その言葉は、信じていただけないのでしょうか」

真摯な響きが、胸にじんと伝わってくる。
この人は、俺のことを好きでいてくれるだろうか。
この人は、俺を見ていてくれるだろうか。

「………俺より、天のことが、好きじゃないですか?」
「………」

この前も聞いたのに、また聞いてしまう。
欲しい言葉を、この人がくれるから。
比べるものではない。
こんなの、比べても仕方ない。
でも、選んでほしい。
俺の方が、好きだと言ってほしい。
ああ、なんて甘えだ。
俺はこの人には本当に、甘えてしまう。
子供の我儘だ。

「ご、ごめんなさい、こんなの、馬鹿馬鹿しい」

羞恥が襲ってきて、涙を拭おうと志藤さんの手をどけようとする。
けれどそれを遮るように、志藤さんにその手を取られた。
大きな温かい手が、俺の両手を包み込む。
そして、優しく目を細めて笑った。

「四天さんのことはもちろん敬愛しております。けれど失礼なことを申し上げれば、間違いなく、私はあなたをより深く敬愛しております」

静かな強い言葉、まっすぐな視線。
この人がくれる肯定の言葉が、気持ちがいい。
自分がいてもいい存在なのだと、思わせてくれる。

そうだ、俺は、いらない存在だと思われたくなかった。
いていいのだと、好きなのだと言ってほしかった。
奥宮とならなくても、必要なのだと言ってほしかった。

「あなたを、深く、強く、大事に思っています」

志藤さんが、俺の手にそっと、その唇で触れる。
その部分からじんわりと熱が広がる気がした。

「………志藤さん」

この人がくれる思いは、本当にまっすぐで、気持ちがよくて、心がふわりとほどけていく。
大げさだと、過大評価だと思うけれど、それでも、それが勘違いであっても、嬉しい。
この人の好意が、嬉しい。

「ありがとうございます。あの、俺も、俺も志藤さんのこと、大好きです」
「………ありがとうございます」

志藤さんは困ったようにわずかに苦笑した。
ああ、本当に癇癪を起してしまった。
小さな子供のようだった。
一兄や天にも癇癪を起して甘えるが、志藤さんには更になぜか我儘を言ってしまう。

「すいません、こんな泣いたりして」
「いいえ、気になさらないでください。あなたが私に心をの内を見せてくださるのは、とても嬉しいです」
「えっと………」

優しい目で見つめられると、言葉が出てこなくなってしまう。
少し冷静になると、とても恥ずかしい。
でも、嬉しい。
志藤さんは、優しい。
神経質そうに見える人なのに、とても優しく穏やかで大らかだ。

「どうかされたんですか?気分が沈んでいらっしゃるようですが」
「………」

混乱はまだまだ続いている。
何をどうすればいいのか、さっぱり分からない。
当然、志藤さんにどう伝えればいいかなんて、分からない。
伝えていいのかも、分からない。
奥宮のことは、家の中でも一部の人しか知らないだろうから。

「言いづらいようでしたら、言わなくても結構です。もし言うことで三薙さんのお気持ちが楽になるようでしたら、どうか聞かせてください。あなたの苦しむこと、喜ぶこと、私はすべて知りたい」
「………っ」

優しい手と、真摯な視線に、すぐに泣き叫んで全部吐き出したくなる。
でも、駄目だ。
それは、いけない。
この人を巻き込んだら、いけない。

「志藤さん、志藤さんは」
「はい、なんでしょう」

でも、少しだけならいいだろうか。
この優しい人は、どんな答えを持つだろう。
この人が俺の立場だったら、どう思うのだろう。

「志藤さんは、もし、その、自分の命をかけたら、大勢の人が救えるってことになったら、どうしますか?」
「はい?」

唐突な質問に、志藤さんが不思議そうに首を傾げる。
そりゃそうだ。
あまりにも、唐突すぎた。
少しだけ考えて、たとえ話をする。

「その、えっと、ほら、映画とかであるじゃないですか。地球を救うために、隕石を止めるために死ぬってわかってて宇宙に行く、みたいな」

地球を救うなんて、大層なものはないけれど。
それに、かっこよくヒーローのようにいくわけでもないけれど。
自己犠牲をかっこいいと思ったことはある。
でも、いざ自分がその立場になると、足が竦む。

「すいません、変な質問をして」
「いえ」

志藤さんはわずかに眉を顰めて、視線を下に落とす。
やっぱり聞かなきゃよかっただろうか。
突拍子もないことを、言ってしまった。

「あ、あの、も、もう」
「そうですね。私は、大勢の人を救える、ということに命を賭すことは出来ないかもしれません」

もういいですと言おうとする前に、志藤さんが視線を上げる。

「ここでヒーローみたいに、私が犠牲になる、と言えるならかっこいいんですが、私は身勝手な臆病ものなので」

茶化す様に言って、悪戯っぽく笑う。
俺も、そんな風に言えたら、思う。
でも俺も身勝手で臆病だから、そんなこと言えない。

「大勢の人、なんて顔も知らない人たちのために、犠牲になることは出来ません」

志藤さんは自嘲するように笑って首を振る。
それから俺の手を握ったまま、少しだけ力を強める。

「でも、大事な人。その人のためなら、この身を賭すことも、厭わない。その人のためになることなら、私はどんなことでもするかもしれません」

大事な人。
一兄、双兄、四天、父さんに母さん。
岡野、藤吉、槇、佐藤、そして志藤さん。
他にも優しくしてくれた人がいる。
皆、大事な人。
あの人たちには笑って健やかに過ごしてほしい。
あの人たちにはずっと笑っていてほしい。

「でも、犠牲になったら、その人とは一緒にはいられないのでしょうか?」
「………そうですね。そうなります」

志藤さんがそこで考えるように首を傾げる。

「それだと、迷いますね。その人のためなら、私なんてどうなってもいい。でもその人と一緒にいたいです。困ります。我儘ですね、私は」

笑っていてほしい。
そして一緒にいたい。
そうだ、一緒にいたいんだ。
ずっとずっと、一緒にいたい。
一緒に、笑いたい。

「………確かに、困ります」
「あ、す、すいません。変なことを言ってしまって」
「いいえ」

志藤さんの言葉は、とても胸に沁みこんできた。
とても、よくわかった。

「志藤さんは、大事な人が、いるんですね」
「………ええ、とても大事な人が」
「俺も、います」

沢山いる。
俺に優しくしてくれた人。
守りたい人。
大事な人たちのため、俺には何が出来るだろう。

「………三薙さん、何か、あったんですか?」
「え」
「どうなさったんですか?」

落ちていた視線をあげると、志藤さんが心配そうに眉を顰めていた。
俺の手を握る手に、痛いほどに力がこもっている。
心配させてしまった。
駄目だ、しっかりしないと。

「いいえ。何もないです。夢を見たんです。怖い夢。それで、情緒不安定になっちゃって」
「そう、ですか」

志藤さんは納得していないような顔をしていたが、それ以上何も聞かなかった。
けれど俺の目をまっすぐに見て、言う。

「私は、あなたを失うなんて耐えられません。どうか無茶なことはしないでくださいね」
「………はい」

この人は俺を大事に思っていてくれる。
大切な友人だと、思ってくれている。
俺が思うように、きっと思ってくれている。

「はい、ありがとうございます」

それだけで、温かいものが満ち溢れる。
例えこれが大げさでも、社交辞令のようなものが含まれるとしても、それでも、きっと俺を好きでいてくれるのは、本当。

「はい、どうか、ご自分を大事になさってください」
「はい」

最後に目尻に残っていた涙を、志藤さんが拭ってくれる。
照れくさくてつい笑ってしまうと、志藤さんも小さく笑った。

「あ、そうだ、失礼しました。そういえば、シーツとベッドカバーはどういたしますか?」

ふと我に返った志藤さんが、隣に放り出されていたシーツを取り上げる。
そうだ、天が帰ってくる前に、取り替えてしまわないと。

「あ、俺が替えます。俺が汚しちゃったんで」
「え、シーツを?」
「はい。昨日天のベッドで寝たので」

沢山汗を掻いてしまった。
きっと天も不快だったろう。
布団も干せたら干した方がいいんじゃにだろうか。

「そ、そう、ですか………」
「志藤さん?」

志藤さんがぎゅっとシーツを握り締めたまま、視線を彷徨わせていた。
どうしたのだろう。

「志藤さん?」

名前を呼んでも、反応がない。
少しだけ、頬が赤くなっている気がする。

「志藤さん!」
「あ、は、はい!」
「シーツ、貸してください」
「あ、わ、私がやりますよ」

ようやく気づいてくれた志藤さんが、慌てて立ち上がる。
そして、シーツを広げようとする。

「そんなことさせるわけにはいかないですよ」
「いえ。このようなことは私が。あ、でも、恥ずかしいようでしたら」
「恥ずかしい?」
「あ、失礼しました!」
「へ?」

何を言っているのだろう。
まあ、人のベッドを汚してしまったのは確かに恥ずかしいことかもしれない。
そこでカチャリとドアがノックもなしに開いた。

「何やってるの。汚したのは汗。兄さんは熱が出てたからね」

天が呆れた感じで言いながら入ってきた。

「あ、天、お帰り」
「ただいま」

天は運動した様子はなく、さっき出て行ったままの姿だ。
そういえば、運動するにしては着替えてもなかった。
何をしてたんだろう。

「さっさとシーツ換えてくれますか?」
「は、はい!」

天の言葉に志藤さんが飛び跳ねるようにシーツを広げる。
こいつは本当に偉そうだな。

「思春期じゃないんですから」
「も、申し訳ありません!」

天のよく分からない言葉に、志藤さんが慌てて頭を下げる。

「天?志藤さん?」

何がなんだか分からないまま、弟と友人に問う。
天は小さく笑って肩を竦めた。

「まあ、仕方ないかな。兄さん、なんで浴衣なんて着てるの?」
「着替えが足りなくなったから、浴衣にしたんだ」

いつも来ているスウェットとかは、全部洗濯してしまった。
浴衣ははだけてしまって苦手だが、仕方ない。
そういえば今もみっともなく着崩してしまっている。

「そう。浴衣も着替えた方がよさそうだね」
「あ、そうだな」
「手伝ってもらったら。ね、志藤さん?」
「四天さん!」

志藤さんが焦ったように怒鳴りつける。
手伝ってもらうつもりなんて、別にないのに。

「志藤さん、別に俺、一人で着替えられますから、気にしないでください」
「失礼します!シーツをお取替えいたします!」

志藤さんは顔を赤らめて、そう宣言した。
天は楽しそうにくすくすと笑っている。

何がなんだか、分からない。





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