双姉も双兄も、一兄も天も、全て拒絶して、ただ離れにこもる。
このまま時が過ぎるなら、過ぎればいい。
どうせ俺には何もできない。
奥宮にしたいのなら、すればいい。
憎むことも、恨むことも、逃げることも、八つ当たりして当り散らすことも、出来ない。
何も出来ない。
俺はただ、食事をして、排泄をして、寝て、生きるだけだ。
それだけしていれば、いいんだ。
そうして受け入れれば、もう痛いことはされない。

そう考えても、痛みも哀しさも切なさも消えない。
胸にずっと消えない痛みがある。
どんどん強くなる。
しくしくと、痛んで、どうしようもなくて、叫びだしたくなる。

もう、いっそ、楽になりたい。
何も考えたくない。
何も考えないでいられるのなら、何をしてもいい、どうなってもいい。
ずっと眠っていたい。
消えたい。
こんな世界から、いなくなりたい。

そうだ、いっそ、消えてしまいたい。
このまま呼吸を止めてしまえば、楽になれるだろうか。
存在することを停止してしまえば、何も考えなくて済む。
もう、痛いことも哀しいことも苦しいことも、ない。
テーブルの上に乗っているグラスを割って、その破片で首を切り裂けばいい。
風呂に入って、沈んでしまえばいい。
置いて行かれる薬を、一気に全部飲めばいいだろうか。

消えて、しまいたい。

カラカラカラ。

今日も離れの玄関が開く。
今度は誰が、どんな真実を持ってきたのだろう。
どんな痛みを苦しみを、持ってきたのだろう。

襖が開き現れたのは、眼鏡の、制服姿の少年。
はじめてできた友達。
友達だと思っていた、少年。

「………三薙、学校へ行こうか」
「………」

藤吉は、ぎこちない笑顔で言った。
笑顔を作ろうとして、失敗したような、へたくそな笑い方。
いつもの朗らかで明るい笑顔とは、まったく違う。
憧れていた、太陽のような友人。

どうせ全部嘘だったのなら、今も嘘をついてくれればいいのに。
最後まで変わらない日常を演じてくれればいいのに。
そうしたら、俺はそれに浸って、最後まで過ごす。
今度は、騙されきってみせる。

「行きたくない?」

藤吉が気遣うように首を傾げる。
心配そうに眉を顰め、優しく問いかける。

「………まだ、体調、よくないかな?」

中途半端な優しさなんて見せないでほしい。
騙すなら、最後まで、騙しきってほしい。
見透かせる嘘なんて、いらない。
真実だと信じられる嘘が欲しい。
そうでないのなら、いっそ正直に俺を道具扱いしてほしい。
中途半端が、一番、嫌だ。

「行く」

嘘だらけの世界。
真実は痛いものだらけ。
俺に出来るのはただ泣いて、日々を見送るだけ。
だったら、せめて、優しい嘘を見ていたい。
中途半端な優しさしかないのなら、偽りの日常を過ごしたい。

「そっか。制服持ってきた。朝食は、母屋で食べる?」

藤吉が、ほっとしたように顔を綻ばせる。
俺を気遣う様子に、苛立ちを覚える。

「………」

首を横に振る。
家族の誰とも顔を合わせたくない。
そういえば、父さんとも母さんとも、随分話していない。
あの二人は、どうしているのだろう。
母さんは、俺のことを知っているのだろうか。
父さんと二葉叔母さんのことを、知っているだろうか。

「そうか。じゃあ、持ってくるな」

考えても、仕方ない。
どうせ、本当のことを知っても、苦しいだけだ。

だから、見たいものを見つめていよう。
きっと母さんは何も知らない。
寝込んでいる俺を心配してるはずだ。

「そうに、決まってる」

食事をとって、身支度を整え、久々に外に出た。
明るい日差しに、眩暈がする。
ずっと動かずにいたせいで萎えた足が、ふらつく。

「大丈夫か?」

よろけた俺を藤吉が支える。
触れられるのが怖くて振り払うと、藤吉が傷ついた表情を見せた。
その顔は嘘なのか、本当なのか。
それすら俺には分からない。

「いい天気だな」

藤吉はずっと黙り込む俺を気遣うように、絶え間なく話し続ける。
言われて空を見上げると、確かに空は晴れ渡って、透けるような青を見せていた。
青い色は好きだ。
五月の風は爽やかで気持ちがいい。
地面を踏みしめることが、なんだか新鮮に感じる。
非現実感でいっぱいの、現実。

「ノート、渡してなかったな。後で全部コピーするから。分からないところがあったら聞いてくれ」
「………」

もうすぐ中間だっけ。
勉強していないな。
どれくらい、俺は学校を休んでいたんだっけ。
ゴールデンウィークを挟んだからそんなでもないかもしれない。
勉強、しなきゃな。

「なあ」
「ん、なに?」

藤吉が笑いながら、俺を見下ろす。
わざわざ迎えに来てくれた、友人。
これが、ほんの一か月前だったら、どんなに嬉しかっただろう。

「誠司は、俺を見張ってるの?」
「………」

藤吉は、わずかに眉を寄せた。
けれどほとんど表情を動かさず、ただ、黙って俺を見下ろしていた。

「そう」

どうせ、逃げることなんて出来ないのに。
馬鹿馬鹿しくてつい笑ってしまう。

ああ、でも、このまま駅に向かって走って、電車に飛び込むことぐらいは出来るだろうか。
高いところから飛び降りることが出来るだろうか。
でも、人に迷惑はかけたくないな。

ひっそりと、誰にも見られずに、消えていく方法はないだろうか。



***




「宮守君!」

教室に入ると、槇が目を丸くして駆け寄ってくる。
心配そうに顔を曇らせる表情に、久々に胸に熱が灯る。
家族や藤吉が心配そうにしていても、心は凍るだけだった。

「よかった、体、大丈夫?」

でも、同じ言葉でも、槇の言葉がこんなにも胸を打つ。
泣き出してしまいそうだ。
藤吉の言葉が本当なら、二人は何も知らない。
何も知らないのに、俺を大事な道具と思っていないのに、心配してくれる。
ただ、友人を思ってくれている。

「………うん、大丈夫」

嬉しい嬉しい嬉しい。
動かずにいた感情が、蘇ってくる。
温かい、嬉しい、心地が良い。

「宮守君?」

槇が俺の顔を見て、不審そうに首を傾げる。
じっと俺の顔を見てから、ふと後ろにいた藤吉に視線を送る。

「おはよ、槇。俺、先生に用事あるからちょっと職員室行ってくる」
「おはよ、藤吉君」

藤吉は俺の知っているように朗らかに笑って、教室から出て行った。
その後ろ姿を見届け、槇が俺に視線を戻す。

「………」

そして俺の顔をみて、口を開こうとする。
けれどその前に、どんと背中が押されて、よろめく。

「わ」
「………まだ、顔色、悪いじゃねーか。ふらふらだし。何やってんの、あんた」

後ろを振り向くと、そこには不機嫌そうな岡野がいた。
眉をつりあげ、怒っているように、腕組みをしている。
でも、それは怒ってるんじゃないって知っている。
心配しているのだと分かっている。
岡野が嘘じゃ、ないのならだけど。

「………ごめん、岡野。久しぶり」
「謝れなんて言ってない」

嘘かもしれない。
信じきれない。
でも、やっぱり嬉しい。
岡野が心配してくれるのが嬉しい。
槇が優しいのが嬉しい。
信じたい。
この二人だけは、信じたい。

最後の日常を失いたくない。
奪わないで。
俺から、とらないで。

「さっさと直せ、この馬鹿」
「………うん」

そっぽを向いて唇を尖らす岡野を見ると、胸が痛い。
突き上げる衝動に、声を上げて泣き出してしまいたい。
岡野を抱きしめたい。
その存在を、確かめたい。

駄目だ、落ち着け。
この日常を、壊すな。
最後の日常を、守り抜け。

「あのさ、あの、プリン、おいしかった。二人とも、ありがとう」
「………ふん」

何を食べても、味がしなかった。
でもあのプリンだけは、とてもおいしかった。
残りの二個は、大事に大事に食べた。
あれを食べているときだけ、元気が出た。

「おいしかった?」

槇がにこにこと笑いながら聞いてくる。
その柔らかい優しい笑顔が、酷く懐かしかった。

「うん、すごく、おいしかった」
「そうでしょ。彩、すごい頑張ってたから」
「おい!」

その言葉に怒って、岡野が槇の背中を小突く。
そして俺をじっと睨みつける。

「あれ、作ったのは、ほとんどチエだから!」
「………うん」

でもその耳は赤くて、つい笑ってしまう。
変わらないやりとり。
変わらない日常。
この二人は変わらない。
この二人だけは、変わらない。

「なんだよ、その顔!」
「ううん。でも、岡野も作ってくれたんだよな?ありがとう。すごくうれしかった」
「あ、ば、馬鹿じゃねーの!」
「もう、素直じゃないんだから」

槇が呆れたように肩を竦める。
岡野はムキになったように、視線を逸らす。

「あ、あんたのためじゃないから!ほら、その、お兄さんとかに、あげたかっただけだから!」
「ああ、そっか」

だから、四つあったのか。
そうだな、いつもだったら、皆で、食べた。
岡野と槇がくれたんだって言いながら、笑いながら、食べただろう。

「ごめん、おいしかったから、俺が全部食べちゃった」

でも、全部俺が食べてしまった。
四つある意味なんて、考え付きもしなかった。

「ば、馬鹿じゃないの」
「馬鹿だな。本当にごめん」
「………」

本当に馬鹿だな。
岡野と槇の気持ちを、無駄にしてしまったかもしれない。
謝ると、岡野はやっぱり怒ったように唇を尖らす。

「あんなのでいいなら、また作る」
「え」
「だから、早く、病気なんて治せ、このへたれ!」

きつい言葉、きつい態度、でもその赤くなった耳だけが、隠せない。
岡野の優しさは、隠しきれない。

「ふん」

そのまま足音荒く、教室を出て行ってしまう。
変わらない、俺に残された日常。
大事な大事な、日常。

「………」

ああ、まだ、残ってた。
俺の世界は、ここにまだ、残されていた。
まだ全部失われてなんかなかった。

「………宮守君、何かあった?」

隣にいた槇が俺をじっと見つめている。
笑顔はなく、真剣な表情だ。

「槇………」
「具合悪いだけじゃ、ないんじゃないかな?気のせい?」

槇は、とても鋭い、頭のいい女の子だ。
そもそも、俺は隠し事が苦手だし、何か気づかれてしまっただろうか。
どうしよう。

「………家で、何かあった?」
「あ………」

駄目だ。
ここで、日常を壊したくない。
俺の事情なんて知られたくない。
槇にも、変わらずにいてほしい。

「三薙、おはよー!!」

その時突然、後ろから抱き着かれて、全身に緊張が走る。
いつもいつも、気づかないうちに後ろにいた。
前はその柔らかい感触に、困りながらもドキドキしていた。
今は、首に回される腕が、恐ろしくて、言葉を失う。

「病気治ったの?よかったね。ねえねえ、今日って遊びにいける?」
「駄目だよ、千津。まだ具合悪そうだから」
「えー、そうなの。じゃあ、また今度だね」

俺の肩越しに槇と話す佐藤は、きっと楽しそうに笑っている。
いつもと変わらず、元気で明るい佐藤のままだ。

「今度絶対、遊びに行こうね!」

槇がその言葉に俺に視線を戻す。

「そうだね、元気になったら、皆でどこか遊びに行こうね」
「………うん、そうだな」

どこかに、行けるだろうか。
それは、俺に許されるだろうか。
岡野と槇と、また出かけることは出来るだろうか。
藤吉と佐藤の前で、笑うことは出来るだろうか。

「あ、授業始まっちゃうね。もう行くね」

槇が時計を見て、出口に向かおうとする。
しかし一旦足を止めて、俺の顔をじっと見る。

「宮守君、あのさ」
「なに」

じっと顔を見つめる槇に、なんとか顔を動かし笑顔を作る。
いつも通りの態度は、出来ているだろうか。

「………ううん、なんでもない。じゃあ、また後でね」

気遣わしそうに顔を曇らせながらも、槇は手を振って出て行った。
何か気づかれただろうか。
気を付けなければいけない。
あの二人には、何も知らせたくない。

「三薙が逃げたら、あの二人はどうなっちゃうんだろうねえ」

後ろから抱き着いたままだった佐藤がそっと耳元で囁く。
吹きかけられた息に、ぞくりと寒気が背筋に走る。

「………佐藤」

手を振り払って身を離し、佐藤に向き合う。
佐藤は明るく楽しそうに、笑っていた。

「あ、別に私がどうこうするって訳じゃないよ?二人は大事な友達だしね」

くすくすと笑いながら、可愛らしく首を傾げる。
周りから見たらきっと、楽しそうな話をしているようにしか見えないだろう。

「ただ、奥宮だっけ?あれに、誰もならなかったら、この土地って荒れるんでしょ?二人が巻き込まれたら可哀そうだねえ」

岡野と、槇。
俺に残された最後の日常。
大切な、俺の世界。

「巻き込まれないと、いいね?」

宮守の家とは関わりのない、二人。
大事な二人。

「佐藤」
「なあに?」

俺の周りには誰もいなかった。
友達なんて出来なかった。
やっと、出来たと思った。
でも、本当は宮守の家に許された人間しか、いなかった。

「………あの二人を選んだのは、佐藤なの?」

だったら、あの二人は、なぜ残された。
なんの事情も知らない、二人。
佐藤が、楽しそうに唇を歪めて笑う。

「二人とも、強くて優しい可愛い女の子。三薙の好みでしょ?」

岡野も槇も、大好きだ。
佐藤も、ずっと憧れていた。

「でも、私が一番好みのタイプだと思ったんだけどな、ざーんねん」

元気で明るい人と一緒にいると楽しいから、好きだった。
男も女も、昔からそんな人にばかり惹かれていた。

「………そっか」

大切な大切な、最後の日常。
大事な世界。
愛しい、友人たち。

俺をこの世界につなぎとめる、大切で大事で愛しい鎖。





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