白い世界。 柔らかい、乳白色の、温かみのある世界。 白い場所に、俺はいた。 「………」 ぼんやりと、ただ立っている。 怖くはない。 だって、この世界を知っている。 ここの主を、俺は知っている。 「あ………」 世界は急に色を変え、青い世界へと変化する。 青い空、青い海、照りつけるような太陽。 波を打つ音、吹き抜ける風、けれど、匂いだけがない。 憧れていた、海。 皆で行きたかった海。 「双姉 いるの?」 世界が少し揺れた気がする。 どこにいるのかと、辺りを見渡すが、姿は見えない。 波の音が、ただ響くだけ。 「………こんなの、やめてくれ」 海に行きたかった。 皆で行きたかった。 でも、行きたかったのは、優しい世界で皆で行く、海だ。 こんなの、違う。 「双姉、やめてくれ」 もう一度繰り返すと、世界はまた変化する。 青い世界は、急に暗くなり、辺りにざわめきが満ちる。 浴衣姿の人たちが、俺の周りを行き交う。 明るくしゃべる声、太鼓の音、笛の音、出店の客を引くの声。 赤い、青い、黄色い、光がゆらゆらと揺れる。 思わず見とれてしまう、幻想的な風景。 小さいころ、連れて行ってもらったお祭りだ。 はじめて行ったお祭りは、見るものすべてが綺麗で不思議で、とても楽しかった。 「双姉、やめて」 けれど、それは綺麗であればあるほど、一夜の夢なのだと感じられて哀しい。 一瞬で消える幻。 まるで、俺が今まで見てきた世界のようだ。 そんなのは、これ以上、見たくない。 「双姉!」 もう一度強く名前を呼ぶと、ぴたりと、周りの音が消える。 行き交う人々の中、俺の前方に、背の高い女性が立っている。 長い髪に長い手足、白いワンピースを着た、綺麗な女性。 「………ごめんなさい」 俺の姉である人は、哀しげな表情でぽつりとそう言った。 海もお祭りも、大好きだった。 だからこそ、苛立ちが止まらない。 「こんなのは、いらない!」 苛立ちのまま叫ぶと、ぱちんと何かが弾ける音がした。 一瞬で雑踏と暗闇の夢は消え、乳白色の世界が戻ってくる。 双姉は変わらず、そこに佇んでいた。 「ごめん、なさい」 俺を喜ばせようとしたのだろうか。 前だったら、とても嬉しかった。 双姉の世界を心行くまで堪能しただろう。 「もう、嘘は、信じられない」 でももう、嘘の世界は、信じられない。 嘘は、壊れてしまった。 だからもうどんなに取り繕っても、幸せな世界は戻ってこない。 「信じたかった」 双姉がくしゃりと顔をゆがめる。 その悲痛な表情は、顔立ちも含めて双兄とそっくりだった。 「お祭り、好きだったわね」 懐かしむように、無理やりに笑顔を作る。 もてあます様に指を何度もからめたりはなしたりする。 「一緒に行ったよね。ちょっと手を離したすきに迷子になって、泣いて双馬を探すあなたがかわいかった」 双兄に連れて行ってもらった縁日で、出店に気を取られてはぐれてしまった。 泣きながら歩く俺を双兄が汗だくになって探してくれた。 安心して更に泣きじゃくる俺を、馬鹿と言って頭を叩きながら抱きしめてくれた。 「双馬を見つけて脇目も振らずに駆けてきて抱き着いたあなたが、愛しかった」 双兄の顔を見た瞬間、心から安心できた。 もうこれで大丈夫だと思った。 意地悪だけど頼もしくて楽しい兄が傍にいてくれた。 それが、嬉しかった。 「私も抱きしめたかった。頭を撫でたかった。手をつないで、一緒に出店を回りたかった」 「………」 「愛してるわ、三薙。本当に、愛してるの」 優しく囁く言葉は甘くて蕩けそうで、切実な響きが滲んでいた。 胸が、じくじくと、痛んで血を流してるようだ。 嬉しい、哀しい、苦しい、きっと、そのすべてだ。 「………そう」 「双馬も、あなたを愛してる。愛してるのよ」 俺の前で弱弱しく泣き崩れた次兄。 強くて頼もしい兄のそんな姿を初めて見た。 俺に真実を教えたかったと言った。 俺の優しい世界を壊した。 「きっと、兄さんも四天も、愛してる。父さんだって母さんだって、あなたを愛してる」 俺を騙して優しい世界を見せたまま、いいようにしようとした人。 真実を暴いて、痛みを教えた人。 どちらが、より俺を、苦しめたのだろう。 俺は愛されてきた。 優先されてきた。 大事にされてきた。 それは確かだ。 「俺は、道具として、愛されてきたんでしょう?」 だって俺は大事な道具だ。 「そう、よね」 双姉が苦しげに眉をよせ、唇を震わせる。 まるで俺がいじめているようで、ちらりと罪悪感が沸く。 「そう、思うわよね。そうよね」 「たとえ、本当に愛されていたのだとしても、結局道具として扱われるなら、一緒だ」 「………」 双姉を傷つく姿に、暗い喜びを感じてないとは言えない。 だって、双姉は、俺の言葉が届いている。 他の誰も、俺の言葉を聞いてもいなかった。 反応が返ってくるのは、それがどんな感情であれ、嬉しい。 「ごめんなさい。本当にごめんなさい」 双姉が目を伏せ、地面もない乳白色の世界で、足元を見つめる。 何度謝られても、許すとも許さないとも言えない。 何を許し、許さないのか、分からない。 「私が、ちゃんと、生まれていれば、よかった」 「え」 双姉がぽつりと言った言葉に、何のことか分からず声をあげる。 そんな俺を見て、自嘲するように笑う。 「奥宮は、女性がほとんどなの。陰の気を持ち、受け入れる器として、女性の性質の方があってるから。だから、歴代の奥宮も、ほとんどが宮守直系の女子が担ってきた」 そういえば、二葉叔母さん、五十鈴姉さん、そして栞ちゃん。 それに、歴代の謳宮祭の舞手は、女性ばかりだった。 そう言われると、女性であることは納得できる。 「時折男子でも才能を持つ人間が現れた。あなたみたいに。めったには生まれないけど、その分強い性質な人が多かったらしいわ」 「………」 「でもきっと、女子が生まれていたら、女子がその役目をおったわ。耐久性や扱いやすさが女子の方が向いていたから。儀式の方法もね」 儀式の、方法。 女性である姉に言われて、顔に熱が集まる。 他の人にも知られているのだろうが、女性に知られてるとなると羞恥が強くなる。 だが、次の瞬間に、言葉の意味を理解して、愕然とする。 「そんな、の」 確かに身体的には、あの儀式は男女の方がいいのだろう。 でも、女性でもあの儀式をするのか。 やっぱり二葉叔母さんも父さんとしたのか。 それは、より、グロテスクに感じて吐き気を覚えた。 それを続けてきたのだとしたら、どんなに呪われた血筋なのだろう。 「私が、生まれていたら、代わってあげられた」 双姉は俺の動揺を気にせず、目を細めて笑う。 苦しげな、切ない、笑顔。 「代わってあげたかった。あなたに辛い思いなんてさせたくなかった。あなたにはなんの辛い思いもさせたくなかった」 双姉が恐る恐る近づいてきて、俺の頬をほっそりとした指で触れる。 優しく、羽毛のように撫でる。 「あなたには、ただ幸せで、笑っていてほしかった」 胸が痛い。 生きることもできなかった人が、犠牲になることを語る。 人に裏切られた、酷いとただ泣く俺に向かって、代わってあげたいと語る。 「どうして、こんな無力なのかしら。どうして、私は何も出来ないのかしら。この手は、何もつかめないの。この身はなんの役にも立てないの」 「………」 「ごめんなさい」 自分の無力さに嘆く気持ちは、よく分かる。 でも、双姉と違って、俺は手を伸ばせる、身を動かすことが出来る。 ずっと、出来ることがある。 「………双姉」 「こんなこといっても、あなたは困るだけね。結局私は、何も出来ないのだから」 双姉は、本当に、何も出来ない。 したくても、出来ない。 それを許されない。 一緒に手をつないで祭りに行くこともできなかった。 「どうして………」 可哀そうというのは、抵抗がある。 けれど、俺よりもずっと、可哀そうだ。 そう考えると、自分の苦しみが、まるで我儘のようにも感じてくる。 「どうして、詰ることも、出来ないんだよ………」 自分の身を文字通り削って、痛みに耐えながら奥宮の器となろうとした栞ちゃん。 自分の身はなく、ただ見ていることしかできず、それでも犠牲になりたいと語る双姉。 そんな人たちを見たら、俺は、何も言えなくなる。 「どうして、八つ当たりすることも、許してくれないんだよ!どうして、どうして、どうして!」 ただ俺が我儘を言ってるだけに感じてくる。 人を憎むことが、やっぱり、出来なくなる。 「どうして、憎むこともさせてくれないの」 「三薙………」 「苦しいよ………、苦しい」 力が入らず、その場にしゃがみ込む。 憎みたかった。 そうしたら、きっと楽になれた。 自分は悪くないと、周りの人間が悪いと、詰り憎みたかった。 でも、俺は、それすら、出来ない。 「三薙」 双姉が俺の前に座り込み、そっと頭を抱え込む。 優しく滑らかな手が、髪を撫でる。 「怒って詰って問い詰めて、憎んで」 そう言ったのは、誰だったっけ。 栞ちゃんだっけ。 二人とも俺よりも酷い目に遭っている。 それなのに、泣き言も、言わない。 俺みたいに、泣きわめいて、逃げ出したりしない。 ただ、痛みに立ち向かう。 強い人たち。 弱い俺とは、大違いだ。 「あなたにはそれをする権利がある。あなたがそうしても、誰もあなたを責めたりしない」 「………」 「あなたは、苦しんでいるのだから」 そう言って、俺を慰める。 俺を甘やかす。 強くなりたい。 ずっと思っていた。 強く、立てる人間になりたかった。 「双姉………」 抱きしめられたまま、心がまた黒く染まる。 どんどんどんどん、黒くドロドロとしたものが、たまっていく。 溢れて溺れて、息が出来なくなりそうだ。 「双姉、あの日から、今まで、どうしていたの?」 双姉は優しく優しく髪を梳きながら、答えてくれる。 「あの日から軟禁はされていたけど、ひどいことはされていないわ。父さんも兄さんも、自分の役割に忠実だけど、酷い人じゃないの。家族を大切にしている。でも、ただ、家を背負っているだけなの。辛い、立場だから」 父さんや一兄の立場なんて聞きたくない。 仕方がないなんて、思いたくない。 それなのに、二人の重圧を考えると、納得もできてしまう。 「どうして、出られたの。俺のもとに、これたの?」 「あなたと、話してほしいって、そう言ってたわ。ほかの人だと、傷つけるだけだからって」 「………そうか」 思わず笑ってしまった。 楽しくなって、体を震わせて笑ってしまう。 「三薙?」 双姉が不思議そうに、俺の名前を呼ぶ。 けれど、笑いは止まらなかった。 「双姉は、優しい、ね」 優しい双姉は、本当に優しくて、心から俺を慰めたいのだろう。 弱い双兄も、本当によわく優しく繊細なのだろう。 きっと、それを父さんも一兄も天も、分かっている。 「本当に、優しくて、役割に忠実だ」 こうして、甘く優しく、そして確実に、俺の逃げ道を塞いでいくのだから。 |