世界が灰色になった気がする。 色彩がすべて失われていく。 でも、それでいい。 もう何も、感じたくない。 何もかもが消えてしまえばいい。 なのに、まだ心は軋みつづける。 いつになったら、この痛みから、逃げ出せるのだろう。 「三薙さん、お帰りですか?」 無意識に足を動かしていると、不意に声が耳に入ってきた。 どこか遠くに感じて、顔を上げるまで時間がかかる。 重い体をなんとか動かして声の主を探す。 すぐ隣の車道に、セダンが横付けされていた。 ウィンドウから、眼鏡の少し神経質そうな男性が顔をのぞかせている。 「………志藤さん」 また無意識に名前が口からついて出る。 志藤さんは俺の隣を見て、慌てて頭を下げる。 「お友達とご一緒だったんですね。失礼いたしました」 「あ、いえ、こんにちは」 「こんにちは。急に声をかけたりしてすいません」 「いえいえ」 藤吉と志藤さんのやりとりをぼうっと見ていると、藤吉が小さく耳打ちする。 「家の人?」 「うん、使用人の、人」 そうだ、志藤さんは、宮守の家の人。 使用人で、家に仕えている人。 「お二人とも、お送りいたしましょうか?」 「俺は、結構です。三薙だけお願いできますか?」 「よろしいのですか?」 「はい、俺は近くなんで。三薙のこと、よろしくお願いします」 「はあ。三薙さん、どうされますか、お二人お帰りになりますか?」 志藤さんが困ったように眉をよせて、俺に聞いてくる。 首をゆるゆると横に振る。 「大丈夫、です。送ってください」 藤吉と、一緒にいたくない。 隣には、いたくない。 「………はい。承知いたしました」 志藤さんが車から出てきて、助手席の扉を開ける。 「では、三薙さん、どうぞ」 のろのろと助手席に乗り込むと、藤吉が手をひらひらと振る。 俺が見てきた、朗らかな明るい笑顔で。 ああ、その顔を、ずっとしてくれていたらいいのに。 「じゃあな、三薙。また明日」 「………うん」 手を振る気力もなく、ただ頷く。 明日も学校、か。 行きたい。 でも、明日はまだ笑えるだろうか。 明日はまだ頑張れるだろうか。 「では失礼させていただきます」 「はい、どうもありがとうございました」 志藤さんが藤吉に頭を下げて、静かに車を発進させる。 そして明るい声で聞いてきた。 「礼儀正しい方ですね。あの方が藤吉さん、ですか?」 「………はい」 「………」 車内に沈黙が落ちる。 どうにかしなきゃと思うが、言葉が出てこない。 頭が働かない。 疲れた。 とても、疲れた。 黙ったまましばらく走ったところで。志藤さんが人通りのない狭い路地に入り、車を停車させた。 そして、前を向て座る俺に向き合う。 「三薙さん、どうかされたのですか?何か、ありましたか?」 俺も、視線を、志藤さんに向ける。 心配そうな表情。 気遣わしげな声。 縋りたくなる、優しい仕草。 でも、皆、優しかった。 心配してくれていた。 それはすべて、嘘だった。 「志藤さん………」 「はい」 「志藤さんは、双兄や、熊沢さん、宮守の命令で、俺の助けをしてくれましたよね」 「え、はい」 この人は、藤吉や佐藤や岡野や槇のように、俺の友人として用意された訳じゃない。 でも、熊沢さんと双兄が連れてきて会わせた人だ。 そこには、どんな思惑があるのだろう。 「その後は天の付き合いで、俺を、助けてくれました」 そしてその後は天の側付になり、その流れで俺と一緒にいた。 そこに、俺の意思はやっぱり入っていない。 「志藤さんが俺と、仲良くなってくれたのは、家のお膳立てのおかげです」 「………三薙さん?」 「用意された出会いでできた縁は、本物でしょうか。誰かに作られた絆は、偽物じゃないでしょうか」 俺の意思を無視して作られた絆。 用意された友人。 誰かの思惑によって誘導される想い。 そんなのが、本物だと、言えるのだろうか。 「………三薙さん」 志藤さんが顔を顰める。 元々、神経質そうな印象だからか、とても冷たく感じる。 「あなたは、時折ひどく残酷なことを言う」 「志藤さん?」 いつになく、押し殺したような声だった。 出会った頃しか聞いたことのないような、堅く感情の入らない声。 「あなたは、私をとても喜ばせ、そしてとても傷つける」 「あ………」 「あなたの言葉に、痛みを感じる」 その冷たい態度に表情に声に、俺の胸もすっと冷えていく。 志藤さんを、傷つけてしまったのか。 罪悪感に胸がじくじくと痛む。 「私の言葉を、想いを、信じてはいただけませんか?」 真摯に見つめてくる目は、信じたくなる。 悪かったとすぐに頭を下げて謝りたくなる。 「だって………」 信じたい。 俺だって信じていたかった。 「全部全部、嘘だったんです。全部………」 優しい態度も優しい言葉も優しい手も、全部信じたい。 でも、それはすべて嘘だった。 俺の世界は偽物だった。 「藤吉も、佐藤も、そして、岡野も槇も………、俺が作ったと思った絆も想いもすべて、嘘だったんです………」 作られた出会いだった。 作られた想いだった。 全て、嘘だった。 「俺は、皆、好きだったんです!でも、この想いも、作られたもので、嘘で、嘘で………」 好きだった。 大好きだった。 この想いも、向けられる好意も、本物だと思っていた。 「俺が持ってるものは、全部偽物だった!本物なんて、なかった!」 「三薙さん………」 志藤さんが、眉を寄せて、苦しげな表情をする。 その表情は、本物なのか。 志藤さんは何も知らないはずだ。 でも、でも、でも。 「失礼します」 運転席からそっと伸ばされた手が、俺の頬に触れ、もう一つの手は俺の手に重なる。 温かな温もりは心地よいと同時に、男性の手に、少しだけ怖くてびくりと震えてしまった。 「おいや、ですか?」 「………」 志藤さんが傷ついた顔をするから、頭を横にふる。 恐怖心は一瞬で、すぐに消え失せた。 この人は、怖くないはずだ。 志藤さんの目は、俺をじっと見つめている。 「あなたの、ご友人へ向ける想いは、偽物なのですか?」 「俺の、想い………?」 「皆さんが、お嫌いですか?」 首を、横にふる。 嫌いじゃない。 嫌いになんてなれない。 藤吉と佐藤ですら、嫌いになれない。 「お好きなのですよね。ですから、向けられた好意が偽物かもしれないからと傷ついている」 そうだ。 好きだからこそ、辛かった。 「みんな………」 その出会いも想いも向けられた感情も、全て嘘だったのが、辛かった。 嘘の好意よりも、本当の悪意のほうが、よっぽどよかった。 みんな、本当のことを、何も言ってなかった。 「皆、俺のこと、好きじゃ、なかった!俺は、好きだったのに!大好きだったのに!」 「………はい」 志藤さんの手が、俺のシートベルト外し、引き寄せる。 運転席に倒れこむようにして、志藤さんのスーツに顔を埋める。 「私も、自分が好きな相手から、好かれていないというのは、辛いです。哀しいです。苦しいです」 「好きだったのに!信じてたのに!」 「はい」 好きだった。 ようやく出来た友達だった。 好きでいてくれると思っていた。 父さんも一兄も双兄も天も、好きだった。 好かれていると思っていた。 でも皆、嘘ばっかりだった。 「自分に向けられていた好意が偽物だったと知った時、世界が壊れたように思えます」 「う、ううう、あ、く」 「私の場合は、元々好意を向けられてもなかったのですが」 世界は、壊れた。 俺の知っている世界は、なくなった。 何も見えなくなった。 「でも」 志藤さんの手が優しく俺の髪を梳く。 蕩けそうに優しい声で、囁く。 「でも、私は、今は知っています。たとえ好意が返されなくても、私の中の想いは本物だと、それだけは偽物ではないと」 「………」 「それは誰にも否定できません。私の想いは私のものです。誰にも、譲れません」 そっと体を離されて、頬を包み込まれる。 眼鏡の奥の切れ長の目が、俺を見つめている。 きつく見えるのに、その目はどこかすがるようだった。 「三薙さんは作られた想いだとおっしゃいました。あなたの想いは、偽物なのですか?」 皆からの俺の想いは、偽物だった。 でも、俺の想いは、どうなのだろう。 作られた出会い、作られた想い。 「皆さんを、嫌いになりましたか?想いは消えてしまいましたか?」 嫌いになれない。 想いは消えない。 俺はまだ、あの人たちが好きだ。 だからこそ、苦しい。 「でも、でも、だからこそ、辛い」 「はい」 「信じて、たのに!」 涙が、溢れてくる。 凍えていた感情が、また溢れてくる。 感情をなくせない。 いっそ、何も考えたくないのに、想いも思考も、消えてくれない。 「その痛みこそ、あなたの想いが本物の証拠です。あなたが作り上げた思い出は、想いは、誰にも否定されません。誰にも侵せません」 俺の想いは、本物。 俺の作り上げた思い出は、本物。 こんな傷ついているのは、俺の想いが本物だったからこそだ。 「それに、本当にご友人たちは、あなたを裏切っていたのですか?みなさん、全員?」 思いきり首を横に振る。 岡野と槇の顔が脳裏に浮かぶ。 それが仕組まれたものだったとしても、あの二人に出会ったことは感謝した。 あの二人と、仲良くできて、心からよかったと思った。 「違う………、出会いは、作られたものだったけど………」 あの二人は、きっと俺を裏切っていない。 信じきることが出来なくて、辛い。 でも、あの二人は裏切ってないはずだ。 信じたい。 あの二人に出会えて、よかった。 「私の出会いもお膳立てされたものだと先ほどおっしゃいましたね」 「………」 「でも、私は別にあなたを好きになるように強制されていない。傍にいるのは、私の意思です。出会いを用意してくれた熊沢さんや四天さんや双馬さんに、とても感謝しております」 一兄は愛していると言った。 でもそれは、宮守の家のためだ。 本当に、志藤さんは、強制されていないのだろうか。 信じきれない。 信じたい。 この人の真摯な言葉を信じたい。 「私はあなたに出会えてよかった。あなたからの好意が偽物だったとしたら、私は確かにとても辛い」 辛かった。 とても辛かった。 痛かった。 「でも、それでもあなたにもらった強さも想いも言葉も、全て私の中にあるんです」 強さ。 言葉。 ああ、そうだ。 岡野も槇も、藤吉も佐藤も、言葉と親愛をくれた。 沢山くれた。 そのたびに俺は、強くなれた。 世界が広がっていった。 それは偽物? でもその言葉も強さも、俺の中にはまだ残ってる。 「三薙さんの中には、何もありませんか?残っていませんか?」 残ってる。 いっぱい残ってる。 その言葉がすべて嘘だったとしても、俺の中からは失われない。 でも。 「でも、信じきれない、ですよね」 志藤さんが、俺の表情を見て、困ったように笑った。 自分の胸に、手を置いて見せる。 「この胸を切り裂いてあなたに私の心を見せたい。それで真実が見えるなら、そうしたい。あなたがそれで私を信じてくれるのなら、喜んでそうします。それであなたが安堵を得られるのなら、いくらでも切り裂きたい」 切り裂いたりなんてしなくてもいい。 ああ、でも心は見たい。 心を見れれば、信じることも、憎むこともできただろうに。 「………志藤さん」 信じたい。 この人の言葉を。 この手の温かさを。 この視線の熱さを。 「覚えておいてください。私は、たとえあなたが私を嫌おうと、あなたを………、敬愛し続けます。ご迷惑かも、しれませんが」 迷惑なんかじゃない。 それが本物なら、本当に嬉しい。 「三薙さんの中の、私への想いは偽物でしょうか?」 首を思いきり横に振る。 「違う!違う違う違う!」 「本当は、私のことなんてどうでもいいと思っていらっしゃいますか?」 「違う!俺は、志藤さんが、志藤さんが、大好きです、好きですっ」 好きなんだ。 大好きなんだ。 信じたいんだ。 もう、裏切られたくないんだ。 「ありがとうございます」 志藤さんがにっこりと笑ってから、目を伏せる。 頬を包む手が、少し強くなる。 「私も、あなたが大好きです。………好きです」 「………志藤さん」 「たとえ、他の誰があなたを裏切ろうと、私はあなたを裏切りません。信じてくれとは言えません。でも、覚えておいてください」 信じたい。 信じたい。 信じたい。 「私は、あなたを………、何よりも、大事に思っています」 志藤さんの胸に顔を埋め、しがみつく。 大きな手が俺の背を撫でる。 俺の想いは、本物だ。 俺がもらった強さも言葉も本物だ。 でも、信じて裏切られるのはもういやだ。 痛い思いも苦しい思いもしたくない。 強くなりたい。 でも、信じられない。 この人の言葉を手を信じたいと、思っている。 ああ、でも、たとえ嘘でも、最後まで俺を信じきらせて。 |