「ワラシ、モリ…」 白く咲き乱れる花の中、少女はくすりと笑った。 それが、1年前の記憶を鮮明に思い出させる。 懐かしいような、苦しいような、哀しいような、嬉しいような、複雑な感情が胸にいっぱいに広がる。 「また、会えたね」 花を編むと約束したのは、雛子ちゃんだ。 ワラシモリじゃない。 なぜ、ワラシモリが知っているのかと思ったが、そんなの当然だ。 この神は、雛子ちゃんでもあるのだ。 「………うん。遅くなって、ごめん。約束、守れなくて、ごめん」 手をあわせて嬉しそうに笑うワラシモリに、そう言葉が口をついて出た。 一緒に花を編む約束は果たせなかった。 二度と会うことは、敵わなかった。 「あら」 ワラシモリは、一瞬驚いた顔をして、くすくすと楽しそうに笑う。 そして小首を傾げて俺を見上げてくる。 「元気がないのね?大丈夫?」 「………大丈夫じゃ、ないかな」 「可哀そう。ね、一緒にお花を編みましょうか?」 俺の手にそっと触れる小さな手は冷たく、体温は感じない。 けれど、ほんのりと温かさを感じた気がする。 勘違いかもしれないけれど、労わりが、伝わってくる気がする。 また、からかわれ、翻弄されているだけなのかもしれないけど。 でも、受ける圧迫感は一緒だけれど、1年前のような毒々しさを、今は感じない。 「………なんか、ワラシモリ、雰囲気が、少し、違うな」 「ああ」 ワラシモリが、そっと自分の手を自分の胸元に当てる。 「今は雛子が一番強いから」 「雛子ちゃん?」 懐かしい、名前。 愛らしい声。 一度だけしか見ていない、優しかった少女。 そう、出会ったのは、たった一回だけ。 それなのに、こんなにも、焼き付いている。 「そう。この前雛子を取り込んだから、私も、まだ綺麗なのよ」 取り込む、という言葉に、痛みが増す。 顔が歪んで、ギリっと自分の歯が軋む音がした。 「私は、ここを綺麗にする役目をもった神。でも、汚いものを触れ続けると、汚くなっちゃうの。病んで、狂うの」 そこで声色がガラリと変わる。 幼さが消え失せ、大人びた表情へと一瞬で変化する。 「病んだ神は、人に害なす存在となる。人を襲い、弄び、喰らう存在になる」 そしてまた、少女の顔に戻る。 ああ、そういえばこの神は、こういう存在だった。 コロコロと、すぐに変わる態度に、翻弄されたものだった。 移り気で、気まぐれな、神らしい、神。 「前に会った時は、もうだいぶ汚くなっていたから」 ワラシモリが愛らしく笑い、覗き込むように俺を見上げる。 「ごめんなさいね、怖い思いをさせた?」 「ううん。………いや、ちょっと怖かったかな」 正直、とても怖かった。 でもそれ以上に、痛くて、切なく、哀しく、苦しかった。 それに、ワラシモリや、あの化け物たちよりも、静子さんや由紀子さんや、怖かった。 「ごめんね。今は、まだ平気」 そこでまた様相をかえ、ワラシモリの声が低く、あでやかに変わる。 「それでもまだ、病んだ神には変わらぬがな。妾もだいぶ老いた。いくら幼子を喰らうても、老いは止められぬ」 幼子を喰らう。 分かっていたのに、そんなのもう、知っているのに、やっぱり痛い。 土地神を、人に仇なす神としないため、幼子を捧げる。 それが、ワラシモリの大祭だったのか。 「そう、なのか?」 「こびりついた染みは、いくら違う色で染め上げようと消えることはない。誤魔化しているだけだ」 ワラシモリはどこか自嘲するように笑う。 それはひどく人間じみていて、いつもの超然とした態度よりも、近しく感じた。 「それじゃ、ワラシモリは、どうなるんだ」 病んで老いた神は、どうなるのだ。 その行く末には、何があるのだ。 そして、そうしたら、この村は、どうなるのだろう。 「さてな。病みきるまでには、しばしの時もあることだろう。どうせこの村も、そのうち消えてなくなる。それまでもてば御の字であろう」 「え、なくなるって、どうして、この村は、こんなに、活気があるのに」 ワラシモリが病むから、なくなるのではないのか。 村がその前になくなることはあるのか。 「それでも、人はゆるやかに去っていく。そして、人の心は荒んでいく。闇は増え、村は廃れる。そのうち、ワラシとして捧げられる幼子もいなくなるだろう。きっと、遠くないうちに、この村はなくなる。なくなれば妾は、忘れられ消滅する。病んで禍つ神になるか、村が潰えて忘れられて消滅するか、どちらが先か」 ワラシモリが穏やかに笑い、子供に言い聞かせるように優しく言う。 ああ、前に、忘れられたくないと泣いた神がいた。 人と共にいたいといいながら、消えて行った神がいた。 「この村の外は、もっと広い世界なのでしょう?皆、出ていきたがる、それは仕方ないことね」 あどけなく顔で、無邪気な声で、紡ぐ言葉は酷く疲れ老いを帯びていた。 悟り、諦観を感じさせる。 「それで宮守の小僧、何用だ。妾に用があったのだろう」 そしてまたワラシモリは、表情を変える。 それでようやく、話したいことがあったのを思い出した。 そのために、俺はここまで来たのだ。 「あ、そうだ。えっと」 幼くして、村のために、神に捧げられた少女。 東条家の、少女たちの、集合体。 それが、この神。 「俺は、俺は………」 この神に、聞きたいことがあった。 この神になった、少女たちに聞きたいことがあった。 苦しかった? 辛かった? 嫌だった? 裏切られて、哀しかった? 人ならぬ身にされて、憎かった? 今も、村に囚われて、逃げたくはない? 「ワラシモリは………」 「なあに?」 「あ………」 優しく聞いてくるワラシモリに、けれど喉が詰まって言葉が出てこない。 喉を抑えるけれど、当たり前だが、そこには何もない。 喉をふさいでいるのは、俺の気持ちだけだ。 「なんだ、己が何を問いたいのかもわかっていないのか。難儀な小僧だな。こうしてわざわざ出てきたというに」 「ごめん……。その」 ワラシモリが呆れたように、苦笑する。 なんだか本当に、とても人間味を感じる。 前はもっと、奔放でなにものにも囚われないように見えたのに。 「ああ、残念ながら時間切れ。ごめんなさいね、お兄さん」 「え」 前置きなくそう言うと、ワラシモリはすっと姿を消す。 引き留める暇もなく、本当に唐突に。 「会えて嬉しかった、お兄ちゃん。約束、覚えててくれたのね」 最後に耳元で聞こえたのは、ワラシモリの幼いけれど大人びた声ではなく、少女の稚い高く甘い声。 今はもう遠くなってしまった記憶の中にかすかに残る、声。 「え………、ひな、え!?待って、待って!」 「気が向いたら、またね」 「あ………」 最後に残されたのは、ささめくような笑い声。 伸ばした手はどこにも触れられないまま、宙に浮く。 まるで今まで目の前にいた存在は幻だったかのように、そこにはなにもない。 足元の花は、踏みしだかれた跡もない。 声の余韻も気配の残り香もない。 ただ、少し前までの、静かな花畑が広がっているだけだ。 「………」 伸ばした手を握り、下におろす。 幻。 本当に、そんな、存在だ。 「兄さんこっち」 「え」 ため息をつく暇なく、ぐいっと引っ張られ天の後ろへ引き寄せられる。 それと同時に、志藤さんも俺の前に出る。 「雛子!!」 その後すぐに、切羽詰まった女性の甲高い声が花畑に響いた。 声のした方に視線を向けると、遠く花畑の入り口に、和服姿の女性がいる。 着物の裾がはだけるのも気にせず花を踏み荒らし、こちらに駆けてくる。 「雛子、雛子どこ!」 その危機迫る様子は、あの日を思い出す。 青白い顔で、刃を振りかざしていた、女性。 自然に体が強張り、一歩体を引く。 「雛子、雛子!雛子がいたでしょう、ここに雛子がいたでしょう!」 足を何度かもつれさせながら近寄り、こちらに手を伸ばしてくる。 天がその手を取り、女性、由紀子さんの体を支える。 「由紀子さん、お体に障りますよ」 「ねえ、今、雛子が、いたでしょう?」 由紀子さんは薄く笑っていて、でもその目はうつろで、天を見ているようで、見ていない。 どこか、遠くをうつしている。 「誰もいませんよ、由紀子さん」 「………」 天が、静かに、噛んで含めるように、告げる。 由紀子さんの目に、ぼんやりとした、光が宿る。 「いな、い?」 「ええ、お分かりでしょう。雛子さんはどこにも出てきません。雛子さんはもういないんです。あなたが一番、お分かりでしょう?」 天が、優しく笑いながら、鋭く冷たい言葉を紡ぐ。 「………そう。そうよね、そうよね」 「ここには、誰もいないんです」 「………ええ。分かってる。分かってるの。あの子は、私の前には、出てこないのよ。もう、出てきてくれないの。私が、よく知ってる。ええ、知ってるわ」 雛子ちゃんはもう、いない。 ワラシモリはいるけれど、でも、あれは雛子ちゃんじゃない。 でもあれも、雛子ちゃんでも、あるのだろうか。 ワラシモリが姿を見せたら、由紀子さんの痛みは、少しは癒えるのだろうか。 でも、やっぱりあれは、雛子ちゃんではない。 よく、分からない。 「………知っていたのよ」 由紀子さんの体から力が抜け落ち、崩れ落ちそうになる。 けれど倒れこむ前に、四天と志藤さんがその体を支えた。 「大事なお体です。家に戻りましょう」 「ええ………」 促され、よろよろと、由紀子さんが立ち上がる。 そういえば、子供がいると、言っていた。 命が宿っている、尊い体だ。 無理をしたら、いけない。 「ねえ、ワラシモリは、出てきた?あの子、私の前には、出てきてくれないの」 「………っ」 由紀子さんが、乱れた髪の下からじっと、うつろな目で俺を見ている。 力のない言葉に、ざわりと、背筋に寒気が走る。 一瞬だけ躊躇してから首を横にふった。 「………いえ、ワラシモリは、出てきてくれませんでした」 「そう………」 納得したのかしないのか、由紀子さんはぼんやりと頷いた。 その眼はやはり、どこか、遠くを見ているように見える。 「さあ、戻りましょう」 「あ、四天さん、私が」 天が由紀子さんの手を引くと、そっとその手を志藤さんが横から引き継いだ。 「東条の屋敷は分かるんですか?」 「来るときにちらりと見えましたから」 「では、頼みます」 「はい、かしこまりました」 そして志藤さんに支えられ、由紀子さんはふらふらと歩いていく。 その後ろ姿を見ながら、取り残されたのは、俺と弟。 曇り空の下、白い花の中、俺と、天だけ。 ああ、なんだか、本当に、懐かしい。 あの日も、二人だった。 「………由紀子さん、大丈夫かな」 「さあねえ」 酷い目に遭った。 怖い思いをした。 殺されかけた。 でも、恐ろしくはあるが、恨んでも憎んでもない。 ただ、少しでも、安らかであればいいと、そう思う。 あの人は、これからも、ワラシモリに、雛子ちゃんの気配を感じて、探し続けるのだろうか。 「………神も、老いるのか」 「場合によっては。結局バケモノと言っても、万能じゃないしね。老いたり、病んで狂ったり。そして、祓われるか、放置されるか、消滅するか。元々アレは人間だったし、人間に近いのかも」 「あんなに、強い力を持つ、神なのに」 強大な力を持つ、人にはどうしようもできない存在。 それなのに、いつかは、消えてしまうのか。 また、ざわざわと、寒気が、背筋を走る。 「あいつらも俺も、自然っていうのかな、そんな大きなどうしようもない存在に、翻弄されて流されて消えていく存在。そんなものでしょ」 天はなんでもないように、肩を竦める。 俺の方を見て悪戯っぽく歯を見せる。 「あいつも言ってたでしょ。この村だっていつか消える。祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色」 いつかはすべて、なくなってしまう。 消えてしまう。 変わってしまう。 変わらないものなんてない。 「偏に風の前の塵に同じ。なんだってそうでしょ。だからさ、うちの家だけずっと続くってわけもないと思うんだよねえ。いつ消えても、おかしくないでしょ。それが今すぐだって、まったくおかしくない」 「………」 変わらないこと。 それが、俺の一番望んでいたこと。 でもやっぱり、変わらないものなんてない。 分かってる、分かってるよ。 「ね、そう思わない?」 天の言葉に返すことはなく、肯定でもなく否定でもなく、首をゆるりと横にふった。 俺の反応に、天は鼻を鳴らして笑う。 「それで、兄さんは、ワラシモリに会ってどうしたかったの?」 「………俺は」 苦しかった? 辛かった? 嫌だった? 裏切られて、哀しかった? 人ならぬ身にされて、憎かった? 今も、村に囚われて、逃げたくはない? 「聞きたかった」 そして、今、彼女は何を想い、何を守っているのか。 |