朝食後、出発しようとしているところに、天が連絡したのか東条家の当主が現れた。
お互い空々しい挨拶を交わす間も、静子さんは相変わらずピンと背筋を伸ばし立っている。

「もうお帰りになられるのですか」
「無理にお願いした上、慌ただしい出立で申し訳ありません」
「いえ、なんのお構いもいたしませんで」

静子さんは、ほんの少しだけ間をあけてから、聞いてきた。

「………ワラシモリには、お会いになられたのですか?」
「はい、会えました。聞きたかったことも、聞けました。会えてよかったです」

結局答えは、自分で決めるしかないと分かった。
でもそれだけでも、ワラシモリと話せてよかった。
会えて、よかった。

「そうですか。それなら、よろしゅうございました。ワラシモリは、宮守の方の前には、姿を現すのですよ。あなたたちが、お好きなのでしょうね」

そこで、能面のようにはりついていた厳しい表情が、少しだけ崩れる。
自嘲するように、目を伏せてかすかに笑う。

「あの子は、私たちの前には決して現れません」
「………」

ワラシモリは、静子さんの前にも、姿を現さないのか。
代々の当主の前に、いや、自分たちの親だった存在の前に、現れないのだろうか。
別に、恨んでないと、言っていた。
姿を見せないのは、きっと、恨みでも、憎しみでもないのだろう。

「あの、ご当主様は………」
「はい、なんでしょう」

我が子を捧げて、何も思わなかったの、だろうか。
由紀子さんは、怖かったけれど、その想いは分かる気がした。
でも、静子さんには、ただ冷静で、能面のような表情を崩さない。
何も、感じていないのだろうか。
まるで、父さんや、一兄のようだ。

「………」

でも、そんなこと聞けず、言葉は放りっぱなしになる。
言いよどんだ俺が何を言いたいのかくみ取ったのか、静子さんが表情を変えないまま答える。

「私は、この村を、見守り、次の代に受け渡していくことが役目です。私の一番重要な使命は、それだけ。それ以外のことは些末なことです」

揺るがない、鉄のような意思。
今までその言葉通り、使命をまっすぐに果たしてきたのだろう。
自分の子供を、犠牲にしてでも。

「………」
「これまでの伝統も歴史の重さも、私には抗えません。投げ出すことなど、出来ません」

でも、少しだけ表情を緩めて、そう続けた。
わずかに苦笑のようなものを見せる。

「それに、あの子たちが守り、生きるこの村を、失う訳にはいかない。………これは、自分への言い訳にすぎませんが」
「あ………」

ようやく見えた、かすかな人間味に、胸がぎゅっと引き絞られる。
辛かった?痛かった?由紀子さんのように、かつて狂乱したのだろうか。

「あの」
「話しすぎました。申し訳ありません。宮守家のご当主様によろしくお伝えください。またお会いできる日を楽しみにしております」

けれど聞こうとすると、静かに遮られた。
それ以上は一切答える気はないという、強い拒絶を感じる。
天が俺の前に出て、優雅に頭を下げる。

「はい、大変お世話になりました。このように慌ただしいご挨拶となってしまい申し訳ありません。いずれまた改めまして」
「はい、またのご来訪を心待ちにしております」
「………」

古い因習から逃げられない。
伝統と歴史。
守り続けてきたもの。
守らなきゃいけないもの。
生まれる犠牲。
仕方のない犠牲。
でも、それでも、ワラシモリを、愛してたのだろうか。
過去、自分の娘だった存在を、愛しているのだろうか。

「兄さん、行くよ」
「………うん」

聞けぬまま、車に乗り込む。
深々と頭を下げた静子さんは、やはり能面のような顔をしていた。
その下にある感情をおしこめるような、静かで冷たい、能面。

「………当主ってのは、厄介だな」
「本当に厄介だよ」

ぼそりといつも天が言っていた言葉を繰り返すと、笑い交じりに返される。
ああ、本当に厄介だ。
彼女から何かを感じることなんて、ほとんど、出来なかった。

「では、出発してよろしいでしょうか」
「はい、お願いいたします」

車はゆっくりと発進する。
ちらりと後ろを見ると、まだ静子さんは立って、こちらを見ていた。
つい赤い着物を探して視線を巡らせるが、どこにもいない。
もう、会えないのか。

「………元気で」

口の中でそっとつぶやく。
どうか、あの哀しい少女たちが、少しでも楽しく、いられますように。
せめて、祈るのは、自由だろう。

「………」

そうして村は見る見るうちに離れていき、山道に入る。
車の中は、しんと静まり返っている。
天はつまらなそうに窓の外を見ている。
志藤さんは、朝からずっと、ぎこちない態度だ。
必要最低限のことしか話さない。

「あの、志藤さん」
「………はい」

そっと名前を呼ぶと、ぴくりと肩を揺らす。
緊張がこちらにも伝わってくるようだ。

「あの、昨日のことは、えっと」
「いえ、お気になさらないでください。仕方のないことです」

俺の言葉にかぶせるように、早口で言う。
その表情は堅く、唇を引き結んでいる。
ああ、本当に面倒で、可愛い人だ。
俺のくだらない言葉で、こんな一喜一憂してしまうなんて。
つい、苦笑が漏れてしまう。

「あのですね。運転、気を付けてくださいね」
「………はい」

先に断っておく。
本当は、どちらにしようか迷っていたのだ。
今日か、明日。
でも、志藤さんを先にした方がよさそうだ。
このまま放っておいたら、ますます拗れてしまう。

「俺、志藤さんと今日は同じ部屋で泊まりたいんですけど」
「は!?」

そこで志藤さんがハンドルを大きく切る。
山道なこともあって、車体は大きく揺らぎ、首をひねってしまう。

「っ、ハンドル気を付けてください!」
「も、申し訳ありません!」

ああ、やっぱり運転中はやめればよかった。
志藤さんは慌ててハンドルを切り直し、車体が元に戻る。
半ば予想していたとはいえ、まだ、心臓がバクバクしている。
対向車線がいなくてよかった。

「運転に、集中してくださいね」
「は、はい!」
「今日は、志藤さんに話したいことあるんです。だから、部屋分けてほしかったんです」
「は、え、あの?」
「あ、前は向いててください!」
「はい!」

今度はこちらに顔を向けようとするので、慌てて静止する。
やっぱり運転中はやめればよかった。
でも、このまま暗いドライブもしたくなかった。

「その、いいですか?」
「え、え?いえ、あの」

志藤さんは今度はちゃんと運転しながらも、戸惑い意味のない言葉を繰り返す。
やや強引にもう一度、問う。

「嫌ですか?俺と同じ部屋、嫌ですか?」
「滅相もない!」
「でしたら、今日は一緒に泊まりましょう」
「………え、は、はい」

本当に、可愛い人だ。
なんか、申し訳ない気分になってくる。
俺なんかにこんな、いいようにされてしまって。
俺なんかよりずっと強くて頭よくて、スペック高い人なのに。

「天、構わないよな?」
「うん、別にいいよ」

一応後ろの天に問うと、想像通りあっさりと頷いた。
とりあえず、これでいい。

「じゃあ、後はドライブ、楽しみましょう」
「………はいっ」

志藤さんは前を向いたまま、こくこくと何度も頷いた。
どうやら、落ち込みは払拭されたようで、よかった。
どうせなら、楽しいドライブをしたい。



***




しばらく山道をドライブして、平地になった。
それでも木々や畑の多い広い道の横手に、それはあった。
広い駐車場に入り、志藤さんが車を停車した。
よく見ると、駐車場だけではない。
ログハウス風の大きな建物や、屋台みたいなものも見える。
人も多く、賑やかしい。

「なにここ?」
「道の駅と、呼ばれるものです。車でくる人間のための休憩所みたいなものですね。サービスエリアとは違って、高速じゃなく一般道にあるんです」
「へえ」

サービスエリアには、何度か行ったことがある。
そういえば、サービスエリアの雰囲気に似てるかもしれない。

「地域振興も兼ねているので、特産物など色々ありますよ」
「色々って、あ、何あれ、うまそう!」

色々って何って聞こうとしながら視線を巡らせると、屋台に張られた張り紙が目に入る。
団子、アイスクリーム、フランクフルト。
なんだかお祭りみたいだ。

「わさびソフトクリームと、コロッケと、えっとあれは、お餅?」
「そのようですね。このあたりでとれるものなどを使った名物品を売ってるんです」
「そうなんだ。うわ、いいな。食べたい。あー、でも、なに、中に食堂もあるの?あっちも行きたい!」

一際大きな建物に目を向けると、レストランらしき立て看板がある。
山菜そばや天ぷらなどと書かれていて、空腹の胃を刺激する。
色々なものがあって、目移りしてしまう。
天は特に興味を引かれることはないらしく、俺の後からついてくる。

「まあ、ちょうど昼時だし、いいんじゃない。何が食べたいの?」
「どうしよう。ソフトクリームも食べたいし、あの餅も食べたい、あ、あのさつま揚げもうまそう。でも食堂の定食もおいしそうだな」

この辺の名物を盛合せたらしき定食は、写真の絵柄もおいしそうだ。
地鶏のから揚げ、山菜のてんぷら、そばに豚汁。
でもコロッケも餅もやきそばも捨てがたい。

「食べきれるなら別に止めないけど」
「えっと、うーんと」

さすがに全部食べきれる気はしない。
それに宿にも夕食がついてると聞いた。
旅館などの食事は多いと、この前思ったばっかりだ。
昼を食べすぎるわけにはいかないだろう。

「えーと、じゃあ、食事は、食堂でとって、ソフトクリームはデザート!」

勢い込んで後ろを振り向くと、天と志藤さんはなんだかじっと俺を見ていた。
俺一人盛り上がっていたようで、恥ずかしくなってくる。

「………ごめんなさい、他に食べたいものありますか?」
「いえ、そうしましょうか。四天さんはよろしいでしょうか」
「かまいませんよ。別になんでも」

志藤さんが笑って頷く。
天もどうでもよさそうに頷いた。

「じゃあ、どれにしようかな。うわ、すごい野菜売ってる。この無花果おいしそう。あれ、何!」

建物の前には、野菜や果物が所狭しと盛られていた。
書かれている名前は、生産者のものだろうか。
熟れた無花果は、とてもおいしそうだ。

「買っていきましょうか?他にほしいものはありますか?」
「………なんか、落ち着きなくてごめんなさい」
「いえ、三薙さんが嬉しそうなら、私も嬉しいです」
「う………」

志藤さんは、目を細めて、優しく優しく笑う。
ストレートにそんなことを言われると、さすがに恥ずかしくなってくる。
この人が俺に好意を持ってくれているのは知っているけど、そんな大事なものを見るような目で見ないでほしい。
なんか、いたたまれない。

「まったく現金だね。朝は死にそうな顔してたのに」
「………それは、申し訳ありません」
「へたれ犬」
「う」

天の言葉がさすがに聞き苦しくて、軽く腕を小突く。

「人を犬扱いするな」
「だってなんか、飼い主の後ろをついてまわって、怒られると落ち込む犬みたいでしょ」

その言葉に一瞬、志藤さんに垂れた耳がついたのを想像してしまった。
いつもにこにこしている様子は、尻尾を大きく振っているようにも見える。

「………だからそういうこと、いうな」
「今一瞬納得しそうになったでしょ」
「し、してない!」

全然してない。
気のせいだ。

「も、申し訳ありません。私が、単純で、思い込みが激しくて、その、ご迷惑だったら仰ってください」
「いえ、いいんです!志藤さんは、そのままでいてください!」

志藤さんが本当に耳をぺしょりと垂れそうな勢いで、肩を落とす。
そんな様子も可愛くて、慌ててフォローする。

「でも、否定はしないんだ」
「だからお前はそうまぜっかえすな!」

そして天がまたひっくり返す。
下らないやり取り。
でも、久々に、なんか、気持ちが軽くなっていた。



***




道の駅や展望台なんかを寄り道しながら、今日の宿についたのはもう日が落ちそうな頃だった。
森の中にあるこじんまりとした、けれど瀟洒な二階建ての洋館。
レースが飾られた大きな窓からは、温かい明かりが見えている。
皆で行った高原の別荘よりも、豪華だ。

「うわ、綺麗だな。えっと、小さいけど、ホテル?」
「そうだね、ホテルなのかな。結構よさそうだね」
「オーベルジュです。食事がメインの宿となります。もしお気に召さなかったら仰ってください。近くに別の宿もあるそうなので、そちらを手配いたします。一応明日の宿は別のところにしてありますが」
「いえ、いいです!昨日みたいなところもいいし、一昨日みたいな旅館もいいけど、こういうのも、いいですね!」
「そうおっしゃっていただけると幸いです」

中は外見と同じように綺麗だった。
派手すぎない、けれど豪華な調度が品よく並べられている。
夕食の準備が進んでいるのか、いい匂いが漂っていた。

チェックインを済ませると、二階の部屋に案内される。
案内してくれた従業員の人を返し、志藤さんがキーを手の平に乗せる。

「えっと、では、どちらもツインの部屋です。どちらがよろしいですか?」
「中見てもいいですか?」
「はい、どうぞ」

まず手前の部屋を開くと、中は一昨日の旅館ほどではないが、余裕のある広さだった。
温かい赤をベースにまとめられた部屋は、落ち着いている。
部屋の奥の大きな窓の外はバルコニーで、森が一望できる。

「うわ、広い!すごい、景色もいいな!ベッドもいい弾力だな、これ」

なんだか、女の子が喜びな感じだ。
岡野や槇がきたら、はしゃぐだろうか。
女の子らしい部屋に喜ぶ二人。
あれ、なんでだ、あんまり想像が出来ない。

「えっと、もう一つは隣の部屋かな」
「そのようですね」

そのまま隣の部屋も見てみる。
だいたい作りは一緒だったが、角部屋という立地のせいか少しだけこちらの部屋の方が小さかった。

「俺は寂しく一人寝みたいだから、こっちの狭い方もらうね」
「えっと」

天が小さな方のキーを取り、皮肉げに笑う。
志藤さんが困ったように、眉を寄せる。

「どうせならダブルの部屋にしちゃえばよかったのに。残念ですね」
「四天さん!」

志藤さんが顔を赤くして抗議するのも勿論聞かず、持っていたバッグをベッドに放り出す。

「食事はすぐですよね」
「えっと、はい」
「じゃあ、荷物おいたらダイニングで」

淡々と進める天をおいて、俺たちも今日泊まる部屋に戻る。
荷物をおいて、少し堅めの、でも寝やすそうなベッドに腰掛ける。
所在無げに佇んでいた立ちすくんでいた志藤さんが、恐る恐る聞いてくる。

「その、三薙さん、なんで、私と、一緒の部屋になんか」

嫌、というわけじゃないんだよな。
きっと。

「………そうだな。話したかったんです」
「何か、私に言いたいことがあるのですか?」
「はい、あります」

話したいことが、あったのだ。
だから、部屋を別にしてもらった。
志藤さんは、悲痛な顔で拳をぎゅっと握る。
その様子に、やっぱり苦笑が漏れてしまう。
なんて、可愛い人なんだろう。

「私は、何かしましたでしょうか」
「そんな不安そうな顔しないでください。別に悪いことじゃない。と思うけど。どうなんだろう」
「な、なんでしょうか」

悪いことではないと、思うんだけど。
迷惑だろうか。
まあ、それは後で話して確かめればいい。

「食事の後にしましょう。そんな本当に思いつめないでください。志藤さんを責めたりとか、そういう内容じゃないです」
「………」
「本当に、大したことじゃないんです」

ベッドから立ち上がり、それでも不安そうな志藤さんの腕を軽くたたく。
今言ってもいいのだろうけど、そうすると今度は食事どころじゃなくなる気がする。

「天が怒ります。いきましょう」
「は、はい」

まだ聞きたげだった志藤さんを促し、ダイニングに訪れる。
部屋数はそれほど多くないし、平日なのにお客さんはそこそこいた。
広いダイニングには、5組ほど他にお客さんが見える。
みんなゆったりと食事を楽しんでいるようだ。

俺たちも部屋と同じ色調のテーブルクロスがしかれた丸いテーブルについて、食事を始める。
運ばれてくる料理は、フランス料理ぽいけど和風でもあって、土地の野菜や川魚、近海の魚なんかも出てきておいしい上に、色とりどりで見た目も綺麗だ。
ステーキは蕩けそうになるほど美味しい。

「おいしいな、これ。すごい綺麗だし」
「そうだね。おいしい」
「な」

そういえば、一兄もよくメシ連れてってくれたな。
こういう豪華なところから、小さな隠れ家のようなところまで。
他の人を不快にさせないようにと、マナーも叩き込まれた。
双兄も連れて行ってくれて楽しかった。
でも、忙しい一兄が時間をぬって色々なところに連れて行ってくれるのが、すごく嬉しかった。
いつだって心待ちにしていた。

「今日は昼も楽しくて美味しかったし、すごく、嬉しい」

昼のから揚げも美味しかったし、わさびソフトクリームもおいしかった。
みんなでワイワイ話しながら、立って食べるのも楽しかった。
美味しいものを食べて、皆で話すのって、楽しい。

「………」

天が、ナイフとフォークを静かにおいて、こちらをじっと見つめる。
視線をうけて、首を傾げる。

「何だよ?」
「何考えてるの?」
「え?」
「なんか、馬鹿みたいにはしゃいでるから」
「お前、兄に向かって馬鹿とかいうな」

本当にこいつの、兄への態度は少しは改善してほしい。
理由があるにしても、ひどすぎる。
本当に、なんで、こんなにつっかかるのだろう。
まるで、俺をわざと怒らせようとするように。

「………ま、いいけど。今は」

俺の答えに、天は不機嫌そうに眉を顰めた。

「お待たせいたしました」

給仕の人が、次のメニューを持ってくる。
そこで一旦、会話がは打ち切られた。



***




「はー、お腹いっぱいですね。眠くなる」
「その、先にお湯をお使いください」

たらふく夕食を食べて、心地よい倦怠感にベッドの上に転がる。
すると、志藤さんが静かに促してきた。
眠ってしまう前に、風呂も入らないといけないか。
それに、話したいことがあるんだ。

「そうですね」

けだるい体をひっぱりあげ、バスルームに向かう。
白いバスルームはバスタブも会わせて広々としていて、大きな窓からは外の森が見える。
明るいうちだったらさぞ綺麗だっただろう。

「風呂、広いですね。二人で入れそう」
「入りません!」

何気なく言った言葉は即座に否定された。

「………そんなに力強く拒絶しなくても」
「あ、す、すいません」
「志藤さんは謝ってばかりですね」

俺が困らせてばっかりいるからだろうか。
それはなんだか申し訳ない。
でもつい可愛くて、困らせたくもなってしまう。

「俺は謝られるより、もっと気安く話したいです」
「す、すいません、て、あ」

言ってる傍から誤ってしまう志藤さんに、温かい気持ちが溢れてくる。
ふわふわと、心がこそばゆくなってくる。

「でも、そんな志藤さんも好きです」

だから心からの言葉告げると、志藤さんは真っ赤になる。
本当に、可愛い人だ。

「じゃあ、先に風呂借りますね」
「は、はい」

風呂に入った後、交代して、熱を冷ますためにバルコニーに出た。
昼間は暑いが、夜はやっぱり山の中は涼しい。
でもお風呂上がりの火照った体には冷たい風がちょうどいい。
森は真っ暗で、何も見えない。
何かがいそうな濃厚な気配はする。
まあ、こういうところなら、一つや二つ、変なのもいるだろうけど。

ふと思いついて、昼間道の駅で買ってきた無花果を冷蔵庫から出す。
バルコニーにもう一度出て、置いてあった椅子に座る。
皮を剥くと、ふわりと甘い匂いが漂う。
匂いの通り、果肉にかじりつくとじゅわりと甘い果汁がしみだしてくる。

「………甘」
「三薙さん?」

いつのまにか風呂から出てきた志藤さんが、パジャマのような室内着姿でバルコニーにやってくる。
こんなラフな志藤さんも珍しい。

「髪乾かしましたか?お風邪を召されます」
「ごめんなさい。でも風が、気持ちがよくて」
「ええ、そうですね。でも冷えないうちに中に入ってくださいね」
「はい」

何もない静かな森をじっと見ながら、もう一口無花果を齧る。
空を見上げると、やっぱり月はなかった。
そのかわり、星がキラキラと光ってる。

「無花果、いかがですか?」
「おいしいですよ。すごく瑞々しいです。瑞々しすぎて手がべたべたになっちゃいました」
「あ、ティッシュ持ってきますね」
「後で、まとめて洗っちゃいます」

剥いて食べてるうちに、手が汚れてしまった。
ディッシュで拭いても、余計にべたべたになるだけだろう。
冷たい甘さが、風呂上りにちょうどいい。
一つ食べ終えて、もう一つ剥きかじりつく。
無花果の中身は、どこかグロテスクにも見える赤色。
ああ、なんだか、人の血肉みたいだな、なんて思った。

「無花果って、美味しいけど、見た目はあんまりよくないですよね」
「確かにそうかもしれません。そういえば、アダムとイブの食べた知恵の実が無花果という説もありましたね」
「へえ、そうなんだ。知恵の実か」

確か、リンゴとかだったっけ。
食べて知恵がついて、楽園から追い出されたとかなんとか、そういう話だったような。
無花果の汁が手をつたい、腕にまで零れ落ちる。
何も考えず、行儀悪くそれを舐めとった。

「………っ」

小さく息を飲む音がして、顔を上げる。
立ったままの志藤さんが、俺をじっと見下ろしていた。
どこか苦しげに、眉を顰めている。
何かを堪えているように。

「………」

きっと、迷惑ではない。
俺の勘違いでは、ないだろう。
手に持っていた無花果を、志藤さんに差し出す。

「どうぞ、志藤さん」
「え、は?」
「どうぞ」
「その」
「食べませんか?俺の手から食べるの、嫌ですか?」

なんか、俺の酒は飲めないのかって強要する人みたいだ。
タチが悪いな。
志藤さんは顔をわずかに赤らめて、決意したように唇を噛む。

「い、いただきます」

そして顔を近づけてきて、俺の手の中の無花果を小さく齧った。

「もっとどうぞ」

本当にちょっぴり齧る志藤さんに笑ってしまって、更に腕を伸ばす。
志藤さんは困ったように、眉を寄せてもう一口齧る。
赤い唇から、白い歯と赤い舌が覗く。
白い果肉を、齧り、舐めとる。

知らなかったな。
人がものを食べる姿って、なんだかエロい。

「おいしいですか?」
「おいしい、です」
「よかった」
「………」

志藤さんが、苦いものを飲み込んだように、顔を歪める。
食べたものは甘い甘い無花果なのに。
志藤さんが食べた残りを、俺も齧る。
やっぱり、甘い。
甘くて、酔ってしまいそうだ。

「その、話したいことなんですか」
「………はい」
「志藤さんって、その、俺と」

やっぱり、言うのは少し気恥ずかしいな。
なんて言ったらいいんだろう。

「三薙さん?」

考えるが、相応しい言葉は見つからなかった。
だから、仕方なく、ストレートに言う。

「俺と、えっちとかしたいって思います?」





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