ワラシモリがふと顔をあげて、体を一歩ひく、 そしてにっこりと笑った。 「そろそろ、時間ね。お迎えが来るわ」 「あ」 「もう聞きたいことはない?」 ワラシモリが、いってしまう。 焦燥感と、その大人びた年上の姉のような態度に、つい、情けない弱音が漏れてしまう。 「………俺は、どうしたらいい?」 ワラシモリは表情を一転、呆れかえって馬鹿にしたように鼻を鳴らす。 「ほんに、情けない男だな」 「………うん」 言われた言葉に、頷くことしかできない。 本当に、情けない男だ。 何一つ、自分で決められず、人に選択をゆだねてばかり。 決められず、為せず、逃げ出すばかり。 そういう風に育てられたのだとしても、そこから抜け出すことが出来ない、自分が歯がゆい。 「好きにすればいい。知らぬわ」 ワラシモリは当然のように冷たく言い放った。 そうだよな。 ワラシモリに聞いたって、ワラシモリが知るわけない。 聞いたって、どうにもならない。 「失いたくないものを守ればいい。誇りでも命でも怒りでも喜びでも。お前の守りたいものを」 けれどワラシモリは、呆れたようにしながらも、そう言ってくれた。 「みんな、ちがうもの。私も、この前の奥宮の女の人も、その前の前の人達も、お兄さんとは違うわ。誰も、お兄さんに答えはあげられないわ。みーんな、違うもの。みんな、色々」 怖いと泣いた人、穏やかに過ごしたいと言った人、役に立てるのが嬉しいと言った人。 そして、兄と一緒にいられるのが嬉しいと言った人。 確かにそのどれも、俺とは違う。 どれも違って、どれも分かる気がする。 完全に理解することなんて、出来ない。 だからやっぱり、答えは、分からない。 誰も、持ってない。 「だから、お兄さんの好きにすればいいわ」 結局それしかないんだ。 守りたいものは、なくなってしまった。 好きだったものも、見失ってしまった。 それでも残ったものの中から、俺は、何を選びたいのだろう。 一兄の手をとりあの化け物になるか、天の手をとり破滅に身をゆだねるか、それとも一人朽ち果てるか。 それとも、他に、道はあるだろうか。 「………ワラシモリは、何を、守りたいの」 「………」 ワラシモリは、らしくなく一瞬口ごもったように見えた。 目を伏せると長い睫毛の影が白い頬に落ちる。 それから静かに言った。 「愚かな女たちを最後まで見届ける。それが、妾の定めかもしれぬな。病み狂い、潰えるまで」 「………」 ワラシモリの気持ちも、やっぱり分からない。 俺には、理解できない。 でも、やっぱり分かる気もする。 優しい純粋な、ワラシの神。 ワラシモリのように、雛子ちゃんのように、思えたら、よかったのに。 「………ありがとう、ワラシモリ」 誠実に、たぶん正直に答えてくれた幼い少女の神に礼を言う。 ワラシモリは一つ笑うと、座りこんだままの俺から、更に一歩身を引く。 「それじゃ、さよなら。もう会うこともないでしょうね」 「会えない、の?」 「会っても仕方ないでしょう?」 確かにもう、聞くこともない。 それにきっともう、本当に会っても仕方ないのだ。 彼女の中に俺が望む答えはない。 「そう、だな。ワラシモリ。そうだな」 寂しいけれど、二度と、会うことも、ないだろう。 ぽっかりと胸に穴があいたような寂寥を感じる。 「次の奥宮と先宮がどんな人たちか、楽しみにしてるわ。この長い退屈の中、あなたたちに会うのは私も楽しみなの」 「次の、奥宮………」 次の儀式は、20年後か。 その時には俺とは違う、新しい、奥宮が来るのだ。 一兄か、双兄か、天か、その誰かの子になるのだろうか。 ざわりと全身が総毛立つ。 「因習に囚われ苦しむ人間の感情は、とても心地いいわ。可哀そうな人たち。本当に本当に可哀そうな人たち」 「………」 嬉しそうに口を袖で隠して笑うワラシモリ。 可哀そうな、人たち。 二葉叔母さんも、俺も、そして次の奥宮になる誰か、も。 「ではな、宮守の小僧。幾久しく健やかなるように」 ワラシモリがそう言って、大人びた顔で笑う。 俺も、なんだか、自然と、笑顔が浮かんできた。 「ワラシモリも、元気で…、っていうのは、おかしいか」 「ふふ」 ワラシモリが楽しそうに笑う。 元気で、なんて滑稽だ。 「どうか、穏やかで幸福で、ありますように」 幾久しく健やかであることも、穏やかで幸福であることも、俺たちには無理な話だ。 老い病んできているワラシモリ。 どんな道を選ぼうと、長くはきっといられない俺。 なんて、馬鹿馬鹿しく空空しい会話だろう。 「優しく、ありますように」 でも、幸福を、祈るよ。 優しい神が、優しい少女が、少しでも胸を痛ませないように。 「ええ、お兄さんも」 ワラシモリはくすくすと笑う甘やかな声を耳元に残すと、闇に溶けるように消えた。 そして後に残されたのは、星空の下の田舎道。 まるで、最初から何もなかったかのように、しんと、静まり返っている。 ワラシモリがいた形跡は、やっぱり、何もない。 「………」 座り込んだ地面は、じっとりとわずかに湿っている。 寝間着代わりの浴衣が、汚れてしまった。 「で、お話は終わったの?」 後ろから、耳に馴染んだ声が響く。 静かな夜の闇を、切り裂くような鋭い声。 「………うん」 「聞きたいことは聞けた?」 足音が、静かに近づいてくる。 「聞けた」 「答えは出たの?」 「誰も俺が望む答えを知らないってことが、分かった」 聞きたいことは聞いた。 そして、何も分からなかった。 それが、分かった。 「それは真理だね」 振り返らなくても分かる。 きっと皮肉げに唇を歪めて、笑っているのだろう。 「夕飯だよ」 天が俺の隣にきて、手を差し伸べる。 見上げると、星空を背景にした綺麗な弟。 でも、星空よりも、天は月の方が似合う。 冴え冴えと冷たく光る、暗闇の月が、とても、似合う。 手を取ると、その手はいつものように冷たかった。 「また汚くなって。風呂入ったんじゃないの?」 「そうだな。体も冷えた」 浴衣を汚してしまったから、宿の人には謝らなきゃいけない。 もう一度、風呂に入った方がいいかもしれない。 「天」 「何?」 ぐいっと手をひっぱられて、勢いで立ち上がる。 乱雑に手を離し、踵を返す天の後ろに続く。 「お前は、家を壊したいんだよな。何があっても」 「うん。心から」 天は振り返らないまま、答える。 当然のように、なんの気負いもなく。 「そう、か。それがお前の大事なもの、なんだな。守りたいもの、なんだな」 「そうだね。心が腐り落ちて生きたまま死ぬぐらいなら、いっそすべてを消してしまいたい」 「………そうか」 天の気持ちも分からない。 でも分かる気もする。 「………メシ、食おう」 「そうだね」 もう一度見上げた空は、降ってくるような星々が、キラキラと光り輝いていた。 山のものを取りそろえたおいしい食事を終え、俺たちの部屋で3人でお茶を啜る。 特に見るものもないがつけたテレビの音が賑やかで落ち着く。 「なあ、ごめん、天。もう少しいたいって言ったけど、明日、移動できるかな」 「移動?」 さっきから考えていたことを向かいに座り足を投げ出してテレビを見ていた弟に問う。 天はちらりとこちらを見て、首を傾げる。 「うん。別の宿に、行きたい」 「帰りたい訳じゃないの?」 「うん。もう少し、ぶらぶらしたいな。昨日泊まった宿でもいいんだけど、後、二、三泊ぐらい」 ワラシモリとは話した。 もう聞くことはない。 ここにいる理由は、もうない。 でも、家に帰りたいわけじゃない。 やりたいことも、ある。 まだ、家には帰りたくない。 あの薄暗く冷たい家に帰ると思うと、胃の奥底がしんと冷える気がする。 「また唐突に言ってくれるね。もっと早く言ってくれればいいのに」 「ごめん」 「ま、いいけど。すべては兄さんの仰せのままに。三泊?全部違う宿がいいの?」 「二泊でもいいけど、宿は違うところでも、同じところでもいい」 「了解。じゃあ、宿の手配は、どうしようかな」 天は軽く肩を竦め、携帯を手に取った。 そこで机のもう一辺、俺と天の間に座っていた志藤さんが控え目に申し出る。 「では、それは私が、手配しておきます」 「そうですか、頼みました」 天はひらひらと手をふって、志藤さんに一任した。 立ち上がる志藤さんを、慌てて呼び止める。 「あ、志藤さん、ひとつお願いがあります」 「はい、なんでしょう。何か、お部屋にお希望などありますか?」 志藤さんが穏やかに笑って、俺を見下ろす。 その眼がとても優しくて、胸が痛くなってくる。 「その、えっと、部屋を二つとってくれますか?」 「え、は、はい」 志藤さんは俺のお願いに、面食らったように目をぱちぱちと瞬かせる。 「一泊だけでいいんですが」 「は、はい」 「はい、お願いします」 志藤さんの穏やかだった表情が、少し曇る。 声がわずかに、暗くなった気がする。 「あ、志藤さん?」 「………では、少し席を外しますね」 どうしたのだろうと声をかける前に、志藤さんはそそくさと部屋を出て行ってしまった。 急になんだ。 首を傾げていると、向かいの天が携帯をいじりながら言う。 「ひどいことするね。志藤さんとは同じ部屋に泊まりたくないの?」 「え、へ?」 やっぱり、なんのことか分からず、呆けた声が出てしまってた。 数秒考えて、思い至る。 「あ!そっか!」 志藤さんは俺が、志藤さんと同じ部屋は嫌だと言ったように思ったのだろう。 だから、傷ついたのか。 「ち、違うんだけど、うわ、どうしよう!」 「さあ」 天は相談に乗る気はないようで、携帯で何かメールでも打ってるようだ。 とんだ誤解だ。 そんなつもりは一切ない。 「………後で、いっとこ」 早々に誤解を解かなきゃいけない。 志藤さんは拗れると、ちょっと暴走しがちな人だし。 けれど戻ってきた志藤さんは、取りつく島もなかった。 宿を取ったことを告げると、そのまま素早く部屋を片付ける。 「あ、あの志藤さん!」 「では、私は先にやすませていただきます。隣の部屋におりますので何かありましたらお申し付けください」 そして呼び止める暇もなく、出て行ってしまった。 天がそれを見て、肩を竦めてからかうように言う。 「あーらら、かーわいそ」 「ち、違うんだけど」 ああ、申し訳ないことをした。 一際デリケートな人なのに。 明日はちゃんと誤解を解こう。 志藤さんのところにすぐに行こうかとも思ったが、明日ゆっくり話そうと思って今日はとりあえず諦めることにした。 気にはなるが、だらだらとテレビを見て、もう一度風呂に入って、早めに布団に入る。 電気を消すと、部屋が途端に静まり返る気がする。 消された電気がぼんやりと光って見える。 窓は障子で閉ざされているから、外の光が差し込み、部屋の中もうっすらと見える。 「もう、ワラシモリはいいの?」 窓の外からは、風の音がする。 電気をじっと見ていた俺に、ふいに天が話しかけてくる。 隣を見ると、天もまた天井を見上げていた。 「うん、いい。聞いても、仕方ないことだってわかったから」 「そう」 もう、ここですることはない。 だったら、ここにいても仕方ない。 「………」 したいこと。 しなきゃいけないこと。 しておいたほうがいいこと。 「なあ、四天」 ふいに、思いついて、声をかける。 色々考えていると、また眠くなれなくなりそうだった。 天は天井を見たまま、答えた。 「何?」 隣にごろりと体を向ける。 「そっち行ってもいいか?」 「はあ?」 心底馬鹿にしたような、はあ?だった。 そんなに嫌そうにしなくてもいいのに。 「………別に、嫌なら、いいけど」 「………」 天は顔をようやくこちらに向ける。 それから、一瞬の後、ふっと息をついた。 表情は、暗くて見えない。 「兄さんの仰せのままに」 それから上体を起こし、布団を持ち上げてくれた。 ずりずりと自分の布団から這い出し、天の隣に納まる。 家のベッドはでかいからいいが、一人用の布団に二人はやっぱり狭く、ぎゅうぎゅうと押し合いになり、体がはみ出ている。 まだ、暖かい季節でよかった。 「やっぱ狭いな」 「そりゃねえ。大の男が二人も寝てりゃ狭っくるしいでしょ」 「暑いし」 「嫌なら出てってよ」 嫌だって、訳じゃない。 相変わらず、会話のキャッチボールが出来ない奴だ。 まあ、天が嫌なのかもしれないけど。 「昔、こうやって一緒に寝たよな」 「今度は昔話?」 「少しは付き合え。お前はもう少し会話を成り立たせる努力をしろ」 ただ、話したいだけなのだ。 昔のように、何も考えずに、楽しいことだけを見ていた日のように。 「昔はあーんなに可愛かったのにな。小さくて、俺の後をついてきて、お兄ちゃんって呼んでくれてさ」 「過去の栄光を語るのは、未来の成功を語るぐらいむなしいことだね」 「俺にはどっちもないけどな」 「随分ブラックなジョークだ」 天の言い草に、つい笑ってしまった。 そういえば、天はいつだってこんな風に皮肉げで何を言っても動じなくて俺に同情した様子も見せない。 昔はころころと笑って泣いて、感情豊かだったのに。 「あんなに、小さかったのになあ。お前、いつから、笑わなくなったんだろうな」 「笑ってるでしょ」 「そうだけどさ」 作り物めいて見える、皮肉げな笑い方。 声をあげて無邪気に笑う天なんて、滅多に見ない。 小さい四天は、いつだって楽しそうだったのに。 「手も、体も大きくなったな」 布団の中で触れた手をそっとつかんで持ち上げる。 よく見えないが、堅くてごつごつした大きな手だった。 あの頃の柔らかく小さな手とは違う。 体もすっかり大きくなった。 俺よりも少し大きいぐらいになった。 その体には、大小さまざまな傷が残ってるのを知っている。 天の匂い。 天の手。 天の気配。 どれもすっかり馴染んだものだけれど、昔のものとはきっと違う。 昔こうして同じ布団で寝た日々が、なんだか、ずっとずっと、遠く感じる。 夢のように、幸せだった。 「なあ、天?」 「何?」 「ごめんな」 「何が?」 天が怪訝そうに問う。 体をごろりと倒して、天の横顔を見る。 天も顔だけこちらに向けていた。 「頼りない、兄で、かな」 小さく体を震わせて笑う。 「そんなの、今更だよ」 「まあな」 「それに、別に頼りないとは思ってないよ。馬鹿だとは思うけどね」 「そうか」 馬鹿で、何も出来ない兄だった。 弟が傷ついてることも、戦っていることも、何も知らなかった。 天の体に刻まれた傷も、この大きな手も、何も知らなかった。 |