「お湯加減いかがでしたか?」

お湯を借りて一階の廊下を歩いていると、旅館の女将さんが話しかけてきた。
夕食の支度をしてくれてるのか、廊下には煮物らしきいい匂いが漂っていた。

「とてもいいお湯でした。ありがとうございます」
「よかった。温泉ではないけど井戸水を沸かしていて、柔らかいお湯なんですよ」
「へえ、いいですね。すごくあったまりました。でもちょっと上せてしまいそうです。風にあたってきます」
「ええ。気持ちがいいですよ。でも、風が冷たくなってきてますから、湯冷めしないでくださいね」
「はい、ありがとうございます」

にっこりと笑いながら、女将さんは去っていく。
でかい風呂が気持ちよくてのんびりと湯に浸かっていたが、初夏に向かうこの時期、本当に上せそうだ。
少し、風にでもあたろう。
窓から見える外はすっかり日が暮れて、闇に沈んでいる。
今日は、月も見えそうにない。
暗闇は、嫌いだ。
足を早めて宴会場らしき広間を通り過ぎようとする。
襖の下の部分はガラスになっていて、暗い広間がかすかに見える。
そこで、視界の隅に何か赤いもの動いたのが見えた気がした。

「え」

慌ててもう一度見直すが、ガラスの向こうは暗闇が落ちているだけだ。
気のせいだろうか。
恐る恐る襖に手をかける。
カタリと小さく音を立てて、襖はなめらかにゆっくりと開いた。

「………やっぱり、誰もいないか」

そこには暗闇がそっと佇んでいるだけ。
しんとして、物音ひとつしない。
少しだけ自分の臆病を笑って、また襖をゆっくりと閉める。

「外で風にあたろう」

独り言をいいながら振り返ったそこに、赤い着物の少女がいた。

「こんばんは、お兄さん」
「うわあ!」

あまりにも唐突な登場に、慌てて後ろに跳び下がり襖に背中をぶつける。
大人びた少女は、鮮やかな赤い着物を身に着け、にっこりと笑っている。
それは、今日の昼会ったばかりの、少女の姿をした異形。

「わ、ワラシモリ!」
「そんなに驚かないでちょうだい。哀しいわ」
「だ、だったら、驚かすなよ」
「うふふ、ごめんなさい」

俺のビビりようが楽しかったのか、くすくすとワラシモリが楽しそうに笑う。
こんな登場のされ方をしたら、誰だって驚くだろう。

「お兄さん、一人になったみたいだったから」

天と志藤さんは話があると言って、部屋にいる。
風呂に誘っても、どうせ志藤さんは来てくれないだろうけど。
仕方ないのかもしれないけど、ちょっと寂しい。
俺に対してどうしたって、気にしないのにな。

「外に行きましょうか。いい風よ」
「………」

ワラシモリが小さな白い指でそっと外を指さす。
さすがにその申し出には躊躇う。
神とはいえ、人に害を為さないとは、言えない。
前に来たときは、ワラシモリにもひどい目に遭わされた。
信用して、ついていっていいのだろうか。

「何もしないわ。そこまでよ。お部屋には私は近づけないし。私と話がしたいのでしょう?まあ、私はどちらでもいいのだけれど」
「………行く」

でも、悩んでも仕方ないか。
この機を逃せば次はないかもしれない。
自分の身を守る意味さえ、あるのかどうかも分からない。

「では、外で」

瞬きをした一瞬の間に、ワラシモリの姿は消えていた。
登場と同様の、唐突な退場。
気まぐれさは、変わらないようだ。
つい漏れた苦笑と共に、やや早足に玄関に向かう。
天に見つかったら、また何を言われるか分からない。
玄関から出ると、女将さんの言った通り、風は少し冷たかった。

「うふふ、いい夜ね」

旅館の前の道は畑が広がっていて、真っ暗だ。
人通りも、月もない。
ただ、暗闇の中、赤い輪郭だけが鮮やかに浮かび上がる。

「月が出てれば、よかったのに」
「月がない方がいい時もあるわ。お星様は月がない方が綺麗なのよ」

言われて空を見上げると、そこには満天の星空。
シャワーのように降って来そうな星空に吸い込まれそうになる。
ああ、そういえば星なんて、気づかなかった。
こんなに、綺麗なのに。

「それで、何を問うのか、己の中で答えは見えたのか?」
「………」

空を見上げているとワラシモリが聞いてくる。
しばらく星空を眺めてから、ゆっくりと視線を下した。

「………」
「なあに?」

自分の中の言葉を整理ながら、しばらく考える。
聞きたいこと、分かってるはずだ。

「ごめん、変なことを、聞くけど、嫌だったら、答えなくていいから」
「うん。どうぞ」

ワラシモリは鷹揚に笑って見せる。
やっぱり幼い見かけとは裏腹に、年上のお姉さんのようだ。
幼い少女たちの、意識が集まった存在。

「………ワラシモリは、嫌じゃなかった。哀しくなかった?家族に裏切られて………生贄に、されて」

ワラシモリは大人びた様子で眉を顰めて笑って見せた。

「その問いは意味をなさないだろう。妾はどちらかというと喰らう方だからな」
「………」

喰らうという言葉に、声を漏らしそうになって唇を噛む。
そんな俺を見て、ワラシモリは肩をすくめた。

「捧げられた時の記憶はない。眠り、目覚めたら、ワラシモリの中にいた。だから、妾は、幼く純粋なままでいられる。そのための年端も行かぬ少女を喰らうのだから」

幼く純粋なまま、痛みも苦しみも、感じることはなかったのか。
何も感じずに、その時を迎えることが出来たのか。

「幼く純粋な存在、か。その割には、幼くないよな、お前」
「ふふ」

幼い子供のように無邪気にふるまうこともあれば、疲れ切った老女のような表情を見せることもある。
今は、聞き分けのない子供に対応する年上のお姉さんのようだ。

「言ったでしょう。年月を重ねれば、私も老いるわ。神とはいえ私は元は人の子。長い年月を重ねるうちに、老いてしまった。村にいれば、自然人と交わる。老いとは無縁ではいられない」
「………」
「いつまでも、幼いままでいられればよかったのだけれど」

ワラシモリは裾で口を隠して、小さく笑う。
その言葉も表情も、言うとおり、とても大人びている。

「………じゃあ、その」
「なあに?」
「ワラシモリは人を喰らうのは、嫌?」

ワラシモリは、そこでにたりと唇を広げて笑う。
怖気を催すような笑みに、自然と一歩下がってしまう。

「病みが進むと苦しくて苦しくて、何も考えられなくなっていく。自分の存在が、消え失せそうになる。幼い肉が、何よりの馳走に見える。熱く溢れる血潮を啜り、柔い肉を噛みちぎり、湯気立つ臓物を貪る。甘い甘い肉を喰らうのは、何にも勝る歓び。打ち震え、叫びながら、食らい尽くす。本当に、気持ちがよく、甘い。お前にも味あわせてやりたい」
「っ」

滔々と歌うように夢見るように語る神に、吐き気がする。
俺の尺度では測れない存在。
非難しても、仕方ないのだけれど。

「そして正気に戻った後、噎せ返るような血臭が残されている。そんなことを、幾度繰り返したか」

ワラシモリは、また元の大人びた笑顔に戻る。

「もう、慣れた」

そして静かな表情でそう言った。
それは憤りも喜びも嘲りも何も感じない、平坦な声だった。

「まあ、何度目かに、抗おうとしたこともあったかな。もう、覚えてはいないが。ああ、ワラシの少女と、殊更仲良うなった時だったか」
「………辛かった?哀しかった?」
「覚えてないわ。でも、お友達がいなくなったのは、寂しかったかもしれない。幼く純粋な魂を喰らい、けれど染みはたまっていく。病み老いるのが、早くなっている」

ワラシモリはまるで着物に染みがあるかのように、忌々しく袖をはらってみせる。
その袖は暗闇の中でも冴え冴えと赤く輝き、汚れ一つないのだけれど。
そんな仕草は、酷く人間味を帯びて見えた。

「………ワラシモリは、本当に、人間らしいな。この前はもっと、神様って感じだったのに」
「所詮人間風情に、神の領域を侵すことは出来ぬのかもしれぬな」

自然に生じた訳じゃなく、人間によって作られた、神。
病み狂っていた方が、神に近いということだろうか。
それなら、人には神には、近づけないのは、仕方ない。

「お兄さんは、怖い?」
「え?」

ワラシモリが、覗き込むように見上げてくる。
なんのとか分からず呆けた声が出る。

「あなたが次の奥宮でしょう?」
「………知ってたのか」
「ええ、いつも大祭に来るのは、次の先宮と奥宮なの。何人も見てきたわ。あなたのように、私に話しかけてくる人は、多かったのよ。男の人が来るのは滅多にないけどね。そういえば、男の人は、あなたも、前の人も力が一際強かったわ」

奥宮はほとんどが女性だと言っていたっけ。
力が強いなんて言われても、今はもう複雑なだけなんだけど。
前ならきっと、飛び上がるほど嬉しかっただろうな。

「お兄さんは、大変ね?」
「………」

ワラシモリはまたそこでにたりと笑う。
楽しくて仕方ないというように袖に顔をうめてくすくすと笑う。

「宮守の業の深きは、魂に染みついている。恐ろしい恐ろしい。ああ、汚らわしい。愛する血族を長しえにも感じる苦痛に叩き落とすとは。ああ、なんとおぞましい」
「………」

あの苦しみの、痛みの、入れ物にされる。
ワラシモリのように自由に歩き回ることも、話すこともできない。
ただの道具。
入れ物、だ。

「だから、私、あなたたちには優しくしてあげるの」

ワラシモリは小さな両の手で、そっと俺の手を握ってくる。
その手に温かさは感じない。

「だって、可哀そうでしょう?泣いてる人いっぱいいた。私よりずっと可哀そう。ああ、可哀そう。可哀そうね、お兄さん」

可哀そうと繰り返しながら、嬉しさが堪えきれないというように震えながら笑う。
幼さと老いと、純粋と不純と、人間味と神性と、優しさと悪意を行ったり来たり。
アンバランスで、おぞましさと恐れと痛ましさを感じる存在。

「昔の奥宮は、泣いている人は、いっぱいいた?」
「うん、怖い、死にたくないっていう人、いたよ。今みたいに怖くないの、辛くないのって聞かれた。でも私は、分からないから、答えられないの」
「………」
「ごめんなさい、答えてあげられればよかった。私、答えられなかったの」

本当に落ち込んでいるようにしょんぼりと肩を落とす。
その様子は君は悪くないといって、肩を抱きしめたくなるほど頼りない。

「怖い怖い、奥宮になんてなりたくないって泣いた人もいた。逃げたいと言った人もいた。心は決まってるから、最後まで穏やかに生きたいって言った人もいたよ。皆の役に立てるのが嬉しいと言った人もいた。私も楽しく過ごせるといいって、祈ってくれた人もいた」

過去にいた奥宮は、何を考えて生きていたのだろう。
怖いと泣いた人もいたと聞いて、少しだけほっとする。
泣いてもいいのか。
怖いと言っても、いいのか。
逃げたいと言った人もいた。

「色々な人いたよ」

皆、この苦しみを感じてきたのか。
俺だけじゃなかったのか。
そうだ、あの、二葉叔母さんも、恐怖を感じていたのだろうか。

「………じゃあ、この前の、人は?」
「この前の人?」
「俺の前に、来た人。たぶん、二葉叔母さんじゃないかな。話した?」

ワラシモリは小首を傾げて少しだけ考える。

「その人かどうかは、分からないけど、前の人はえっと、そうね、話したわ」

蓄積された膨大な記憶をたどるように、目を瞑る。
暗闇の中でも光り輝くその姿に、長いまつげがくっきりと見えた。

「先の奥宮は、ああ、そうだ」

ようやく思い出したのか、顔をあげてにっこりと笑った。

「あやつは、嬉しいと言うておった」
「え」
「命が尽きる瞬間まで兄と共にいられるのが、とても嬉しいと笑っていた。そんな狂った自分が許されるのが、嬉しいと」
「………」

予想外の言葉に、どう反応したらいいのか分からない。
兄と、共にいられるのが嬉しいって、どういうことだ。
兄って、父さんのこと、だよな。
嬉しいって、なんで、どうして。

「おぬしら宮守の人間は肉親に惹かれるのだろう?ここに来た者たちも、自分が贄になると知っている人間すら、先宮を憎んでいる人間はほとんどいなかった。いや、憎みながらも慕っている、かな。妾にはよく分からないがな」

触れ合っても、兄弟では決してしない繋がりをもっても、嫌悪感や拒否感は感じなかった。
違和感はあったけれど、でも嫌じゃなかった。
裏切られ利用され、恨み憎んでも、それでも、信じたいと思ってしまう。
まだ、その心の底には、別のものがあるのじゃないかと、探してしまう。

「先の奥宮は、それが顕著な人間だった。おかしなやつだった」

人ではないモノになった、二葉叔母さん。
二葉叔母さんだったもののなれの果て。
苦痛に狂い死にたいと懇願していた、恐ろしく悍ましい姿。
それでも、望んでいた?
後悔は、なかった?

「それで小僧。おぬしは何を望む?怖いか?逃げ出したいか?泣きたいか?それとも嬉しいのか?」
「俺は………」

見つからない。
分からない。

「分からない。こんなに悩み探し求めても、見つからない。どこにも、答えがない」
「当然だろう。答えはおぬしのうちにしかない」

それは分かってる。
どうしたい。
俺は何がしたい。
どの道を選ぶ。

「ワラシモリ、雛子ちゃんは、どう、考えてる?今、雛子ちゃんは、何を考えているんだ?」

ワラシモリはそこで、つまらなそうに眉を顰めた。
どこか、不快そうな表情。

「聞いても詮無きことだと思うがな」
「………聞けないか?」
「そんなに聞きたいのか?ふふ」

不快そうな表情から一転、それから楽しげに笑った。
そしてまた、表情が変わる、あどけなく、幼い表情に。
表情だけでこれだけ印象が違うのかと、驚くほどに。

「ひなこ、やだな。お母さん、泣くのいやだよ。泣かないでほしい。ひなこを呼んで泣くの。泣かないでほしいな」

幼く甘い、声。
記憶の中の顔と違う。
記憶の中の姿と違う。
けれど、それは記憶の中にかすかに根付いている、声。

「笑ってほしい」

ワラシモリは、頼りなく小首を傾げて笑う。
年上の人間に甘える、幼女の仕草。

「雛子ちゃんは、お母さんのこと、好き?」
「大好き!」

ああ、その笑顔は、あの時と、何一つ変わらない。
しゃがみこんで、その小さな顔をしっかりと覗き込む。

「ひなこはお母さんが泣くのが、嫌だよ。だから、早く、ひなこのこと、忘れてくれればいいな」
「………っ、でも、辛く…、かなしくないの?怖くないの?いやじゃないの?」

そこでワラシモリ、雛子ちゃんは胸を張って鼻を膨らませる。
嬉しそうに頼もしく笑って見せる。

「ひなこ、お姉さんになるの。だからお母さん、寂しくないよ」
「でも、でもっ、お母さんに、会えなくて、いいの?」
「ちょっとさみしいかな。でも、ひなこ、お姉さんだから、お母さんと、赤ちゃん守ったげるの。うふふ」
「………っ」

胸が熱くなって、目頭が熱くなってくる。
幼く、純粋な存在。
ああ、本当に尊く綺麗で、穢れのない存在だ。
俺なんかとは、まったく違う。

「こんなものか。満足か?」

ワラシモリがガラリとまた表情を変える。
さっきのは本当に雛子ちゃんだったのだろうか。
ワラシモリが俺をなぶるために、演じたのだろうか。
分からない。
でも、苦しい。

「………ワラシモリが、由紀子さんたちと、会わないのって………」
「泣いている女は、嫌いよ」

ワラシモリは冷たく、言い放つ。
でもそれだけなのか。
なぜ嫌いなんだ。
子を探して彷徨う母のもとに、姿を現さないのは、なぜだ。
ワラシモリは純粋で優しい、子供の神。

「困った奴だな、宮守の小僧。いいか、お前と妾は違う」

しゃがみこんだ俺の頭を、そっとワラシモリが撫でる。
熱はないはずなのに、温かさを感じる。

「私たちは、幼い少女のまま、苦痛も悩みも知らず、純粋なまま神となる。お兄さんとは、違うわ」

ワラシモリがまた唇を持ち上げて、にたりと笑う。

「本当に困った奴だな。奥宮とは、真に哀れな存在だ。可哀そうね、可哀そう。ああ、可哀そう。哀れな哀れな、まったく哀しき存在よ。傀儡となりて踊らされても憎み切れずに自分を責める。くっくく、本当に哀れなものだ」

ワラシモリは、雛子ちゃんは、こんな存在になっても、人を想う心を持っている。
俺は、自分のことしか、考えられない。
怖い逃げたい、元に戻りたいとしか、考えられない。
どうして、こんなに違うのだろう。

「私はね、お兄さん。奥宮の人たちが、好きだったわ。心地がいいのよ。とても強いわ。すべてを飲み込んでくれる、強さがあるの」

小さな手が優しく頬を撫でる。
強いと言ってくれたのは、そういえばワラシモリだったっけ。

「おぬしの苦しみも心地いい。苦痛に歪む顔が、負の感情が、とてもうまい」

頬を撫でていた手が、今度は俺の首に爪を立てる。
ずきりと、小さな痛みが走る。

「お兄さんの、力も、心も、好きよ」
「………」
「とても、気持ちがいい」

ワラシモリが、ついに膝をついて座り込んだ俺の頭を抱えて、優しく頭を撫でてくる。

「だから、いつか、誰かが祈ってくれたように私も祈るわ」

そして耳元で、優しく優しく、子守唄のように囁く。

「お兄さんが楽しく穏やかで、幸福でありますように」





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