二人でシャワーを浴びて、なんとか朝食の時間までにはダイニングに行くことが出来た。 サラダなど冷たいものが準備がされたテーブルにはすでに天が座っていて、悠々とお茶を飲んでいた。 「おはよう、天」 近づいて挨拶をすると天が綺麗な顔でこちらをじっと見て、棒読みで言った。 「おはようございます。ゆうべはおたのしみでしたね」 それは、ずっと前に俺もやったことのある古典名作ゲームのワンフレーズ。 ゲーム中に出てきたその一言に、ゲームだっていうのにドキドキしたのを覚えている。 「な」 「し、四天さん!」 思わずなんて答えたらいいのか分からず、固まってしまった。 隣の志藤さんも焦って上ずった声を出す。 「あ、本当にヤったんだ」 「………っ」 そんな俺たちの反応を見て、天は面白そうに小さく笑った。 別に隠すつもりも、恥じるつもりもないけれど、ストレートにあてこすられて顔が熱くなってくる。 隠すつもりも恥じるつもりもなくても、やっぱりそういうことを明け透けに話すものでもない。 そもそも、なんてそんなすぐにバレたんだ。 「な、なんで、そんな、わかって」 「大事なお話をする時はお部屋の中で、窓をきちんとしめましょう」 「………」 そういえば、天の部屋は隣で、もしかしたら窓を開けていた可能性だってあった。 あんな話を、ベランダでするもんじゃなかった。 ああ、俺が、考えなしだった。 「兄さん目が赤いし、ふらふらだし。大丈夫?」 「………」 確かにちょっと歩くのがまだぎこちなくなってしまう。 しばらく経てば普通になると思うけれど、体がちょっとだるい。 二回目まではまだよかったのだが、三回目でさすがに体力を使い果たした。 とか昨日の夜のことを思い出して、さすがに恥ずかしくて視線をそらしてしまう。 「随分無理させたみたいですね、志藤さん。うちの大事な兄、怪我させてない?」 天の皮肉げな言い方に、志藤さんががばっとその場で頭を下げる。 「も、申し訳、ありませんっ」 その土下座せんばかりの勢いに、俺も焦ってしまう。 「し、志藤さん!怪我とかないですよ!?」 「いえ、ご無理をさせたのは、確かですし………」 「いや、でも」 「とりあえず座れば。目立つし」 そして引っ掻き回した本人は涼しい顔をして着席を勧める。 確かに客が少ない分、人目をひいている。 いきなり頭を下げだした志藤さんなんて余計だ。 なんか変な集団になりつつある。 「し、志藤さん、座りましょう」 「は、はい」 周りに曖昧に頭を下げ騒がしくしたことを謝りながら、座る。 「………」 「………」 黙り込む俺と志藤さんとは裏腹に、四天は涼しげな顔でお茶を啜っている。 そして、長いようで短い沈黙を破ったのは志藤さんだった。 「このたびは、本当に、申し訳、ありません………」 「いや、別に責めるつもりはないんですけどね。楽しいからつっこんだけで。自由意志の恋愛は好きにやってって感じだし」 天が頭を下げる志藤さんを見て、喉で笑う。 つまりからかったってことだな。 いや、分かってたけどさ。 「ま、うちの怖い怖い家族にはバレないようにね」 「………」 「あの人たちが人のことなんてどうも思わないってことぐらい、もう分かるよね?」 最後の言葉と視線は、俺に向けられていた。 その意味を噛みしめて、ゆっくりと頷く。 天はそれを受けて、同じように頷いた。 「兄さんは巻き込んだなら、最後まで責任とってね」 「………分かった。でも、お前に、迷惑かけるかもしれない。後で相談させてくれ」 「………ふうん」 俺の言葉に天が、じっと俺の顔を見つめる。 それから小さくため息をついて、頷いた。 「了解」 そこで従業員の人たちがやってきて、スープやパンや昨日焼き方を聞かれていたオムレツなんかを持ってきてくれる。 寝不足のせいかあまり食欲はなかったが、ホカホカと湯気を立ててとろりと蕩けてみるオムレツに胃がきゅうっと鳴った。 「えっと、いただきます」 「いただきまーす」 「いただきます」 とりあえず、スプーンをもって朝食を始める。 カリフラワーのスープは濃厚で胃の中から温まってとてもおいしい。 「で、兄さん」 「ん、何?」 「俺と一矢兄さんと志藤さん、誰が一番よかった?」 「ぶっ」 飲み込んだスープが喉につまった。 「ご、ごほっ、四天さん!」 同じように水を飲んでいた志藤さんが咽ている。 「やっぱり俺が一番経験ないし、劣るかなあ。残念」 「そういうのは、やめろっ」 「だって気になるじゃん。どうだった?上手だった?」 「天っ」 前から、こんな風にからかうように言う。 そんなの、比べるものじゃないし、比べられない。 比べたくもない。 どっちにしろ、いつだって俺はついていくので精いっぱいで何がどうとか覚えてない。 「今度感想聞かせてね」 「天!」 「はいはい。それにしても、兄さんそんなで動けるの?ここに後一泊する?」 「………大丈夫だと、思う」 「そう」 ちょっとだるいけど、動けないほどではない。 だんだんと回復もしてきている、大人しくしてたらすぐに元通りだろう。 なんだかんだで、今回でもう、5回目だし。 志藤さんがとても心配そうに、俺の顔を覗き込んでくる。 「本当に大丈夫ですか?無理はなさらないでください」 「大丈夫ですよ。でも今日は後部座席でちょっと寝させてもらいますけど」 「………はい」 そこでまた、怒られた子供のようにしゅんとしてしまう。 そんなこの人が、可愛くて仕方ない。 しっかりしていて、強くて、本当は何でもできる人なのに、俺の行動に一喜一憂してしまう。 そんな情けなくいところが、とてつもなく愛しく、可愛い。 俺のことなんかを、どうしてこんなに、好きになってくれているんだろう。 「大丈夫ですってば。ちょっと眠いだけです」 笑って見せても、それでも気遣わしげに眉を顰めている。 本当に、愛しい愚かな人。 「そりゃまあ、随分頑張ったねえ」 そしてまた、向かいの弟がまぜっかえす。 「天っ」 「四天さん!」 「はいはい、ステレオ放送で言わないでいいよ。仲がいいね」 「お前は………」 どこまで茶化すつもりなんだ。 こいつは俺に嫌わるためにこんな態度を取ってたとか言ってたけど、絶対素だと思う。 まあ、いつも通りのこいつの態度に、ほっとするところもあるんだけど。 「じゃあ、まあ、次の宿に行くってことで」 「うん」 それでいい。 後、一泊か、二泊。 今日は、天と話さなければいけない。 「それにしても」 天がすっと張り付いたような笑顔を消して、俺をじっと見る。 「俺は、兄さんのその吹っ切れたような態度の理由が気になるかな」 「………」 なんて言ったらいいか分からなくて黙り込むと、器用に片眉をつりあげて首を傾げる。 「それは今日聞かせてもらえるのかな」 「………うん」 頷くと、天はふっとため息をついてから、お茶を啜る。 「そう。それが俺の想像通りじゃないといいかな」 目を伏せて呟く天の顔は、酷く大人びて見える。 天はいつだって、冷静で落ち着いていて、大人びていた。 気が付けば、子供らしさなんて、失われていた。 こいつが子供でいられた時間って、どれくらいあったんだろう。 「………」 お前の想像している答えは、いったいなんなのだろう。 暗闇 暗闇。 暗闇の中。 暗闇の中の、更に深い深い深い、濁って凝った闇の中。 怖い怖い。 ここは、怖い。 ああ、でも、これは夢だと分かる。 いつかの、夢。 「い、やあ、だああ、ああああ、いや、あ、あ、うわああ、あああ」 自分の叫び声が、聞こえる。 視線は目の前の恐怖の塊に張り付いたまま、ただ喉が破れるほどに叫んでいる。 目の前のモノが何かは分からない。 でも天に言われて、すぐに理解した。 目の前のオソロシイモノに、いつか自分が飲み込まれるのだと、そう理解した。 あの恐ろしい真っ黒で悍ましいモノに、食らいつくされるのだと。 今にも自分がなくなってしまいそうな、恐怖と絶望感。 「三薙、四天!」 焦ったような声が、宮の中に響く。 でも、叫び続ける俺には、それに目を向ける余裕なんてない。 「あああああああ、うあ、いや、ああああ」 叫び、鼻水を垂らして泣きじゃくり、けれど逃げることすらできない。 手も足も、闇が絡みつき、捕えられているようだ。 自分のものとは思えない重い体を、誰かがぎゅっと抱きしめる。 「大丈夫だ、大丈夫、大丈夫、大丈夫だから、三薙、大丈夫だから、大丈夫大丈夫大丈夫」 「いやああ、だあああ、あああ、うわあ」 「大丈夫、大丈夫だからっ、ごめん、ごめんな、ごめんな、ごめん、大丈夫だから」 壊れたオルゴールのように同じ言葉を繰り返す人は、俺の頭を抱え込み、目の前の光景から隠そうとする。 けれど視界は塞がれても、あのオソロシイモノは今もすぐ近くにある。 「四天、お前!」 「どうして怒るの?」 幼い声がさも不思議そうに問う。 俺をここに誘った、無邪気で明るい、声。 「双馬お兄ちゃんも一矢お兄ちゃんも、お兄ちゃんを、アレにするんでしょ?」 「………っ、おま、え」 「僕は、教えてあげただけだよ」 見えない視界で、抱きしめている人が苦しそうにつぶやく。 「双馬、早くここから出るぞ」 「………っ」 「双馬、動け!」 焦りが滲む、また別の人の声。 そしてそこから、世界が真っ黒に閉ざされ、ぷつりと記憶が途切れる。 その後は、真っ白な世界に揺蕩っていた。 微睡ながら、温かい何かに包まれている。 蕩けそうに優しく甘い声が繰り返し囁く。 「大丈夫よ。大丈夫。全部忘れてしまいなさい。大丈夫。ぜーんぶぜんぶ、怖い夢。怖い夢だったの。何もなかったのよ」 泣きたくなるほどに温かく優しいそれは、何度も何度も夢だと、囁く。 「ごめんね、三薙、ごめんね、ごめんね。ごめんなさい」 その声は優しく温かく嬉しくなるのに、なぜかとても辛そうで、こちらまで哀しくなってくる。 そんなに謝らないで、悲しまないで、どうして、泣いているの。 問う声は、彼女には届かない。 「怖いことは、全部お姉ちゃんが、隠すから。だから、忘れて。今だけは、忘れて。いつか、あなたが………」 そこは夢の中なのに、急激に眠気に襲われ、意識を失う。 優しい声の、最後の言葉は、聞こえなかった。 「あ………」 そして、目を開く。 オソロシイモノも温かく優しい声も抱擁も、もうない。 何も、ない。 かすかに響く振動。 ベッドではない、堅く狭いシート。 丸まるようにして、寝ているここは、車の中だ。 「そう、か」 さっきのは、夢だ。 でもたぶん、本当にあったことだ。 そうか、だから俺は、双姉を、忘れていたのか。 あの記憶ごと全部、忘れ去っていたのか。 双姉が、忘れさせてくれていたのか。 「起きたの?」 「三薙さん?」 前のシートから声が聞こえる。 夢の中の面影を残しながら、もう幼くはないだいぶ大人に近づいた声。 そして昨日の夜ずっと近くにあった耳に心地い男性の声。 「ん………」 眠気の残滓を振り払い、体を起こす。 体はやっぱりだるい。 車の中で寝たせいか、それともあんな夢を見たせいだろうか。 未だに、あの闇が、俺の体に巻きついている気がする。 「夢、見た」 「どんな?」 天がこちらをシート越しに振り向いた。 その目をみて、さっきの夢の内容を告げる。 「あの時の。奥宮の、夢」 「………」 天の眉がきゅっと吊り上る。 俺が何を言っているのか、理解したのだろう。 「あの時、天に連れられて、俺が奥宮を見て、その後、どうしたのか、そういえば、分からなかったんだよな」 あそこで俺があの光景を見て、今まで忘れていたこと。 あの後、俺たちはどうやってあそこから去ったのか。 「双兄と双姉が、助けてくれたんだな」 あそこで俺を抱きしめていたのは、双兄だった。 そしてたぶんあの焦った声は、熊沢さんだろう。 あの二人が、俺たち二人を、あそこから連れ出し、双姉が俺の記憶を、閉ざした。 「助けて、ねえ」 天が俺の言葉を鼻で笑う。 助けた、という言葉がどうやら気に入らないようだ。 「お前、一兄や父さんに、俺をあそこに連れて行ったって、バレてないんだろ?」 「………まあね。たぶんね」 俺をあそこに連れ出したのが天だとあの二人が知っているのなら、天の扱いはもっと違うものになったのではないだろうか。 だったら、双兄には、感謝するべきではないのだろうか。 「双兄に助けられたのが悔しいのか?」 「うーん」 天は前を向きながら、首を傾げる。 「俺は、助けられたとは思ってないかな」 そう言ってから、けれどまた今度は反対首を傾げる。 前を向いているせいで、その表情は見えない。 「でも、助けられたのかなあ。でも余計なことしやがってって気持ちもあるし。うーん、複雑」 余計なことしやがってとはまた随分な言い草だ。 今までは何も感じてなかったが少し気にしてみると、末弟の次兄に対する言動には、端々に棘を感じる。 「お前、本当に双兄に、きついよな」 「あの人たちのやり方が嫌なんだよね。優柔不断で何も決断できず、適当に手だけ出して場を引っ掻き回して後は高みの見物。ほんと、ムカつく」 笑い混じりながら吐き捨てるように言った。 嫌悪感が滲んだ、心底嫌そうな言い方だった。 「双兄と、双姉は優柔不断なのか?」 あの二人はどちらも明るくて行動力があって生き生きしていて、頼もしかった。 迷う姿なんて、ほとんど見たことがない。 ああ、でもこんなことになって、ボロボロになったところを、見た。 本当はとても繊細で弱く脆い人なのだと、そう、感じた。 「あの人たちはね、俺が宮守に対してどういう感情を持っているか知っている。どうしたいのか、うすうす知っている」 「そう、なのか」 ああ、だから、双兄は、一兄の立場は分かるし、天の気持ちも分かるとそう言ったのか。 天の気持ちは、もう知っていたのか。 「そう。でも黙ってる。家に告げることはしない。だからといって俺に協力することはしない。だったら何もせず見てればいいのに、今回みたいに手を出す。引っ掻き回すことしかしない」 「………」 「それでぐちゃぐちゃにした後に、傷ついて、自分が一番悩んでるって顔をする。どうしようもなくなると熊沢さんに泣きつく。ほんっとにタチ悪い。イライラする」 それはめったに聞かないほどに苛立ちと嫌悪を含んだ声だった。 ここまで嫌悪感をあらわにする天も珍しい。 ああ、でもここ最近はこいつの感情を表す姿をよく見ている気がする。 「………双兄のこと、嫌いなのか?」 「ストレートに言えばね」 「そう、か」 あっさりと言い放った言葉に、胸がずきずきと、痛む。 嫌い、か。 「どうしたの?」 天がまたシート越しにこちらを振り返る。 その態度は、いつもと変わらない。 変わらないのに、感じるものはほんの一月前とはもう何もかも違う。 「………喧嘩するけど、仲がいい、兄弟だと思ってたから」 「残念ながら、蓋を開けたらこんなもんだよ。がっかりした?」 「がっかりというか………」 がっかりは、している。 確かにしている。 でもそれ以上に、この胸の痛みは、苦しさは、哀しさは。 「寂しい」 どうしようもない、寂寥感と空虚感。 「俺は天、お前を羨んで、嫌って、憎んですらいたけど」 力が欲しくて欲しくて欲しくて、俺の手にいれられないものをなんなく与えられ思うがままにふるまう弟が羨ましかった眩しかった憎かった嫌いだった。 憧れ求めつつ与えられないものに焦がれて、余計に反発した。 「でも、やっぱり、好きだった。楽しいときもあった。お前と普通の話をしてる時は、楽しかった」 でも、小さいころ、後ろをついてくるお前が好きだった。 小さな手をひいて一緒に遊んだ日を覚えている。 仲が悪くなった後だって、一緒にゲームをしたりして、じゃれたりもした。 なんだかんだ言って、友人のいない俺のとって、大事な話し相手だった。 とても近しい存在だった。 「一兄も双兄も、大好きだった」 頼もしい憧れの兄達。 みそっかすで何もできない俺を時には怒って、時には優しく導いてくれた。 遊びにつれってってくれた。 色々なことを教えてくれた。 俺の世界はずっと、兄たちと弟で、出来ていた。 「だから、哀しい。寂しい」 天と喧嘩して、双兄にからかわれ、一兄がそれをやんわりとおさめる。 みんなで、冗談を言い合って笑ったことだっていっぱいあった。 そんなことをずっと続けてきた あれが全部嘘だなんて、思いたくない。 大好きだった。 みんな、大好きだった。 「だからさあ」 天の苛立った声が、俺の言葉を遮る。 「そういうフラグ立てるのやめてくれない?」 「フラグ?」 「急に昔を懐かしんでいいこと言い出すなんて、本当にべたなフラグすぎてやめてほしいんだけど」 頭を苛立たしげに乱暴に掻いている。 そして体ごとこちらに乗り出して、俺に指を突きつけた。 その顔は笑顔を浮かべていなかった。 「兄さんは憎めばいい。俺を、一矢兄さんを双馬兄さんと、父さんを母さんを、 宮守を」 真剣な顔で俺を見つめて、言い放つ。 大きくはない、けれど、何かを押し殺した強い声だった。 「全てに怒って、憎めばいい。兄さんにはそうしていい権利がある」 「………」 作られた俺の世界。 作られた俺の家族。 作られた愛情。 作られた思い出。 それをすべて怒り憎むことが出来たら、きっと楽だった。 |